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第126話 埋める指

ラセルの井戸は、11のうち1つが塩のままだった。


塩の井戸には、縄(なわ)が掛かっていない。汲む者がいないので、そのままにしてある。町の者は、その前を通るときに、少し遠回りをする。


町は、焼けなかった。


150人の名を数え終えたので、焼く理由の方が先に無くなった。名簿を壁に貼っていた教会は、今も鍵が掛かったままだ。誰も開けろと言わない。



テオの納屋は、港の東にある。


網と、樽と、櫓(ろ)が置いてある。子供が11人。いちばん下は4つで、上が14だ。14がテオで、11人分の飯を作る。


俺たちが入ると、子供が全員こちらを向いて、それから、リディアを見た。



「リディア姉ちゃん」


「あぁ」


「手、まだ治らないの?」


「治らない」


リディアは、そう答えて、奥へ歩いた。子供たちは、ついてこなかった。奥に何があるかを、知っている。


奥に、女がいた。網の匂いの届かない、いちばん暗い隅だ。



エルマは、藁(わら)の上に座っていた。


痩せている。頬に丸い火傷の跡がある。髪は白髪が半分で、テオが切ったのか、耳の下で不揃いに切ってある。


手が、動いていた。


膝の上で、右手の指が、同じ動きを繰り返している。親指と人差し指をこすり合わせて、それを、何かの上へ置く動きだ。



「ずっと、それをしています」


テオが、後ろからそう言った。


14の少年だ。網を引く掌が厚い。3か月前より背が伸びて、声が変わりかけている。


「飯のときは止まります。食べ終わると、また始まります」


「夜は?」


「夜が、いちばん動きます」



リディアは、母の前にしゃがんで、顔を覗き込んだ。エルマは、その顔と目を合わせて、それから視線を外した。


その先には、何も無かった。


「わたしが誰か、分かるか?」


「……いいえ」


「12年、手紙を書いた。毎年、冬至に」


「そうですか」



エルマの返事は、丁寧だった。


それが、悪い。この女は、目の前の人間を客として扱っている。20年、棚の中で、名前を呼ばれない相手と話し続けてきた者の喋り方だ。


「エルマ」


俺が呼ぶと、こちらを向いた。だが、目の焦点が、俺の顔より半尺ほど後ろにあった。



ミルカが、紙を広げた。


谷の壁の写しだ。第6列の、上から4段目。円の形と、その下から読み取った線の一部。線は、途中で切れている。


「エルマさん。これを見たことがありますか?」


エルマは、それを見て、「きれいですね」と言った。



ミルカの指が、紙の端で止まった。


それから紙を裏返し、別の1枚を出した。今度は、深さを写した図だ。線の長さで深さを表してある。


「これは、どうですか?」


「……数が、多いですね」


「数えられますか?」


「はい。1、2、3——」



エルマは、数え始めた。


図の線を、1本ずつ、指で追っていく。40を超えても止まらない。100を超えても止まらない。


「エルマさん。もう結構です」


「……118、119」


「エルマさん」


「120、121」


止まらなかった。声の大きさも、間の取り方も、1つも変わらなかった。



止めたのは、テオだ。


少年は、横から手を出して、エルマの手を握った。数える声が止まり、女は握られた手を見た。


「ごめんなさい」


「謝らなくていい」


「途中まで数えました」


「知ってる。また明日、続きをやろう」



俺は、外へ出て、納屋の壁に背を預けた。港の方から、風が来る。塩の匂いと、魚の内臓の匂いが混ざっている。


ミルカが、後から出てきた。


「ゼノ。あの方は、数字だけ覚えています」


「20年、そればっかりやってたからだろうが」


「はい。棚の中で、ずっと何かを追っていました。……数え終えないと出られない、と考えていたのだと思います」



リィナは、納屋の中に残って、エルマの横に座っていた。何をするでもなく、ただ座っている。時々、子供が持ってきた網の結び目を直していた。


リディアが、それを見て、外へ出てきて、俺の隣を通り過ぎようとした。俺は、その袖を掴まなかった。理由を、思いつかなかった。



