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第123話 聖印を置いていく

聖国軍が退いたのは、それから20日後だった。


退く理由は、こちらへは伝えられなかった。ただ、三国境の陣が1晩で畳まれて、南東へ下がった。その間、焼けたローデン砦には誰も入らなかった。


石が、まだ熱かった。近づくと、靴の底が柔らかくなる。


それだけ日が経っても、貯蔵庫の跡だけが熱を持っていた。油が燃え尽きても、石が冷えない。ミルカは「下が燃えているのだと思います」と言った。


    ◇


撤退の命令が本営で読み上げられたのは、その前夜だ。


読み上げたのは、聖騎士団の副長だった。猊下の印が押された紙を、天幕の中で、将たちの前で読んだ。


『大悪魔の捕縛は、時を待つ。全軍、南東へ退け』


読み終わっても、誰も口を開かなかった。天幕の布が、風で鳴っていた。


その中で、1人の将が立ち上がった。


第4軍の将だ。歳は50を過ぎている。左の耳が無い。昔の戦でそぎ落とされて以来、聖印を耳ではなく胸に留めている。


その男は、胸の聖印に手をかけて、外した。


「ノルディス殿」


「わしは、退かん」


「猊下の御命令です」


「猊下の御命令が、ラセルのときと違う」


将は、外した聖印を卓の上に、音を立てて置いた。


「ラセルでは『数え終える前に焼け』だった。今日は『時を待て』だ。……神は、そんなに短い間に、気を変えられるのか?」


将たちの目が、卓の上の聖印に集まった。


「変えられるなら、それは神ではない」


彼は、そう言った。


「変えたのは、猊下だ。あるいは、その耳に何かを吹き込んだ者だろう」


副長が、口を開き、何も言わずに閉じた。


将は、天幕の入口へ歩き、後ろを振り返らずに言った。


「わしの隊は、2200おる。ついてくる者だけ連れていく」


    ◆


その夜、聖国軍から2200のうち1700が離れた。


その1700は、南東へは下がらなかった。東へ回って、山へ入った。山の先に何があるかを、その時点では誰も知らなかった。


卓の上に、聖印が1つ残った。


副長は、それを拾わなかった。拾えば、報告に書かねばならない。拾わなければ、無かったことになる。


彼は、天幕を出るときに、火を1つ消した。


俺が焼け跡に入ったのは、撤退の6日後だ。


門の跡に、蝶番が落ちていた。鉄が溶けて、石にくっついている。その隙間に、まだ闇があった。


俺の組んだ闇だ。


砦が焼けても消えずに、俺の器から、今も少しずつ引いている。器が4割から戻らないのは、半分はこいつのせいだ。


抜こうとしたところで、リィナが横に立った。


「ゼノ様。抜きますか」


「……抜かねえ」


「なぜですか?」


「門が無えのに、蝶番だけ残ってるのは、格好がつかねえ」


言ってから、俺は自分の言った言葉を聞き返した。


格好の話をしたのは、18年で初めてだった。


貯蔵庫の跡へ下りた。


階段は、半分崩れている。崩れた石を、リディアが1尺の穴で抜き、どこか別の場所へ落とした。どこへと訊いたら、「海」と答えた。


「海に落としてんのか?」


「ラセルの港なら、この前まで立ってた」


「あそこは塩の町になったぞ」


「石は塩にならない」


下りた先の床に、円があった。


焼ける前は、石畳の下に埋まっていた。焼けたことで、上の石が全部落ちて、円だけが剥き出しになっている。


直径は、20歩ほどだ。縁のところだけ、灰が積もらずに黒く残っている。


線が二重になっていた。外側が黒く、内側が白い。谷の壁の二重線と、同じ配置だ。


ミルカが、その前で膝をついた。


「ゼノ。これは、棚の口ではありません」


「じゃあ、何だ」


「棚の口は、片側からしか開きません。これは、両側に線があります」


彼女は、内側の白い線を指でなぞった。


「両側に線があるということは、両側から開くということです。……ここは、扉ではなく、境(さかい)です」


俺は、その線に足を載せた。


その瞬間、足の裏から何かが上がってきた。痛みとは違う。冷たさでもない。


位置だ。


自分が今、どこに立っているかが、急に正確に分かった。この星の、この場所の、この一点。ずれが無い。18年、俺は自分の位置をこんなにはっきり感じたことがなかった。


「ミルカ。ここは何だ?」


「分かりません。ですが、地図の縮尺が合わない場所と同じ手触りです」


「谷もか?」


「谷もです。ラセルの井戸も、たぶん同じです」


彼女は、紙に線を引いた。3本の線が、1点で交わった。


その点が、この砦だった。


俺は、そこで欠陥版の次元魔法を試した。


闇を12枚、円の内側に組み、縫い目を探って指を掛けた。いつもより硬い。抵抗が返ってくる。


向こうがある、ということだ。


引いた。


開いた。


