第132話 輪の外
ミルカは、魔界の文字を4日で覚えた。
俺が教えたのは、線の引き方と、跳ねの角度だけだ。字の数は72ある。72のうち、彼女は4日目の夕方に、68まで書けるようになっていた。
「残りの4つは?」
「意味が分かりません。形は写せます」
「写せりゃいい」
「いいえ。意味の分からない字は、書きません」
その4つを、俺は教えられなかった。字の形は書いてやれる。形だけ渡して意味を渡さないのは、この娘の前では通らない。
どれも、人間の言葉に置き換えられない字だった。魔界の言い方で言えば済む。人間の言葉で言うと、どれも4行かかる。
「では、後にします」
ミルカは、そう言って、鑿を持った。
小刀ではない。彼女が自分で用意した、細い鑿だ。
彫るのが、速かった。
1文字に、四半刻ではなく、20を数えるほどしかかからない。17日、壁の写しを取り続けた手だ。線を引くことしかしてこなかった手が、石の上でも同じ速さで動いた。
「ゼノ。次を言ってください」
「『名を』だ」
「2文字ですね」
彼女は、石に向かった。
『名を』を投げると、拾う音がして、それから声が返ってきた。
「ヴェルナでございます」
18年ぶりに、その名を聞いた。人間の口からは一度も出たことのない音の並びだ。
俺は円の上に座ったまま、しばらく動けなかった。
「他の2人は、無事です」
ヴェルナは、そう続けた。
「ネフィスは、東の領を預かっております。ルシェは、城を離れません。……3人とも、生きております」
俺は、次の石を彫らせた。ミルカの手が、2文字を彫り終えるまでの間だけ、向こうは黙っていた。
『3人か』
3人だ。18年前、俺の下には三軍があって、それぞれに将がいて、その上に、この3人がいた。
「はい。3人だけでございます」
声が、少し低くなった。
「あの秋から、次元を渡れる者が、魔界から1人残らず消えました。渡る術を持っていた者は、順に殺されております。最後の1人が死んだのは、14年前でございます」
『誰がやった』
「……ザリエルの名で、動いた者たちです」
ミルカの手が、石の上で止まった。
俺の方を向いた目が、字を写しているときの目とは違う。
「ゼノ。今の名前は」
「あぁ」
「聖国の、あのザリエルですか?」
「同じ奴だ」
彼女は、俺が言う前に石に戻り、次の字を彫り始めた。
『こちらへ来られるか』
これを彫らせるまでに、俺は半日使った。訊けば答えが返る。それが欲しいものでなければ、次に訊くことが無くなる。
投げるまでに、2回分待った。
その2回を、俺は無駄に使いたくなかった。だが、3文字を超えていたので、石が2つ要った。
2つ目を投げると、向こうで、長い沈黙があった。その間に、布の擦れる音が2度した。並べ直しているのではなく、姿勢を変えている音だった。
「……来られませぬ」
「渡る術が、こちらにございません。18年、探しました。魔界の中の書は、全て読みました。次元の術は、そもそも魔界で生まれたものではございませんでした」
『どこで生まれた』
「天界でございます」
俺は、掌を見た。皮の剥けた指と、乾いた血と、石の粉が爪の際に入っている。18年、この掌に器を作ってきた。その器で、12枚を組んで、綻びを引いてきた。
その糸を、縫った者がいる。
そいつは、天界にいる。俺を殺した者たちと、同じ側だ。
「正しい形を持っているのは、天界の者だけでございます」
ヴェルナの声は、平らだった。
「わたくしは、18年かけて、そこまで調べました。それ以上は、進めませんでした。……渡るには、渡る術が要ります。渡る術を得るには、渡らねばなりません」
その通りだ。
言われるまでもなく、俺は6日前から、それを知っていた。口に出す相手がいなかった。今日、初めて、同じことを別の場所から言われた。
ミルカが、鑿を置いて、両手を膝の上で組んだ。指の節が、白くなっていた。
「ゼノ。今の話は、輪になっています」