「リディアさん」


リィナが、追って出てきた。


「もう一度、呼んでみませんか」


「何をだ」


「お名前です。リディアさんが、母上のお名前を呼ぶところを、まだ見ていません」


リディアは、足を止めて、振り返った。



「呼んで、何になる?」


「分かりません」


「分からないことを、人にやらせるな」


「お願いしています」


リィナは、そう言った。声は大きくない。それでも、退く気配が無い。


リディアの包帯の手が、外套の裾を握った。



「あんた、親がいるのか?」


「いません」


「じゃあ、分からないだろ」


「分かりません」


リィナは、そこで一度、息を吸った。


「分かりませんけど、わたしは、名前を呼ばれて生き延びました。ゼノ様に訊かれたからです。訊かれなかったら、わたしは市場の裏で、番号のまま死んでいました」



リディアは、その顔を見て、それから笑った。乾いた笑い方だった。


「あんた、そういうのを、人に当てはめるのか?」


「当てはめます」


「ふざけるな」


リディアが、1歩出てリィナの襟を掴んだ。リィナは避けずに、掴まれたまま立っていた。



俺は、間に入ってリディアの手首を掴んだ。細い。それでいて、力が抜けていなかった。


「離せ」


「離さねえ」


「あんたに関係ない」


「関係ある」


「どこがだ?」



俺は、そこで言葉を探して、いちばん悪いものを選んだ。


「あんたの母親の頭の中に、俺の欲しいものが入ってる」


言った瞬間に、間違えたと分かった。


リディアの手から力が抜けて、リィナの襟が離れた。リディアは、俺を見た。目が、さっきより乾いていた。



「そうだよな」


「……違う」


「違わない。あんた、最初からそれで来てる」


リディアは、そう言って、俺の手を振り払い、港の方へ歩いていった。


リィナが、追おうとした。


俺は、その肩を掴んで止めた。自分が何を止めたのかは、そのあとで分からなくなった。



「ゼノ様。わたしが行きます」


「行くな」


「なぜですか?」


「今行くと、あの女は、次に俺に嘘をつく」


リィナは、俺を見て、それから肩の力を抜いた。


「ゼノ様は、時々……」



夜になった。


納屋の子供たちは、早く寝る。港の仕事は、朝の暗いうちから始まる。11人が並んで寝て、テオがいちばん戸口に近いところで寝る。


俺は、外の樽の上に座って、円のことを考えていた。どこにも行き着かない。行き着かないことを、18年ぶりに、正面から見ていた。



納屋の中で、音がした。


板が、こすれる音だ。


俺は、戸口から中を覗いた。子供は全員寝ている。テオも寝ている。


奥に、エルマが起きていた。



壁の前に、立っていた。


納屋の壁は、板だ。板の継ぎ目に、細い隙間がある。彼女は、その隙間に、指を当てていた。


それから、親指と人差し指をこすり合わせた。何も持っていない指で、何かを練る動きをした。


隙間へ詰めた。


指の腹で、平らに均(なら)した。



同じ動きを、3度繰り返した。


それから少し下がって、自分の詰めた場所を見た。満足した顔だった。


エルマは、また藁の上へ戻って、横になった。


俺は、戸口から動かなかった。



手は、覚えている。


20年、名前を忘れて、顔を忘れて、娘の名も忘れた女の手が、埋める動きだけを覚えている。


だが、それは埋め方だ。



俺は、その場に座り込んで、板の隙間を見た。何も詰まっていない。指の脂が、細く筋になって光っているだけだ。


背中で、声がした。


「ゼノ」


リディアだった。いつ戻ってきたのか、分からなかった。



「見たか?」


「見た」


「毎晩やってる。テオが前に言ってた」


リディアは、そう言って、俺の隣にしゃがみ、同じように板の隙間を見た。


「わたし、さっき港で考えた」


「何をだ」


「あんたを殺せば、この話が終わるかどうか」



「終わらねえよ」


「うん。だから戻ってきた」


彼女は、そう言った。


「あんたが死んでも、あの人の指は動く。……止め方は、誰も知らない」

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