第128話 音の通り道
線は、1本しかない。
その1本を、12枚のどこへ入れるかが分からなかった。
枚と枚の間は11ある。線には向きが4つある。上から下、下から上、右から左、左から右。掛け合わせて、44通りだ。
器は6割だ。1日に6回しか開けない。
44通りを全部試すには、8日かかる。
ミルカは、紙に44の枠を描いた。
試した順に印を入れていく。印の形を2つに分けた。丸が「開いた」、叉が「開かなかった」。
「ゼノ。順番を決めました」
「言え」
「間の狭いところからです。線を入れて壊れやすいのは、狭い方です。壊れやすいところから潰します」
「なんでだ?」
「壊れる方が、早く分かります」
1日目。6回。全部、叉だった。
2日目。6回。4回目に、組んだ途端に12枚が崩れた。闇が俺の手の中で弾けて、指の皮が2枚めくれた。
「ゼノ。血が出ています」
「見りゃ分かる」
「今日は、あと2回できます」
「やる」
3日目の夜に、リィナが階段を塞いだ。
木剣を横に持って、段の上に立っている。背が高くないので、塞いだことにはなっていない。それでも、どかす気になれなかった。
「ゼノ様。今日は、上で寝てください」
「まだ2回ある」
「2回やると、明日が4回になります」
「4回でいい」
「4回になると、明後日が2回です」
俺は、そこで止まった。
この娘は、勘定をしている。俺の器の戻り方を、たぶん3日前から付けていて、器がいちばん減らない配り方を、先に計算していた。
「誰に習った」
「ミルカさんです」
「……あいつは、何を教えてる」
「配り方です。水と同じだと言われました」
35回目は、7日目の朝だった。
7枚目と8枚目の間。線は、下から上へ。
組んだ瞬間に、手応えが変わった。12枚が、いつもより重い。それでいて、縫い目に指が入り、滑らない。
引いた。
開いた。
3尺半。いつもと同じ大きさだ。向こうに、赤黒い床。柱が6本。鎖が1本。
同じだ。何も変わらない。
そう思った、次の拍だった。
音が、来た。
布のこすれる音だ。誰かが歩いている。歩幅が広い。硬い床を、革ではないもので踏む音。
俺は、穴の前で動けなかった。指が縁に掛かったまま、引くことも離すこともしなかった。
18年だ。18年、俺はあの床の音を聞いていない。
「——では」
声が、来た。
女の声だ。低い。腹から出ていて、語尾を投げない喋り方だ。柱の陰から、その声だけが届いた。18年前、俺の左の椅子に座っていた者が、この声で報告を読んだ。
「では、あの日の段取りを組んだのは」
そこで、閉じた。
3拍だった。いつもの5拍より、短かった。
俺は、閉じた場所に手を伸ばした。何も掴めなかった。
もう一度組もうとして、指が動かなかった。この18年で、組み方を一度も忘れたことがない指だ。
膝が、先に落ちた。
石の床についた手が、震えていた。器が空になったときの震え方とは違う。器は、まだ5割残っている。
「ゼノ」
リディアの声だ。
俺は、返事をしなかった。その前に、喉から音が出た。低くて、長くて、言葉になっていない音だった。
それが自分の喉から出たものだと、あとで気づいた。谷の者が聞いたら、獣がいると思っただろう。
18年。
俺は、この18年を、間違えたことがないと思っていた。器を作り、魔法を積み、人間の中に名前を持った。積み方は正しかった。だから、ここまで来た。
それが、3拍だ。
3拍で、声が1つ。文が、終わりまで来なかった。
「ゼノ。記録しました」
ミルカが、紙を持って前へ出た。
紙が、震えている。持っている本人が、震えている。彼女は、それに気づかずに読み上げた。
「7枚目と8枚目の間、下から上。開いて3拍。……音、有り」
「音」
「音です。ゼノ。今まで、音は通りませんでした」
「じゃあ、この線は」
「音の通り道です」
ミルカは、そう言ってから、自分の言ったことに驚いた顔をした。
「2千年、この1本が抜けていました。抜けたまま写され続けたので、誰も、向こうの音を聞いたことがありません」
彼女は、羽根ペンを握り直した。
もう一度、組んだ。
同じ組み方だ。7枚目と8枚目の間、下から上。開いた。3拍。
音は、来た。
声は無かった。布の音も無い。あるのは、遠い水の音だけだ。低くて、重なっていて、途切れない。魔王城の地下には、水路がある。18年前と、同じ場所を流れている。
俺は、穴へ向かって呼んだ。
名を呼んだ。3つとも呼んだ。声の限りに呼んだ。喉が裂けても構わなかった。
向こうの水音は、揺れなかった。
「ゼノ。行っていません」
ミルカが、そう言った。
「石も、行きます。音は、来るだけです。……こちらから向こうへは、何も行きません」
一方だけだ。
見える。聞こえる。石は放り込める。だが、こちらの声は届かない。俺がここにいることを、向こうは知らない。
あの声は、それを知らずに喋っていた。
「あの日の段取りを組んだのは」——誰かに向かって、そう言いかけた。相手は、俺ではない。
リディアが、円の外に座って、膝を抱えた。そのまま、こう言った。
「あんた、今、うちの母親と同じことしてる」
「何がだ?」
「聞こえない相手に、話しかけてる。……あれを毎晩やってるのを、あんた、笑わなかった」
言い返す言葉を、俺は持っていなかった。
その日、俺は6回全部使った。
6回とも、音は来た。声は来なかった。聞こえたのは、水音と、風の音と、一度だけ、遠くで何かが倒れる音だ。木でも石でもない。金物が、横倒しになる音だった。
7回目を組もうとして、闇が形にならなかった。
器が、空になった。
そうなると、人間の身体は重くなる。
18年、この重さには慣れている。だが今日は立てずに、円の上に座っていた。
階段の上から、灯りが下りてきた。
ポーラだ。椀を持ったまま、階段の途中で止まって、下りてこなかった。
「あんた、そこで寝るの」
「あぁ」
「じゃあ、下に何か敷きな」
女は、そう言って、椀を段の上に置き、上がっていった。
しばらくして、リィナが敷物を持って下りてきて、俺の隣に広げ、何も言わずに上がっていった。
俺は、その敷物の上で、円を見ていた。
白い線が、暗い中に浮いている。この線の向こうに、俺の広間がある。歩いている者がいる。声を出している者がいる。
向こうが何を数えていたかを、俺は一度も考えなかった。
夜が明けた。
器が、2割戻っていた。2割あれば、2回開ける。
俺は、起き上がって掌に闇を12枚組み、7枚目と8枚目の間に、1本を入れた。
階段の上に、ミルカが立っていた。羽根ペンと紙を持っている。まだ暗いうちから、そこにいたのだと分かった。
「ゼノ。2回です」
「もう一度だ」
「器が足りません」
「もう一度だ」
ミルカは、紙を膝に載せ、印をつける用意をした。




