第127話 1本しかない線
エルマを谷へ連れていくと決めたのは、リディアだ。
俺は言わなかった。また同じことになる。あの女の頭の中に欲しいものが入っている、と言った男の口からでは、何を言っても同じ意味になる。
だから、3日待った。
3日目の朝、リディアが自分から言った。
「連れていく」
「理由は」
「壁の前に立たせる」
「立たせて、どうする」
「知らない」
リディアは、そう答えてから、櫓と網の置いてある方を見た。
「あの人、この納屋の板を埋めてる。板には、埋める溝がない。……溝のあるところへ連れていけば、何か違うかもしれない」
テオが、ついてきた。
「俺が行かないと、飯を食いません」
14の少年は、そう言いながら、下の子供たちに何か言いつけている。女の子のうちでいちばん上の子が、先に頷いていた。
「3日で戻る」
「4日だ」と、俺は横から言った。
「じゃあ4日です」
テオは、そう言って、網の繕いかけを土間に置いた。
塩の井戸の底に、円がある。
ラセルの境だ。11の井戸のうち、塩になった1つ。その底に、二重の線が沈んでいる。水が引いたので、今は歩いて下りられる。
エルマは、縄梯子を怖がらずに下り、その間、小声で段の数を口にしていた。22段だった。
谷は、まだ雪だ。
出た先は、割れ目の奥の段だ。テオが最初に声を上げた。
「白い」
「雪だ」
「知ってます。見たのは初めてです」
少年は、しゃがんで、素手でそれを掴み、すぐに離した。それから俺の方を見て、何も言わずにもう一度掴んだ。
エルマは、雪を見なかった。割れ目の壁の方を向いたまま、動かなかった。
「母さん」
リディアが、そう呼んだ。この3日で初めてだ。
エルマは振り返らずに、1歩前へ出た。
壁までは、まだ30歩ある。
その30歩を、エルマは真っ直ぐ歩いた。雪に足を取られながら、途中で一度も止まらずに歩いた。20年ぶりの谷で、道を1つも間違えなかった。
52人が、両側に分かれた。
その中を、女が通った。誰も名を呼ばなかった。呼べる者が、もう年寄りしかいなかった。
壁の前で止まって、顔を上げた。第6列の上から4段目は、ちょうど目の高さだ。
エルマは、その円に指を当てて、親指と人差し指をこすり合わせた。
俺は、動かずに見ていた。
こすって、練って、詰めて、均す。納屋でやっていたのと同じ動きだ。溝のある場所では、指が溝に入る。20年前と同じ場所を、また埋めようとしている。
「ゼノ。記録します」
ミルカが、小声でそう言った。
「同じ動きが何度出るか、数えます」
7度、同じ動きが出た。
8度目で、違った。
指が、溝の中で止まり、それから上ではなく横へ、まっすぐに動いた。
1本の線を、引く動きだった。
ミルカが、羽根ペンを落とし、それに気づかないまま紙へ手を伸ばして、何も持っていない手で、その動きを真似した。
「ゼノ。今のは、埋める動きではありません」
「分かってる」
「引く動きです。……線を、1本」
「その1本で、何が分かる」
「分かりません」
ミルカは、そう答えてから、落とした羽根ペンを拾って、紙に引いた。壁のエルマと同じ向き、同じ長さで、線を1本。
紙の上に、1本だけ線がある。
それだけでは、どこにも掛からない。閉じてもいない。始まりも終わりも、他の何にもつながっていない。
エルマの指は、そこで下がって、膝の上へ戻った。それから、また、こすり合わせる動きを始めた。
最初からだ。
俺は、その手を1刻近く見ていた。7度埋めて、一度引いて、また7度埋める。それを、女は3回繰り返した。3回とも、引いた線は同じだった。
向きも、長さも、始める高さも、変わらなかった。
「エルマさん」
ミルカが、前へ出た。
「あと1本、引けますか?」
「……いいえ」
「なぜですか?」
「1本しか、無いからです」
エルマの答え方は、今日いちばん、はっきりしていた。
リディアが、母の隣に膝をついて、その手を取った。手は抵抗せずに、取られたまま、また動こうとした。
「母さん。もういい」
「途中まで、やりました」
「知ってる」
「続きは、明日にします」
テオの台詞だ。誰かに言われたことを、この女は覚える。
その晩、割れ目の広場に篝火が焚かれた。
谷の者が、52人集まった。ヤンが真ん中に立って、マルクがその横にいた。ヨナスが座っていた石には、誰も座らなかった。
マルクが、話した。
「谷の壁には、1103の円がございます。そのうち1つが、20年前に埋められました」
52人は、既に知っている。今日、全員がその指を見た。そのあと、誰も口をきかずに広場へ集まってきた。
「埋めたのは、エルマでございます」
誰も、声を上げなかった。
「ですが、本日、ゼノ様に申し上げねばならぬことがございます」
マルクは、そこで一度、俺の方を見てから、52人の方へ向き直った。
「埋められる前から、この壁は、足りておりませんでした」
年寄りの女が、杖を突いた。
「何を言うておる」
「深さでございます」
マルクは、ミルカの図を掲げた。
「上の段ほど深く、下ほど浅い。彫った順でございます。……ところが、第6列の上から4段目の周りだけ、順が2つ飛んでおります。飛んだ分は、200年前から飛んでおりました。エルマが埋めたのは、既に飛んでいた場所でございます」
広場が、静かになった。
「わたくしは、40年、外との取引をしてまいりました。写しを3枚、外へ出しました。1枚は、わざと違う形に引いてございます」
マルクは、自分の割れた手を見た。
「1枚だけを崩したつもりでおりました。……ですが、正しいものを渡したつもりの2枚も、正しくはございませんでした」
「では」
年寄りの女が、そう言った。
「では、わしらは、200年、何を守ったのだ」
誰も、答えなかった。ヤンもだ。その役の者は、もう死んでいる。
俺は、火の反対側に立っていた。全員が、こちらを向いた。
「1103のうち、1102は残ってる。足りねえのは1つだ。その1つのせいで、1102が使えねえ。……使えねえのは、あんたらのせいじゃねえ」
年寄りの女が、右の目で俺を見た。ヨナスと同じ目だ。
「お前は、慰めが下手だな」
「慰めてねえ」
「そうか」
女は、杖を突き直した。
「では、聞いておく。お前は、あと1本をどこで探す」
俺には、答えが無かった。
18年で、答えの無いまま人前に立つのは、これが初めてだった。
火が小さくなってから、俺は壁の前へ戻った。
雪が、また降り始めていた。降った雪が、彫られた円の溝に入って、白く残る。1103の円が、輪郭だけ白くなって浮かび上がった。
きれいだった。降る速さが、内側の白い線の上でだけ、少し遅く見えた。
そう思ったのが、腹立たしかった。
背中で、雪を踏む音がした。
エルマだった。1人で来ていた。テオも、リディアも、後ろにいない。
女は、俺の隣に立って、壁を見たまま、しばらく黙って、それから、こう言った。
「たくさん、ありますね」
「1103だ」
「数えていいですか?」
「好きにしろ」
エルマは、数え始めた。
1から順に、指で追っていく。声は小さいが、止まらない。雪が降る中で、白髪の半分混じった女が、200年分の円を1つずつ読み上げていく。
俺は、その隣で数を聞いていた。
600を過ぎたあたりで、エルマの声が止まった。
女は、こちらを見た。
「すみません。今、どこまででしたか」
「611だ」
「……覚えていてくださったのですか」
「数えるのは、あんただけじゃねえ」
女は、少しだけ笑った。リディアに似た笑い方だった。




