第131話 すぐ戻る、留守を頼む
石は、置いてあった。
ミルカが、円の外から3拍を数え終えて、こう言った。
「ゼノ。あの石の下に、影がありません」
「どういう意味だ?」
「転がって止まった石は、床との間に隙間ができます。あれは、面で座っています。……誰かが、平らな面を下にして置きました」
俺は、次の石を彫った。
3文字だ。魔界の文字で「だれだ」と読める。線が15本ある。彫るのに、一刻近くかかった。
その間、俺は一度も手を止めなかった。
手を休めれば、考える。考えると、期待する。
投げた。
石は、跳ねて、転がって、置かれた石の横で止まった。向こうの床の低いところは、もう俺の石で埋まっている。
3拍で閉じた。向こうは、最後まで静かなままだった。
次を開けるまで、四半刻かかる。その四半刻を、俺は円の上で座って待った。ミルカは、紙に開けた時刻を書き、その横に、投げた石の字を写していた。読めない字を、形だけ写している。
2回目を開けたのは、四半刻きっかり後だ。
石は、動いていた。
「だれだ」の石が、向きを変えている。字の面が、上だ。
その横に、置かれた石が、もう1つ増えていた。79個のうちの1つだ。誰かが、散らばった中から拾って、字の見える向きに並べ直している。迷った跡が無かった。
3回目を開けたとき、音が来た。
歩く音だ。硬い床を、速い歩幅で歩いている。踵から下ろす歩き方で、走ってはいない。走らないと決めている者の速さだった。
止まった。
息の音がした。息を吸って、止めて、それから吐く音だ。吸う長さで、どれだけ驚いたかが分かる。この息は、長かった。
「……誰だ」
声が来た。
低い声だ。あの日と同じ声だ。18年前、俺の左の椅子に座って、報告を読んでいた者の声だった。語尾を投げず、途中で息を継がない。長い報告を読むために、この女はそういう喋り方を自分で作った。
「誰だと訊いている。答えよ」
答えられない。
こちらの声は、行かない。この22日で嫌というほど確かめている。それでも口が動いた。
3拍で閉じた。
俺は石を握り、小刀を入れた。
彫るのは、1文字だ。魔界の文字で「我」と読める。5本の線でできていて、そのうち2本は、端を跳ね上げないと別の字になる。
四半刻で彫って、4回目に投げ込んだ。
その瞬間に、向こうで音がした。
石が床に当たる音の後に、布の擦れる音。しゃがんだ音だ。拾っている。
「……我」
声が、その字を読んだ。
それきり、続かなかった。
「我、だと」
声が、低くなった。
「誰が寄越した。ザリエルか。……それとも、あの回廊の連中か。ここへ物を落とせる者は、その2つしかおらぬ」
俺は、5回目を待ちながら、次の石にまた1文字彫った。「否」と読める。
5回目。「否」を投げた。
拾う音がした。今度は、拾うまでが速い。
「否、か」
声は、一度、間を置いた。
「では、答えよ。お前が本人なら、答えられる」
「——お前が、最後にわたしに言った言葉は」
小刀を持った方の手が、動かなくなった。
忘れていたせいとは違う。覚えていたからだ。18年、一度も思い出さなかった言葉を、この瞬間に全部思い出した。
あの日、俺は天界の回廊へ行くと言った。
この女は止めた。下手な止め方だった。日取りが悪い、供が足りぬ、先方の書状の折り方がいつもと違う——理由を3つ並べ終わってから、どれも理由になっていないことに自分で気づいて、黙った。
「では、いつ、お戻りになります」
俺は、それに答えた。
11文字の言葉だ。
魔界の文字で書くと、55本の線になる。1つの石に彫れるのは、3文字までだ。4つに分けて、順番に投げる。
四半刻で1文字。
11文字で、11の四半刻。器は8割で、今日開けられるのはあと5回だ。どう配っても、今日のうちには届かない。
俺は、彫り始めた。
ミルカが、灯りを近づけたまま、腕が震えても動かさなかった。
「ゼノ。手を見せていただけますか?」
「後だ」
「血が、石に入っています」
「入っていい」
6回目。1つ目の石。3文字。彫り終えたときには、右手の指が3本、曲がったまま伸びなくなっていた。
投げた。
向こうで、拾う音がした。返事は無かった。
7回目。2つ目の石。3文字。
投げた。拾う音。
返事の代わりに、床を擦る音がした。並べているのだと分かった。順番が合うまで、あの女は何度でも並べ直す。
8回目で、器が空になった。
3つ目の石は、投げられなかった。
俺は、円の上に座り込み、残りの2つを膝の上に置いた。石が、掌の血で滑った。
「ゼノ。明日です」
「あぁ」
「向こうは、逃げません」
ミルカは、そう言ってから、慰めになっていないかを気にする顔をして、付け足した。
「……たぶん、待ちます」
「待たねえかもしれん」
「はい」
彼女は、そこは否定しなかった。
夜が来て、朝が来た。
器は、6割しか戻っていなかった。6割で、6回だ。
1回目。3つ目の石。3文字。
投げた。
拾う音。それから、石と石の触れる音がした。
2回目。最後の石。2文字。
投げた。
石が床に当たって、跳ねて、転がって、止まった。その先に、影が伸びた。誰かが、その上に立った。
拾う音。
11文字が、揃った。
『すぐ戻る。留守を頼む』
それが、あの日、俺が最後に言った言葉だ。俺は振り返らなかった。半日で戻るつもりだったから、その必要も無かった。
18年前の秋。天界の回廊へ出る前。俺は自分の左の椅子に座っていた者に向かって、そう言って出ていった。
戻らなかった。
3回目を開けた。
音が、来なかった。
歩く音も、息の音も無い。水路の音だけがある。誰も、そこに立っていない。石の並びだけが、さっきより整っていた。
穴の縁を掴んでいるうちに、3拍が終わった。
4回目。
音が、来た。
床に、何かが落ちる音だ。重い。布の音が一緒に来たので、人が膝をついた音だと分かった。
それから、息の音がした。吸って、止めて、吐く。さっきより長く、途中で崩れた。
息が、言葉になった。
「……生きて、おられるのですか」
俺は、答えた。
何も行かない。俺の「あぁ」は、この地下室の石に当たって、そこで終わった。
5回目までの四半刻を、俺は彫って使った。
1文字だ。線が4本。魔界の文字でいちばん簡単な字の1つで、俺が最初に覚えた字でもある。4本のうち3本を引いたところで、小刀の刃が欠けた。そのまま、残りの1本を引いた。
彫り終えて、血を拭き、5回目を開けて放り込んだ。
石は、跳ねなかった。
膝をついている者の、すぐ前に落ちて、そこで止まった。
手が伸びてきた。
その手を、俺は18年ぶりに見た。指が長い。爪が短く切ってある。左の手の甲に、古い傷が1本ある。俺がつけた傷だ。その日のことも、理由も、こちらは覚えていない。
手が、石を拾って、目の高さまで持ち上げた。1文字だけ彫ってある。
『生』




