第133話 先に引いとけば
答えは、翌朝に来た。
「明日、拳1つを切ります」
ヴェルナは、そう言った。
「その後は、指の太さでございましょう。物が通らなくなりましたら、声も通らなくなると存じます。……根拠はございません。そう思うだけでございます」
3拍で、閉じた。閉じ際の縁が、昨日より半指ほど内側にあった。
俺は地下の階段に座って、両手を膝に置いた。指が、まだ曲がったままだ。ミルカが彫るようになってからは、俺は投げるだけになった。それなら、曲がった指でもできる。治せば治るが、その魔力を、俺は1回分の穴に使っている。
「ゼノ」
「あぁ」
「引くのをやめれば、締まりは止まります」
「止まるだろうな」
「やめれば、閉じません」
ミルカは、事実を並べるときの言い方をした。この娘は、都合の悪い側から先に言う。
「ですが、開けなければ、話せません」
「あぁ」
「……ゼノ。これは、どちらかです」
18年、俺は選ばずに済ませてきた。欲しいものがあれば、両方取る方法を探し、たいてい見つけた。
今日は、見つからない。
引けば閉じる。引かなければ、閉じないまま何も来ない。どちらを取っても、取らなかった方が消える。
「あんた、どっちにする?」
リディアが、階段の上から下りてきた。
包帯の手で、手摺を掴んでいる。下りるのが遅い。刃を切り取る術を使いすぎて、手の力が落ちている。
「わたしなら、閉じない方を選ぶ」
「なんでだ?」
「開いてなくても、そこにあるなら、後で開けられる」
「後がねえかもしれん」
「無いかもしれない。わたしの母親は、後で開けるつもりで埋めて、埋めたことごと忘れた」
リディアは、そう言って、俺の2段上に座った。
俺は、この女が12年、年に1度だけ手紙を出していたことを思い出した。返事の来ない手紙だ。出せば、次の年も出せる。やめたら、そこで終わる。
「今日、8回開ける」
リディアは、返事の代わりに、階段の上を見た。リィナとミルカが立っている。
「ゼノ様」
リィナが、そう呼んだ。
「8回のあと、ご飯を食べてください」
1回目から6回目までを、俺は問いに使った。
ネフィスが従っている相手の名。ルシェが城のどこを守っているか。魔界の三軍が、今どこにいるか。人間界へ渡った者が、他にいるかどうか。
どれも、答えは3拍に収まる長さで返ってきた。この女は、3拍で言える形に切ってから喋っている。7日でそう変えたのだと分かった。
最後の問いに、ヴェルナは短く答えた。
「わたくし1人でございます。あの冬に渡り、戻りました。その後で、経路が消えました」
『教団を残したな』
「……ご存じでしたか」
「あれは、あなた様を探すためのものでございました」
「名と、刻印を残しました。あなた様が生まれ直されたなら、いずれ、その名に行き当たると思いました。……18年、誰も名乗りませんでした」
『名乗った』
「え」
『去年だ。俺が名乗って、取った』
向こうで、音がした。
床に、何かが落ちる音だ。石ではない。もっと軽い。布のようなものが、落ちた音だった。
「……お取りに、なりましたか」
『あぁ』
「では、あれは、役に立ちましたか」
俺は、その問いを彫らせなかった。
答えは一言で済むが、一言では足りない。その足りない分を、3文字の石で送る方法を、俺は持っていない。
18年、俺は黒鎖教団という名を知らずに生きた。去年、それを取った。その中に、刻印の無い者が35人いて、そのうちの1人が、今、この砦で荷を運んでいる。
『立った』
ミルカが、その2文字を彫った。
7回目を開ける前に、俺は石を2つ用意させた。
1つ目は、3文字だ。
『遅れた』
2つ目は、3文字だ。
『待つな』
ミルカは、2つ目を彫る手を止めて、こちらを見た。
