第121話 俺に決めさせろ
王都へ戻るのに、10日かかった。
腕の輪は、2つとも外れなかった。首のは自分ごと焼いて落としたが、腕のは肉が薄い。焼けば骨まで行く。骨まで行っても治せるが、治している間、器は空のままだ。
器は、4割で止まっていた。
10日歩いて、1割も戻らない。上級の闇魔法が1つ。それだけだ。18年で、いちばん弱い。
「痛みますか」
「痛まねえ」
「嘘です」
リィナは、そう言って、歩く速さを少し落とした。
◆
大学へ着いたのは、夜だった。
東棟の3階に、灯りが点いている。階段を上がると、ポーラが厨房の戸を開けて待っていた。俺の顔を見ると、何も言わずに奥へ引っ込み、椀を持って出てきた。
「熱いよ」
「あぁ」
「熱いって言ってんの。持ったら熱いから、下に置いて食べな」
59人のうち、41人がここに入った。
残りは、教団が引き取った。ドルガが自分で来て、1人ずつ名前を確かめて、連れていった。そのとき、あの男は全員の目を見た。60過ぎの教主が、そうやって18人を引き取るのに、半刻かかった。
ミルカは、ずっと紙を書いていた。
砦の211人と、旧道の67人と、侍女5人。数と、名前と、どこで死んだか。
「ゼノ。合計で283人です」
「そうか」
「わたし、名前を全部書きました。ですが、顔は12人分しか思い出せません」
エリシアが来たのは、翌日の朝だった。
馬車ではなく、馬で来た。供は無し。1人だ。階段を上がってきて、部屋に入って、外套も取らずに立ち止まって、俺を見た。
俺の腕の輪を見て、指の添え木を見て、首の焼け跡を見た。順に、上から下へではなく、傷の古い順に見た。
それから、何も言わずに歩いてきて、俺の前で膝をついた。
「エリシア様」
リィナが、部屋の隅からそう呼んだ。
エリシアは、答えなかった。膝をついたまま、俺の腕の輪に手を伸ばして、触れた。指は、すぐに離れた。
「……冷とうございますね」
「あぁ」
「これは、外れませんの?」
「外れねえ」
彼女は、顔を上げた。目が赤い。泣いた赤さとは違う。眠っていない赤さだ。
「ゼノ様。お詫びを申し上げます」
「言うな」
「申し上げます」
「詫びは要らねえ。用件だけでいい」
エリシアは、膝をついたまま、言葉を探した。見つからなかったのか、見つけたものを捨てたのか。
「……わたくし、名簿から名を消しました」
◆
部屋の空気が止まった。
最初に口を開いたのは、フィーネだった。壁際に立っていた女が、卓の脚を蹴るようにして前へ出てきた。
「今、なんと仰いましたの」
「名を、消しました」
「どちらのですの」
「ヴァリス王家の名簿と、王国の貴族名鑑、両方でございます」
フィーネの顔から、色が引いた。
「……あなた、自分が何をしたか分かっておりますの」
「分かっております」
「分かっていて、名を消したと?」
「消しました」
「名簿に無い者は、居ないことになりますのよ」
「存じております。それが、目的でございますから」
エリシアの声は、驚くほど平らだった。
「聖国の要求は、『ヴァリス家息女の引き渡し』でございます」
彼女は、立ち上がって外套の前を合わせた。指が、まだ震えていた。
「ヴァリス家に息女がおりませんのなら、引き渡す者がおりません。要求は、形式として成り立たなくなります。……あの方々は、形式で動く方々でございますから」
「じゃあ、あんたは何になった?」
「何にもなっておりません」
フィーネが、卓を叩いた。その音で、ミルカの紙が2枚落ちた。誰も拾わなかった。
「……わたし、5万でその『何か』を買いましたの」
「存じております」
「存じております、ではございません」
「ですの」が、消えていた。
「あなた、それを捨てたんですよ。わたしが5年、厩で寝起きして、名簿に載るためだけに買ったものを、あなたは1日で」
