第129話 上から来た娘
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麦の刈り跡に、娘が1人、倒れていた。
見つけたのは、メルセア南部の畑の持ち主だ。夜明け前に水を見に出て、畑の真ん中に白いものがあるので、最初は鷺だと思った。
近づくと、人だった。
娘は、意識があった。
だが、起き上がれなかった。両手を土についたまま、肩で息をしている。息の仕方が、水から上がった者のそれだった。
「おい。生きとるか」
「……いきて、います」
「どこから来た?」
娘は、一度、口を閉じた。
「うえ、です」
男は、空を見て、それから娘の背中を見た。外套の下が、不自然に盛り上がっている。荷を背負っているようには見えない。
「荷物か」
「そうです」
「重そうだな」
「……重いです」
娘は、そう答えた。嘘ではなかった。
畳んだ翼は、重い。
天界では、重さが無い。人間界では、翼にも重さがある。その分だけ、背中が後ろへ引かれる。
歩くと、後ろへ倒れそうになる。
彼女は、その日の午前中を、歩き方の練習に使った。
男の家は、畑の端にある。
妻と、息子が2人。妻は、娘を見るなり、竈へ行って、鍋を火に掛け直した。何も訊かずに、木の椀にスープを注いだ。
「食べな」
娘は、その椀を両手で持って、しばらく湯気を見ていた。
「熱いよ」
「はい」
「はい、じゃなくて。冷ましてから」
「……冷ます、とは」
妻は、手を止めて、息子の1人を見た。息子は、口を開けて、娘を見ていた。
冷まし方を教わるのに、椀が1つ空になるだけの時間がかかった。
息を吹きかけると、表面の湯気が動く。動いたところから飲む。それだけのことだ。だが、娘は吹き方を知らなかった。
3度目で、できた。
彼女は少し笑った。眉の端が下がる笑い方だ。困っているようにも見える。
「名は?」
「アス、といいます」
アステリアは、18年待った。
すぐには動かないと決めていた。転生した者が動けるようになるまでには、時間がかかる。それがどれくらいかを、彼女は知らなかった。
だから、多めに見積もった。
18年。人間の子が、鍬を持てる年齢になる年数だ。畑の男の上の息子が、ちょうどその年だった。
彼女が持っているものは、3つだ。
母に教わった次元魔法。人間界の言葉。そして、あの人が最後に言った言葉。
『もし、何かに嵌められて死ぬことがあれば——人間界に転生するような仕掛けをしてある』
言われたとき、彼女は笑って、「そんなことにはなりません」と答えた。その言葉を、18年、毎日思い出している。
次元魔法は、場所を選ばない。
正しく組めば、どこへでも開く。境も、線も、要らない。母は「開ける場所を探すのは、術が足りていない証拠だ」と言った。
だから、彼女はこの畑に落ちた。
場所に意味は無い。彼女はそれを分かっている。それでも、落ちてすぐ、あたりを見回した。
誰もいなかった。
麦の刈り跡が、地平まで続いていた。
彼女は、そこで初めて、この界の広さを知った。天界からは、人間界が1枚の絵に見える。絵の中に降りると、絵ではなかった。
3日、その家にいた。
3日で、翼の畳み方が上手くなった。肩甲骨の下で二重に折ると、外套の下でも目立たない。歩くときに、少しだけ前へ傾く。
下の息子が、その背中を触ろうとした。
「アス姉ちゃん。背中、なに」
「翼です」
「うそだ」
「そうですね」
嘘だと言われたので、彼女は肯定した。
答えてから、そういう返事の仕方でよかったのかが、後まで分からなかった。人間の子供は、嘘だと言いながら、信じていないわけではない。この加減が、彼女にはまだ分からない。
出発の朝、妻が布の袋をくれた。
中に、乾し麦と、硬いパンが入っていた。
「金は?」
「……お金、とは」
妻は、椅子に座り、こめかみを押さえた。
「あんた、どうやってここまで生きてきたんだい」
「誰かが、くれました」
「そりゃ運がいいね。運は続かないよ」
女は、そう言って、銅貨を6枚、袋に入れた。
北へ歩いた。
理由は1つだ。北の方が、人が多い。人が多い場所に、18年前に生まれた者の話が集まる。
その中から、1つを選ぶ。
選び方は、まだ決めていない。そのまま歩いている。
町では、噂を聞いた。
市の立つ日に、井戸の周りへ行くと、人が喋っている。たいてい、値段と天気と、戦の話だ。
この年の噂は、戦だった。
「三国境の砦が焼けたそうだ」
「聖国が来たんだろう」
「なんで来た?」
「悪魔を捕まえに来たとよ」
アステリアは、その井戸の縁で足を止めて、水を汲む振りをした。
「悪魔」
「大悪魔だとさ。人間に化けとるって話だ」
「そりゃ聖国の言い分だろう」
「言い分でも、砦は焼けた」
彼女は、その話を最後まで聞いてから、桶を引き上げて水を飲み、歩き出した。
探しているのは、大悪魔とは違う。人間として生まれた者だ。転生とは、そういうものだと母に教わった。生まれ直した者は、前の姿を持たない。悪魔と呼ばれるはずがない。
彼女はその噂を外して、別の話を探した。
北へ行くほど、話は増える。その中に、砦の話がまた出てきた。今度は、もう少し細かかった。
「聖国の兵が、光の輪を持っとったそうだ」
彼女は、振り返った。
「いまの、もう一度言っていただけますか?」
「光の輪だよ。首に嵌める。兵が、40人がかりで運んできたとか」
「その輪は、何をするのですか?」
「知らんよ。魔法使いを縛る道具だって聞いた」
アステリアは、その場に立ったまま、指を1本ずつ、掌の中で折った。
首に嵌める輪。
魔法を縛る道具。人間界には、そんなものは無い。人間の光魔法では、器に蓋はできない。
——天界のものだ。
彼女は、その日のうちに、北東へ道を変えた。
三国境の方角だ。焼けた砦があるという方だ。
大悪魔を探しに行くのとは違う。
天界の道具が、人間の手にあることの方が、よほど恐ろしかった。
道を変えて3日目に、荷馬車に乗せてもらった。
御者は、60過ぎの男だった。塩と布地を積んで、北の町へ売りに行くという。
「娘さん、どこまで行く?」
「北東です」
「戦のあった方だ。何しに行く?」
「探しものがあります」
「なんだい?」
彼女は、そこで少し考えてから、こう答えた。
「18年、返事をもらっていない人がいます」
御者は、鞭を軽く鳴らした。
「そりゃ、遠いな」
「はい」
荷馬車は、ゆっくり進んだ。
道の両側に、刈り終わった畑が続いている。畑の向こうに、冬の低い雲がある。雲の下の色を、アステリアは初めて見た。
天界には、下から見る雲が無い。
彼女は、荷台の縁に手を掛けて、その雲を見ながら、あの人が最後に見せた顔を思い出そうとして、うまく思い出せなかった。
それが、いちばん怖かった。
18年、毎日思い出しているものは、言葉の方だ。顔は、年々、薄くなる。
彼女は、目を閉じて、荷馬車の揺れを数えた。こうしていれば、着く。着けば、何かがある。それ以上のことを、彼女はまだ決めていない。




