第125話 埋めた者
境は、3つある。
谷の壁。ラセルの井戸。ローデン砦の地下。どれも二重の線で、外が黒く、内が白い。両側に線があるということは、両側から開く。
魔界の広間には、線が無い。
だから、あそこへは裂け目しか通らない。目は通る。石は通る。音は通らない。人は、通らない。
だが、境と境の間なら、話が違う。
そう考えるまでに、41日かかった。試すまでに、さらに半日。そのほとんどはミルカの反対を聞いていた時間だ。
「ゼノ。先に石を通してください」
「通した」
「では、次は生き物です」
「何を通す」
「わたしが持ってきた鼠です」
鼠は、谷から戻ってきた。
正確には、戻したのはヤンだ。向こうで受け取って、籠に入れて、こちらへ押し戻した。鼠は、両方の側で、同じだけ暴れていた。
「生きています」
「見りゃ分かる」
「生きているだけでは足りません。同じ鼠かを確かめます」
ミルカは、その鼠の背の毛を、出発前に少し切っていた。
リィナは、2番目に通った。
止める間が無かった。俺が「次は」と言いかけたところで、もう円の中に立って、木剣を背負い直していた。
「ゼノ様。行きます」
「待て。まだ何も」
「待つと、怖くなります」
消えた。
向こうから、声が返ってきた。音は通らない。声のはずがない。ヤンが紙に書いて、籠に入れて押し戻してきた。
『ぶじ。すぐもどると言ってきかない』
俺は、その紙を見てから、自分が息を止めていたことに気づいた。18年、俺は自分の呼吸を忘れたことがない。
谷は、雪だった。
割れ目の口に、雪が吹き溜まっている。門は直っていた。積み方が、以前より丁寧だ。ヤンが指図をしたのだと、見れば分かった。
52人が、出迎えた。
ヨナスの分、1人減っている。誰もそれを口にせず、全員が壁の方を向いていた。
壁に、新しい円が1つあった。
いちばん下の段だ。線が、まっすぐだった。ヤンが彫ったにしては、上手すぎる。
「誰が彫った?」
「52人で1本ずつだ。1人1本、鑿を入れた。順番は、年寄りからだ。最後がおれで、閉じるところをおれが彫った」
その円の前に、リディアが立った。
12年ぶりだ。彼女は、外套も脱がずに、雪の上に立って、その円を見ていた。それから指を伸ばして、触らずに引っ込めた。
「わたし、この人から手紙を12回もらった」
「1年に1度だな」
「12回とも『生きている』だけ。最後の1回だけ、2行」
「なんで2行書いたか、分かるか?」
「分からない」
「訊けねえな。もう」
「訊く気は無い」
リディアは、そう言って、壁から離れ、割れ目の奥へ歩いていった。
歩き方が、来たときより速かった。
第6列の上から4段目を見たのは、その日の午後だ。
壁は、割れ目の南側の面だ。高さが12尺あって、上の方は梯子が要る。第6列の上から4段目は、ちょうど人の目の高さにある。
上から4段目。
指を当てた。
浅い。
周りの円は、指の腹が入る。この1つだけ、爪の先しか入らない。彫った深さが、半分も無い。
そして、縁が違った。
周りの円は、縁が丸くなっている。200年の風が削った丸さだ。この円の縁は、角が立っている。角に触ると、まだ引っかかる。
「マルク」
「はい」
「これは、新しい」
マルクは、答えずに、自分の袖から布を出して、その円を拭いた。溝に詰まっていた粉が落ちた。灰色ではなく、白かった。
「……石の粉でございます」
「200年前の粉が、まだ残るのか?」
「残りません」
彼は、その粉を指で潰した。
ミルカが、道具を出した。
砦で作ったものだ。細い針金を、木の柄に刺してある。針金を溝に差して、柄が石に当たったところで、指で押さえる。そこまでの長さを、紙に写す。
「これで、深さが写せます」
「作ったのか?」
「昨日の夜に。……17日分を、やり直します」
彼女は、そう言って、第6列の隣の円から測り始めた。
深さは、円によって違った。
だが、違い方に順番がある。上の段ほど深く、下ほど浅い。200年、上から彫り足していった順だ。
第6列4段目だけが、その順に入らない。
「ゼノ。この深さは、この壁のどの段にも合いません」
「新しいってことか」
「新しいか、削ったかです」
俺は、その円に闇を薄く流した。
石の中へ入れて、走らせた。闇は、割れ目を伝う。石の内側には、目に見えない割れ方が残っている。彫られた線の下にも、彫る前の割れ方が残る。
手応えを読んだ。
——線が、2つある。
上に彫られた円の下に、別の線がある。
円ではない。曲がっている。閉じていない。途中で切れて、また始まっている。円を彫った者は、その上をなぞって消したのではなく、上から別の形を被せて隠していた。
「隠してある」
「何をですか?」
「下に、円じゃねえものがある」
52人が、静かになった。
その中で、いちばん年寄りの女が、杖をついて前へ出てきた。80は過ぎている。腰が曲がって、顔が壁と同じ高さにある。
「……ヨナスは、これを言うたか」
「『ここが、無い』と言ったそうだ」
「そうか」
女は、その円に手を当てたまま、しばらく動かなかった。
「20年前に、夜に壁へ来る者がおった。わしは、夜に眠れん。眠らずに、割れ目の段に座っておる。座っておると、見える。……あの年の秋、毎晩、壁の前に立っておる娘がおった」
「誰だ?」
「エルマだ」
その名を、俺は知らない。
後ろで音がした。振り返ると、リディアが立っていた。いつ戻ってきたのか、分からなかった。
彼女は、その名を聞いても動かずに、こう言った。
「わたしの母親だ」
「あんた、母親の名を覚えてたのか?」
「覚えてない」
リディアは、そう答えた。
「今、思い出した。……20年、忘れてた」
彼女は、壁の方へ歩いて第6列の4段目の前に立ち、その浅い円に手を当てた。指は、震えていなかった。
それが、いちばん悪かった。
年寄りの女が、続けた。
「エルマは、鑿を持っておった。だが、音がせん。音のせん彫り方があるかと、わしは不思議に思うた。……あれは、彫っておったのではない。埋めておったのだ」
「埋める」
「石の粉を練って、溝へ詰める。乾けば、石と同じ色になる」
「それを、あんたは黙ってたのか?」
「訊かれんかった」
女の言い方に、悪びれた様子は無い。
「谷の者が、壁に何をしようと、それは内々のことだ。……訊いたのは、外から来たお前が初めてだ。60年で、1人だけだ」
腹の底が冷えた。
200年、この一族は壁を守った。誰にも触らせないことで守った。だから、内側で何をされても、誰も見ない。
「マルク」
「はい」
「エルマは、いつ谷を出た」
「……その年の、冬でございます」
冬に出て、ラセルへ行って、棚に仕舞われた。
20年、口を内側から押さえ続けた。名を忘れ、顔を忘れ、娘の名も忘れた。今はテオの納屋にいて、子供が漕ぐ櫓の音を数えている。
その女が、ここを埋めた。
その形を知っている人間は、この星に1人だけだ。
リディアが、壁から手を離して、こちらを見た。目が、乾いていた。
「ゼノ」
「あぁ」
「あの人、自分の名前も思い出せない」
「知ってる」
「じゃあ、終わりだ」




