第124話 5拍
冬が来て、焼け跡に霜が降りた。
石が冷えたのは、撤退から41日目だ。朝に来た子供が、貯蔵庫の入口に座り込んでいた。今まで、熱くて座れなかった場所だ。
千二百人は、戻ってきていた。
砦を建て直し始めている。誰も命じていない。冬を越す場所が他に無いので、崩れた石を積んでいるだけだ。素人の積み方だった。
俺は、毎朝、地下へ下りた。
円は、そこにある。焼けた石の床に、二重の線。外が黒く、内が白い。上に立つと、自分の位置が正確に分かる。
闇を12枚組み、縫い目に指を掛けて、引く。
開く。
38回目までは、ミルカが数えていた。
39回目からは、拍も一緒に書くようになった。彼女は円の外に敷物を敷いて、そこに座って、膝の上で紙を押さえている。指が冷えるので、時々、息を吹きかけている。
「ゼノ。今のは4拍です」
「昨日と同じだな」
「いいえ。昨日の最長は5拍でした。今日は、まだ4です」
器は、6割まで戻っていた。
4割のときに、3尺を3拍。6割になって、3尺半を5拍。2割増えて、2拍しか伸びない。
「比になっていません」
ミルカは、紙を広げた。線が2本、引いてある。1本は器の戻り、もう1本は保った拍。2本は、途中から離れていく。
「器を倍にしても、10拍にはなりません。……これは、力で開くものではないのだと思います」
俺は、その紙を見て、自分の掌を見た。18年、俺はここに力を溜めてきた。そうすれば届くと思っていた。溜め方だけは、誰よりも知っている。
それが、2拍にしかならない。
「ミルカ」
「聞いています」
「力じゃねえなら、何だ」
「分かりません。ですが、鍵の掛かった扉を、太い腕で押している感じがします」
石を投げ入れてみた。
拳ほどの石だ。穴の向こうへ放ると、向こうの床に落ちた。
音がしない。
「聞こえたか」
「聞こえません」
「見えたか」
「見えました。跳ねて、2度転がって、柱の根元で止まりました」
ミルカは、羽根ペンを持ったまま、そう言った。
次に、声を出した。
穴の縁に顔を近づけて、向こうへ呼んだ。俺の声は、俺自身にしか聞こえない。向こうの空気が、揺れもしない。
名前は、1つだけ呼んだ。
それから、少し待った。理由は無かった。声が通らないのは、投げた石で分かっていた。
それでも、5拍のあいだ、待った。
穴が閉じてから、リディアが円の中に入ってきた。
包帯の手で、俺が立っていた場所の空気に触れて、指を動かした。何かを探す動きだ。
「あんたのこれ、穴じゃない」
「じゃあ、何だ」
「裂け目。……わたしのは、布に穴を開けてる。あんたのは、縫ってあるところを引っ張って、綻ばせてるだけ」
「同じことじゃねえのか?」
「違う」
リディアは、そう言って、自分の左手を出した。
包帯を巻いた手だ。彼女は、それをほどいた。下の皮膚に、縫い目のような線が7本ある。刃だけを切り取る術を使うたびに増えた線だ。
「穴を空けたところは、こっちが決めた形になる。綻ばせたところは、糸の走ってる形にしかならない。……あんたは、誰かが縫った線の上を、なぞってる」
俺は、円の白い線を見た。
誰かが縫った。この星に界の境を作った者だ。俺が18年かけて組んでいるのは、その糸をほどく作業でしかない。ほどける幅は、糸が決めている。
「……縫った奴の術が要るってことか」
「そう言ってない。わたしが言ったのは、形の話」
その日の午後、谷から人が来た。
門の無い砦の外に、馬が2頭。乗っていたのは、22の男と、60を過ぎた男だった。
ヤンと、マルクだ。
ヤンは、馬から下りるなり、崩れた石積みのいちばん上の1つを両手で外して、置き直した。それから、こちらを向いた。
「起きねえよ」
「まだ何も訊いてねえ」
「あんた、そのつもりの顔をしてた」
「……そういうところが、腹が立つ」
ヤンは、そう言って、荷から包みを下ろした。
油紙で三重に巻いてある。中身は、紙の束だ。ミルカが17日かけて写した411枚とは、書き方が違う。線が太くて、粗い。
「ヨナスが死んだ」
彼は、包みを俺に押しつけながら、そう言った。
「いつだ?」
「23日前。目が両方潰れてから、5日だった」
ヤンは、そこで一度、鼻をこすった。