「ゼノ。これは」
「彫れ」
「……はい」
彼女は、一度だけ目を閉じてから、鑿を入れた。いつもより、息2つ分だけ長く閉じていた。
7回目。1つ目を投げた。
拾う音がした。
『遅れた』を読んで、ヴェルナは声を出さずに、息だけをした。長い息だ。終わりの方が、震えていた。18年前まで、この女が人前で息を乱したのを、俺は一度も見ていない。
「……いいえ」
「お戻りになると、伺っておりました。伺った通りでございます」
8回目。2つ目を投げた。
石が落ちて、跳ねて、止まった。その先に、影が伸びていた。今度は、落ちる前からそこに立っていた。
拾う音がした。
そのあと、長い間、何も聞こえなかった。水路の音だけがあった。3拍のうち、1拍が丸ごと過ぎた。
「お断りいたします」
ヴェルナの声が、はっきりしていた。18年前、俺の左の椅子で報告を読んでいたときと、同じ調子だった。
「待つなと仰せなら、待ちませぬ。……その代わり、こちらから数えます」
何も変わらないと分かっていて、俺は穴の縁を掴んだ。
「ゼノ様。ひとつ、お願いがございます」
3拍のうち、2拍が過ぎていた。
「次にお開けになるときは、この床ではなく——城の広間へ」
閉じた。
俺は、閉じた場所に手を伸ばした。何も掴めなかった。
石を投げ始めた日から同じだ。それなのに、手を下ろすまでの時間が長くなった。
今日から、向こうは俺を待っている。
翌日、俺は開けなかった。
翌々日も、開けなかった。
その次の日も、その次も。7日、円に下りなかった。開けなければ、綻びは締まらず、いつか開ける日に、まだ開く。
その7日、俺は砦の石を積んだ。積み方は素人のままだが、千二百人の素人に混ざれば分からない。
7日目の夜に、ミルカが紙を持ってきた。
「ゼノ。あと、何日待ちますか」
「知らねえ」
「では、書いておきます」
彼女は、紙に線を1本引いて、その上に日付を書いた。
その紙を、壁に貼った。地下ではなく、中庭の掲示の板にだ。
「なんで、あんなところに貼る?」
「見た人が、数えてくれます」
その紙は、10日で、書き込みだらけになった。縦線のほかに、名前や、覚え書きや、字の練習まで混ざっている。
砦の者が、勝手に印を足していく。1日に1つずつ、縦線を引く。誰が始めたのかは分からない。千二百人のうちの誰かだ。
俺は、その板の前に立った。
縦線は、17本あった。太さがまちまちで、6本目だけが赤い。炭が無くなった日に、誰かが煉瓦の粉で引いたのだと後で聞いた。
「あんた、毎日それ見てるよ」
後ろから来たポーラが、椀を持ったまま俺の横に立って、同じ板を見た。
「これ、なんの数え」
「待ってる日数だ」
「ふうん。じゃ、あたしも1本引いとくかね」
女は、椀を片手に持ち替えて、炭で1本引いた。18本になった。
「増やすなよ」
「増やしてない。今日の分」
「今日の分は、もう引いてある」
「じゃ、明日の分」
ポーラは、そう言って、椀を俺に押しつけた。
「先に引いとけば、明日が来るでしょ」
俺は、その椀を持ったまま、板を見ていた。18本の線が並んでいる。いちばん端の1本は、明日の分だ。
18だ。
その夜、リィナが中庭を走ってきた。
木剣を背負っていない。急いでいるときの走り方だ。俺の前で止まって、息を整えずに言った。
「ゼノ様。外に、娘が1人来ています」
「追い返せ」
「追い返しました」
「じゃあ、なんで言いに来た」
「3度目だからです」
「最初は、5日前でした。次が、一昨日です。今日で3度目で、今日は、門の前に座って、動きません」
「何て名乗ってる?」
リィナは、そこで少し首を傾げた。
「短い名前です。聞き返しましたが、それ以上は名乗りませんでした」
「言え」
「——アス、と」




