第130話 79個
リィナが、木剣の柄を削っていた。
砦の中庭だ。積み直した石の上に座って、小刀で柄の端を削り、そこに何かを彫っていた。
「何をしてる?」
「名前です」
「誰のだ」
「カイさんです。攻城塔の日に死にました」
彫り方が、下手だった。
線が震えている。木の目に逆らって刃を入れるので、途中で欠ける。そこを、彼女は何度も彫り直していた。
「ミルカさんに書いてもらいました」
「書いた方が早いだろうが」
「書いたものは、雨で消えます」
リィナは、そう言って、また刃を入れた。
俺は、その手元を見ていた。
腹の底で何かが動いた。エリシアが名を消したと言った夜に動いたものとは違う。もっと単純で、もっと乱暴なものだ。
「リィナ」
「はい」
「その小刀、貸せ」
石は、行く。
音は来る。声は行かない。石は行って、向こうの床に落ちて、跳ねて、転がって、止まる。止まったところが、はっきり見える。
だから、石に彫ればいい。
そう思いつくのに、15日かかった。15日、俺は穴の前に座って、来ない声を待っていた。ほかの手は、考えもしなかった。
「ゼノ。何と彫りますか?」
「名前だ」
「誰のですか?」
「俺のだ」
ミルカは、羽根ペンを止めて、紙を1枚出した。
「わたしは、魔界の文字を知りません」
「知らなくていい。俺が彫る」
18年、俺は字を彫ったことがない。
前世でも無い。書く者がいたからだ。読む者と、書く者と、彫る者がいて、俺は読むだけだった。
小刀を石に当てると、滑った。
指を切った。血が石の表面に付いた。それを拭いて、もう一度当てた。
1つ彫るのに、半刻かかった。
魔界の文字は、線が5本あり、そのうち3本は曲がる。その角度で意味が変わり、間違えると別の言葉になる。
最初の1つは、間違えた。
彫り終えてから見て、「ゼノ」ではなく「底」と読めることに気づいた。
俺は、その石を横に置いて、2つ目を彫った。2つ目は、線が1本足りなかった。3つ目で、やっと読める形になった。
「ゼノ。手が」
「あぁ」
「血が、紙まで落ちています」
ミルカは、そう言って、自分の袖を裂き、俺の手に巻いた。手つきが乱暴だった。上手くやろうとして、失敗していた。
その日、3つ投げ込んだ。
穴を開けて、縁から放る。石は、向こうの床で跳ね、2度転がって、柱の根元で止まった。
3つとも、同じあたりで止まった。向こうの床は、中央がわずかに低い。だから転がった先が揃う。
閉じるまでの3拍、俺はその3つを見ていた。
翌日、開けた。
石は、そこにあった。3つとも、昨日と同じ場所だ。動いていない。
俺は、4つ目を投げた。
5日で、17個になった。
彫るのが速くなった。1つに四半刻。間違える数も減った。指の皮は剥けたままだが、剥けた方が滑らない。
17個は、柱の根元に散らばっていた。
誰も、拾っていない。位置も、向きも、投げた日のままだ。
10日で、38個。
38個のうち、いくつかは転がって、柱の陰へ入って、見えなくなった。その分を数に入れるかどうかで、ミルカと言い合いになった。
「見えないものは、数えません」
「向こうにはあるだろうが」
「あるかどうかを、わたしは確かめられません」
「見た者が2人いる」
「2人とも、見えなくなった後を見ていません。……わたしは、2千年前の写しで、それをやった人たちを知っています」
俺は、その言い方に腹が立った。
そのことに、自分で驚いた。
この娘は、正しい。17日間、壁の写しを取り続けて、深さを写していなかったと知った日から、この娘は「確かめられないものを数えない」と決めている。それを守っているだけだ。
「ミルカ」
「聞いています」
「腹が立った。あんたのせいじゃねえ」
ミルカは、羽根ペンを持ったまま、俺を見た。
「ゼノ。わたしも、腹が立っています」
「誰にだ?」
「2千年前に、線を1本落とした人にです」
彼女は、そう言って、紙に38と書いた。
15日で、56個になった。
56個の石が、柱の根元に溜まっている。誰も来ない。歩く音も、あの日以来、一度も聞こえない。
俺は、そこで初めて、あの広間のことを考えた。
あそこは、俺が死んだ場所ではない。
俺が死んだのは、天界の回廊だ。背中から来た冷たさで、そこで終わった。だが、俺の身体は魔界へ戻されたはずだ。誰かが、あの広間へ置いたのだろう。
柱に巻かれた鎖。
あれは、飾りで巻いたものとは違う。あの広間は、閉じてある。
「ミルカ」
「なんでしょう」
「あそこは、墓だ」
「……お墓、ですか」
「俺のだ」
言うと、ミルカは何も書かずに、羽根ペンを膝の上に置いた。
墓には、人が来ない。
来るとしても、年に1度か、2度だ。あの声も、たまたま誰かが話しながら外を通っただけだ。
石を56個投げ込んでも、読む者がいなければ、ただの石だ。
俺は、そこまで考えて、手を止めた。次の石を握ったままだった。
その格好で、半日いた。
半日のあいだに、上から3人下りてきた。リィナと、ポーラと、フィーネだ。3人とも、何も言わずに上がっていった。ポーラは椀を置いていった。フィーネは、炭で床に線を引いて、数字を書いていった。
日付だった。
冬至まで、あと11日と書いてあった。字の横に、椀の輪の跡が2つ付いていた。ポーラが置いた椀と、その前の日に置いた椀だ。どちらも、俺は手をつけていない。
冬至は、リディアが母へ手紙を出した日だ。
12年、1年に1度だけ、『生きている』と書いた。返事は来ない。それでも、12回書いた。
俺は、床の炭の字を見てから、次の石を彫り始めた。
22日目の朝だった。
器が8割まで戻っていた。8割あれば、8回開ける。1回目は、まだ暗いうちに開けた。
柱の根元を見た。
石は、79個ある。数えるのに、2拍かかるようになっていた。
79個のうち、1つが、こちらを向いていた。
字の面が、上だ。
投げ込んだ石は、跳ねて転がる。どの面が上になるかは、投げた者に選べない。79個のうち、字の面が上になっていたのは、これまで1つも無かった。
字は、平らな面を選んで彫る。転がった石は、平らな面を下にして止まる。
俺は、穴の縁を掴んだまま、閉じるまでの3拍、その石を見ていた。
石は、他の78個から少し離れたところにあった。
きれいに置いてあった。倒れないように、下の面を選んである。
閉じてから、俺は階段を駆け上がった。
中庭でミルカを見つけて、腕を掴んだ。細い腕で、力を入れすぎたと後で分かった。
「ミルカ」
「……痛いです」
「石が、置いてあった」
「置いてある、とは」
「転がったんじゃねえ。置いてあった」
ミルカは、俺の顔を見て、走り出した。羽根ペンも紙も持たずに、階段を下りていった。俺より速かった。
俺は、その後ろを追った。