1尺の穴ではなかった。3尺ほどの穴が、円の中心に開いた。穴の向こうが、暗い。人間の目には暗いだけだが、俺には見えた。


石だ。


赤黒い石の床が、そこにあった。柱が6本。そのうちの1本に、鎖が巻いてある。


——魔界の、俺の広間だ。


見えたのは、3拍だった。


閉じる前に、向こうで何かが動いた。柱の陰だ。人影ではない。もっと大きい。


俺は、穴の縁を掴んで、引き延ばそうとした。


延びなかった。器が4割では、3尺を3拍しか保てない。


膝をついた拍子に、組んだ12枚が全部ほどけて、闇が石の上へ散った。


「ゼノ」


リディアが、隣に膝をついていた。


「今のは、わたしのじゃない」


「あぁ」


「あんた、どこを開けた?」


「……俺の家だ」


言ってから、余計なことを言ったと思った。


リディアは、それ以上訊かずに、自分の包帯の手で俺の腕の輪に触れ、少しだけ引いた。輪は、動かなかった。


    ◆


その日の夕方、千二百人が戻ってきた。


北東へ歩かせた者たちだ。カルナの国境で撤退を待って戻り、丘の上から、砦の無い場所を見た。


誰も、泣かなかった。


泣く代わりに、数を数え始めた。フィーネが出発前に書き取った名簿を、先頭の若い男が読み上げた。名を呼ぶたびに、返事が来る。返ってこない名が、9つあった。


9人は、道中で死んだ。年寄りが6人と、生まれて3月の子が1人と、あとの2人は名だけが残った。


読み終わったあと、その若い男が俺のところへ来た。


「砦の人は」


「59人だ」


「……300いました」


「今は59だ」


男は、それを聞いて、丘の方を見た。焼け跡の上に、まだ細い煙が立っている。


「砦長は」


俺は、答えなかった。


千二百人は、その晩、焼け跡の周りで寝た。


火を焚いた。木が無いので、焼け残った梁を割って使った。自分たちの砦の梁だ。割るときに、誰も何も言わなかった。


俺は、少し離れた石の上に座っていた。


そこへ、ポーラが椀を持ってきた。王都から、荷車で3日かけて追いかけてきた女だ。本人に言わせれば、「鍋があるから」だそうだ。


「熱いよ」


「あぁ」


「あんた、痩せた」


「痩せてねえ」


「痩せたって。あたし、人の顔は覚えないけど、食べる量は覚えるの」


ポーラは、そう言って俺の隣に座り、自分の分の椀を持って、しばらく黙っていた。


「死んだ人の分まで食べな、とは言わないよ」


「言うなよ」


「言わない。でも、あんたが食べないと、みんな食べないんだよ」


ラウルが来たのは、その夜の遅い時間だった。


痩せた若い男が、火の輪の外に立って、こちらを見ていた。それから歩いてきて、俺の前で止まった。


「残ります」


「ここは焼け跡だぞ」


「教団に。……いえ、あんたのところに」


「戻ったのか」


旧道では、リィナに「知らせに来ただけのつもりだった」と言ったと聞いている。


今度は、違った。


「戻りました。知らせに行っただけのつもりでした。ですけど、旧道で、67人死にました。俺が道を教えたから、あそこで止められた。俺が教えなかったら、王都の方で、もっと死んでました」


彼は、息を吸った。


「どっちも、俺がやったことです。数えるなら、両方数えないと、合いません」


「合わせて、どうする?」


「……次に道を見つけたときに、困ります」


ドルガのところへ行けと言いかけて、やめた。代わりに、こう言った。


「飯は、同じだけ食え」


夜が更けてから、俺は円のところへ戻った。


1人だ。誰も連れていかなかった。


円の上に立つと、また位置が分かる。この一点。ずれの無い場所。この星のどこにも、こんな場所は3つしか無い。谷と、ラセルと、ここだ。


3拍だけ、俺の広間が見えた。


柱が6本。鎖が1本。そして、柱の陰で動いた何か。


18年待った。


器を作って、魔法を積んで、人間の中で名前を持った。それが今日、3拍だけ届いた。


3拍では、何も渡せない。


だが、届いた。


俺は、円の上に座り込み、両手を膝に置いて、焼けた石の匂いを嗅いだ。油と、鉄と、人の焼けた匂いが混ざっている。ひと月を過ぎても抜けない匂いだ。


グレイグは、ここで81人を焼いた。


自分の砦ごと焼いた。俺の手を使わせずに、内側から閂を掛けて。本人は井戸の底で生き延びて、今は丘の下の村で、背中の皮が張るのを待っている。


——渡すのだ、と言った。


渡された。


千二百人と、59人と、鉄の鳴らない蝶番と、この円。


俺はそれを受け取って、まだ何も返していない。


「グレイグ」


ここにいない男の名を、焼け跡に向かって言った。返事は無い。


言っておかないと、忘れる。18年で、俺は忘れることを覚えた。


「あんたの下に、界の境がある。……ここから先は、俺の話だ」

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