「死ぬ前に、壁の前へ運べって言った。運んだら、手で触って、端から端まで行った。3日かかった。3日目に、真ん中あたりで手を止めて、そこをずっと触ってた」
「何て言った」
「『ここが、無い』」
マルクが、俺の前に出た。
白かった手が、割れていた。鑿を握る手になりかけている。60から始めた手だ。まだ何の形にもなっていないが、爪の際に石の粉が入って抜けなくなっている。
「ゼノ様。ヨナス様が最後に触られたのは、第6列の、上から4段目でございます」
「そこに何がある?」
「何もございません」
「円が無いのか」
「円は、ございます。1103、全て揃っております。揃っておりますが、第6列の上から4段目だけ、《《周りの円と彫りの深さが違います》》。浅うございます。……200年、誰も気づきませんでした。ヨナス様は、目が見えなくなってから、お気づきになりました」
ミルカが、自分の写しを広げた。
411枚のうち、第6列を探すのに、少し時間がかかった。見つけて、地面に並べて、四つん這いで上から見た。
「ゼノ。わたしの写しでは、同じです」
「違いが写ってねえのか」
「写っていません。……わたしは、線の形を写しました。深さは、写していません」
彼女は、その紙を手で押さえた。指に、力が入っていた。
「17日、わたしは何を写していたのでしょうか」
「線だろうが」
「線だけです」
ミルカは、そう言って羽根ペンを地面に置いた。小さな音がした。
俺は、その頭を見ていた。慰める言葉が、1つも出てこなかった。
「深さは、これから写せ」
ヤンが、口を挟んだ。
「ヨナスは、もう1つ言った」
「言ってみろ」
「『あの子に、伝えろ』」
ヤンは、そう言って、リディアの方を見た。
リディアは、円の縁に座って、包帯を巻き直していた。その手を止めずに、こう言った。
「わたし、迎えに来るなって書いた」
「来なかっただろ」
「来た。この男が」
「それは、あんたの祖父さんの頼みだ」
ヤンは、そう言い返してから、言い方を間違えたという顔をした。
リディアは、包帯を結び終えると、立ち上がってヤンの前まで歩き、その顔を見上げた。背が、頭1つ違う。
「あんた、彫れるようになった?」
「……3つ目からは、真っ直ぐになった」
「じゃあ、わたしのより上手い」
リディアは、そう言って、ヤンの横を通り過ぎざまに、荷の紐を1本、指で弾いた。
紐が緩んで、包みが1つ落ちた。
ヤンは、慌ててそれを拾いながら、後ろを振り返った。リディアは、もう振り返っていなかった。
その夜、俺は円の上に1人でいた。
12枚組んで、引いて、開いた。
赤黒い床。柱が6本。柱の1本に巻かれた鎖。鎖の端が、床に垂れている。垂れ方が、前に見たときと違った。
——動かされている。
5拍で閉じた。
俺はその場に座り込んで、両手を膝に置いた。
18年だ。
18年で、人間の身体に器を作って、上級魔法を4属性で使えるようになって、次元魔法の欠けた形を組み上げた。人間の中に名前を持って、軍を動かして、砦を1つ焼かれた。
積んだものが、5拍だ。
階段の上に、灯りがあった。
リィナだ。木剣を背負ったまま、下りてこずに、そこに立っている。
「ゼノ様」
「あぁ」
「上がってこられませんか? 風が冷たいので、火を焚いてあります」
俺は、立って階段を上がりかけ、途中で止まった。
「リィナ」
「はい」
「……間に合わねえかもしれん」
言ってから、俺は自分が何を言ったかに気づいた。
18年、俺は一度も、その言葉を使ったことがなかった。前世では、間に合わないものが無かった。
リィナは、何も訊かずに灯りを持ち替えて、階段を2段下り、俺の前で止まった。
「ゼノ様。わたし、走るのは速いです」
「知ってる」
「間に合わないときは、誰かが先に走るんです。……わたし、それができます」
彼女は、そう言った。
何の話をしているか、分かっていない顔だった。
俺は、その顔を見ていた。腹の底のものが、少しだけ場所を変えた。
「リィナ」
「なんでしょう」
「火は、どこだ」
「上です。ポーラさんが、鍋を置いています」
俺は、階段を上がりながら、一度だけ、下の円を振り返った。
白い線が、灯りの届かない暗さの中で、まだそこにあった。




