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第129話 上から来た娘

    ◇


麦の刈り跡に、娘が1人、倒れていた。


見つけたのは、メルセア南部の畑の持ち主だ。夜明け前に水を見に出て、畑の真ん中に白いものがあるので、最初は鷺だと思った。


近づくと、人だった。



娘は、意識があった。


だが、起き上がれなかった。両手を土についたまま、肩で息をしている。息の仕方が、水から上がった者のそれだった。


「おい。生きとるか」


「……いきて、います」


「どこから来た?」


娘は、一度、口を閉じた。


「うえ、です」



男は、空を見て、それから娘の背中を見た。外套の下が、不自然に盛り上がっている。荷を背負っているようには見えない。


「荷物か」


「そうです」


「重そうだな」


「……重いです」


娘は、そう答えた。嘘ではなかった。



畳んだ翼は、重い。


天界では、重さが無い。人間界では、翼にも重さがある。その分だけ、背中が後ろへ引かれる。


歩くと、後ろへ倒れそうになる。


彼女は、その日の午前中を、歩き方の練習に使った。



男の家は、畑の端にある。


妻と、息子が2人。妻は、娘を見るなり、竈へ行って、鍋を火に掛け直した。何も訊かずに、木の椀にスープを注いだ。


「食べな」


娘は、その椀を両手で持って、しばらく湯気を見ていた。



「熱いよ」


「はい」


「はい、じゃなくて。冷ましてから」


「……冷ます、とは」


妻は、手を止めて、息子の1人を見た。息子は、口を開けて、娘を見ていた。



冷まし方を教わるのに、椀が1つ空になるだけの時間がかかった。


息を吹きかけると、表面の湯気が動く。動いたところから飲む。それだけのことだ。だが、娘は吹き方を知らなかった。


3度目で、できた。


彼女は少し笑った。眉の端が下がる笑い方だ。困っているようにも見える。


「名は?」


「アス、といいます」



アステリアは、18年待った。


すぐには動かないと決めていた。転生した者が動けるようになるまでには、時間がかかる。それがどれくらいかを、彼女は知らなかった。


だから、多めに見積もった。


18年。人間の子が、鍬を持てる年齢になる年数だ。畑の男の上の息子が、ちょうどその年だった。



彼女が持っているものは、3つだ。


母に教わった次元魔法。人間界の言葉。そして、あの人が最後に言った言葉。


『もし、何かに嵌められて死ぬことがあれば——人間界に転生するような仕掛けをしてある』


言われたとき、彼女は笑って、「そんなことにはなりません」と答えた。その言葉を、18年、毎日思い出している。



次元魔法は、場所を選ばない。


正しく組めば、どこへでも開く。境も、線も、要らない。母は「開ける場所を探すのは、術が足りていない証拠だ」と言った。


だから、彼女はこの畑に落ちた。


場所に意味は無い。彼女はそれを分かっている。それでも、落ちてすぐ、あたりを見回した。



誰もいなかった。


麦の刈り跡が、地平まで続いていた。


彼女は、そこで初めて、この界の広さを知った。天界からは、人間界が1枚の絵に見える。絵の中に降りると、絵ではなかった。



3日、その家にいた。


3日で、翼の畳み方が上手くなった。肩甲骨の下で二重に折ると、外套の下でも目立たない。歩くときに、少しだけ前へ傾く。


下の息子が、その背中を触ろうとした。


「アス姉ちゃん。背中、なに」


「翼です」


「うそだ」


「そうですね」



嘘だと言われたので、彼女は肯定した。


答えてから、そういう返事の仕方でよかったのかが、後まで分からなかった。人間の子供は、嘘だと言いながら、信じていないわけではない。この加減が、彼女にはまだ分からない。


出発の朝、妻が布の袋をくれた。


中に、乾(ほ)し麦(むぎ)と、硬いパンが入っていた。



「金は?」


「……お金、とは」


妻は、椅子に座り、こめかみを押さえた。


「あんた、どうやってここまで生きてきたんだい」


「誰かが、くれました」


「そりゃ運がいいね。運は続かないよ」


女は、そう言って、銅貨を6枚、袋に入れた。



北へ歩いた。


理由は1つだ。北の方が、人が多い。人が多い場所に、18年前に生まれた者の話が集まる。


その中から、1つを選ぶ。


選び方は、まだ決めていない。そのまま歩いている。



町では、噂を聞いた。


市の立つ日に、井戸の周りへ行くと、人が喋っている。たいてい、値段と天気と、戦の話だ。


この年の噂は、戦だった。


「三国境の砦が焼けたそうだ」


「聖国が来たんだろう」


「なんで来た?」


「悪魔を捕まえに来たとよ」



アステリアは、その井戸の縁で足を止めて、水を汲む振りをした。


「悪魔」


「大悪魔だとさ。人間に化けとるって話だ」


「そりゃ聖国の言い分だろう」


「言い分でも、砦は焼けた」



彼女は、その話を最後まで聞いてから、桶を引き上げて水を飲み、歩き出した。


探しているのは、大悪魔とは違う。人間として生まれた者だ。転生とは、そういうものだと母に教わった。生まれ直した者は、前の姿を持たない。悪魔と呼ばれるはずがない。



彼女はその噂を外して、別の話を探した。


北へ行くほど、話は増える。その中に、砦の話がまた出てきた。今度は、もう少し細かかった。


「聖国の兵が、光の輪を持っとったそうだ」



彼女は、振り返った。


「いまの、もう一度言っていただけますか?」


「光の輪だよ。首に嵌(は)める。兵が、40人がかりで運んできたとか」


「その輪は、何をするのですか?」


「知らんよ。魔法使いを縛る道具だって聞いた」



アステリアは、その場に立ったまま、指を1本ずつ、掌の中で折った。


首に嵌める輪。


魔法を縛る道具。人間界には、そんなものは無い。人間の光魔法では、器に蓋はできない。


——天界のものだ。



彼女は、その日のうちに、北東へ道を変えた。


三国境の方角だ。焼けた砦があるという方だ。


大悪魔を探しに行くのとは違う。


天界の道具が、人間の手にあることの方が、よほど恐ろしかった。



道を変えて3日目に、荷馬車に乗せてもらった。


御者(ぎょしゃ)は、60過ぎの男だった。塩と布地を積んで、北の町へ売りに行くという。


「娘さん、どこまで行く?」


「北東です」


「戦のあった方だ。何しに行く?」


「探しものがあります」



「なんだい?」


彼女は、そこで少し考えてから、こう答えた。


「18年、返事をもらっていない人がいます」


御者は、鞭(むち)を軽く鳴らした。


「そりゃ、遠いな」


「はい」



荷馬車は、ゆっくり進んだ。


道の両側に、刈り終わった畑が続いている。畑の向こうに、冬の低い雲がある。雲の下の色を、アステリアは初めて見た。


天界には、下から見る雲が無い。


彼女は、荷台の縁に手を掛けて、その雲を見ながら、あの人が最後に見せた顔を思い出そうとして、うまく思い出せなかった。



それが、いちばん怖かった。


18年、毎日思い出しているものは、言葉の方だ。顔は、年々、薄くなる。


彼女は、目を閉じて、荷馬車の揺れを数えた。こうしていれば、着く。着けば、何かがある。それ以上のことを、彼女はまだ決めていない。

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