「あぁ」
「輪の外に出る道が、1つも書かれていません」
「……わたしは、そういう問いを、解いたことがありません」
俺は、次を彫らせた。
『あの日の段取りは』
これは、6文字だ。石が2つ要る。1つ目を投げて、2つ目を投げるまでに、四半刻かかった。
その間、向こうは何も言わなかった。待っているのだと分かった。
2つ目が届いてから、ヴェルナは話し始めた。
「あの日、天界の回廊へお出でになる日取りは、先方から参りました。書状は、わたくしが受け取っております。折り方が、それまでと違いました」
『どう違った』
「三つ折りが、四つ折りでございました。折り目の数が変われば、書いた者が変わっております。あの界の者は、折り方で身分を分けます」
「わたくしは、そのことを申し上げました」
声が、そこで一度、途切れた。
「申し上げましたが、止められませんでした。理由を3つ並べて、3つとも理由になっておりませんでした。……あの日から、わたくしは理由を並べるのをやめました」
俺は、彫るための言葉を探した。見つからなかった。
『書状は残っているか』
「燃えました」
『誰が燃やした』
「城の書庫が、その冬に焼けております。書庫の、東の棚だけでございます」
『中身は』
「外との書状を、20年分。天界から参ったものも、人間界から参ったものも、あの棚にございました」
ミルカが、「東の棚だけ」と紙に書いて、下に線を引いた。
「ゼノ。焼けたのは、棚1つですか」
「そう言ってる」
「火は、棚1つでは止まりません」
いつもより、口が速かった。
「止まったのなら、止めた者がいます」
俺は、その言葉を彫らせた。
『火を止めた者がいる』
投げると、向こうで息を吸う音がした。
「……考えたことが、ございませんでした」
「18年、燃えたものばかり並べておりました」
その日は、そこで器が尽きた。
翌日も、その翌日も、俺たちは石を投げた。ミルカが彫り、俺が投げ、ヴェルナが答えた。1日に8回。1回につき3拍。
3拍で聞ける言葉は、多くない。
だが、7日で、俺は18年分の穴の一部を埋めた。ネフィスが誰に従っているか。ルシェが城の何を守っているか。魔界が今、どういう形で分かれているか。3拍ずつ、7日分だ。全部足しても、半刻に足りない。
7日目の夜、ヴェルナが、先に喋った。
こちらが石を投げる前だ。
「ひとつ、申し上げます」
俺は、穴の縁を掴んだ。
「この裂け目は、日ごとに小さくなっております」
縁を掴んだ指が、そのまま止まった。
こちらから見る大きさは、変わっていない。3尺半だ。1日目から、ずっと3尺半で、縁の形まで同じだ。毎朝、同じ場所に指を掛けている。
「わたくしが見ておりますのは、床に開く光でございます。7日前は、膝を折って覗ける大きさでございました。今朝は、拳2つ分でございます」
3拍が終わる直前、向こうの光の縁が、確かに前より内側にあった。
閉じてから、俺はミルカを見た。
ミルカは、紙に何も書いていなかった。彼女は、鑿を握ったまま、その先を石に当てて、動かさなかった。
「ゼノ」
「あぁ」
「こちらからの大きさが変わらないのに、向こうで小さくなるのは」
「綻びが、締まってる」
布を引っ張り続けると、糸が締まる。
同じ場所を、22日引き続けた。引くたびに糸が寄り、その分だけ、向こうの側の口が細くなる。こちら側の縁は、俺が力で押し広げているから変わらない。
俺は、石を1つ握って、ミルカに渡した。手が、渡す前より重かった。
「彫れ」
「何と彫りますか?」
「『あと何日』だ」
ミルカは、鑿を入れかけて、途中で手を止めた。
「ゼノ。……訊いて、どうされますか」
俺は、答えなかった。
答えが無い。
18年、俺は数えてきた。器の割合、魔法の枚数、死んだ人間の数、戻らなかった者の数。数えれば、たいていのことは決まった。
「彫れ」
ミルカは、一度だけ袖で石の表面を拭いてから、鑿を入れた。