「フィーネさん」
リィナが、間に入った。
「エリシア様は、買っていません」
「知っています」
「買っていないものは、捨てられません」
リィナは、そう言った。言い方が、喧嘩を止める者のそれとは違った。
「エリシア様は、置いてきただけです」
フィーネは、リィナを見て、それから天井を見た。そのまま、長い息を吐いた。
「……リィナさん。あなた、時々、こわいですわ」
「すみません」
「謝らないでくださいまし。褒めておりますの」
彼女は椅子に座り、両手で顔を覆った。そのまま、動かなくなった。
俺は、そこまで黙っていた。
腹の底で、何かが動いていた。それが何なのかを言い当てられないまま、口が開いた。
「エリシア」
「……はい」
「あんた、いつ決めた?」
「27日前でございます」
エリシアは、外套の前を握り直した。
「砦が落ちる前だな」
「落ちる17日前でございます」
「俺に、知らせなかった理由は?」
「お知らせすれば、お戻りになりますでしょう。お戻りになれば、砦へ行けません。砦には、千二百人おりました。……1人と千二百人でございます。どう置いても、答えは同じでございました」
その計算は、正しい。俺が同じ立場なら、同じ計算をする。18年前も、そうやって計算し、1人を切り捨てた。その1人が誰だったかを、俺は今でも覚えている。
正しい。
それでも、腹の底のものが、収まらなかった。
「エリシア」
彼女は、顔を上げなかった。
「その計算を、なんで俺に見せなかった?」
彼女の返事を、俺は待たなかった。
「俺に決めさせろ」
「……ゼノ様」
「守られるか、戻るか。それを決めるのは、俺だ」
言ってから、自分の声が大きかったことに気づいた。
部屋の全員が、こちらを見ていた。
エリシアの目が、初めて揺れた。
そこから水が落ちた。彼女はそれを拭かずに、俺を見ていた。
「……わたくし、あなた様に、選ばせたくございませんでした」
「なぜだ?」
「選ばせれば、あなた様は、わたくしを選びます」
彼女は、そう言った。
「選んで、砦を捨てます。捨てたあとで、あなた様は——ご自分を、許せなくなります」
俺は、何も言えなかった。当たっているかどうかさえ、俺自身には分からなかった。
18年、俺は勘定をしてきた。損と得。借りと返し。数えれば、たいていのことは決まった。
この女は、俺が数え損なう場所を、先に数えていた。
「1つ、言っとく」
「伺います」
「あんたのやったことは、ザリエルと同じだ」
エリシアの肩が、跳ねた。
「1人で決めて、黙って、後から結果だけ見せる。あいつは20年それをやって、聖女に嘘の神託を聞かせてきた。」
「……はい」
「だから、もう1つ隠してるやつを、今のうちに出しとけ」
エリシアは、そこで初めて、視線を外して、窓の方を見た。この部屋の窓からは、王宮が見える。
「……もう1つは、ございません」
「嘘だな」
「嘘ではございません。——もう、無いのでございます」
彼女の目は、窓の王宮に向いたままだった。
「名を消しましたので、婚姻の話も、消えました。消えたものは、申し上げても仕方がございません」
「婚姻」
「さようでございます」
「誰とだ?」
「メルセアの、ジークハルト殿でございます」
部屋の隅で、ユーリカが椅子を蹴って立った。椅子が倒れて、床で跳ねた。
「は? あいつ、そんな話……」
「1月前でございます。ユーリカ様が、王都を離れておられた間に」
「兄貴、断ったの?」
「いいえ。お受けになりました」
ユーリカの顔が、真っ白になった。
「……断ったと思ってた」
「殿下は、こう仰せでした。『わたしが受ければ、聖国は手を出しにくくなる。それだけの話です』と」
エリシアは、少しだけ、口の端を動かした。笑ったのとは違う。笑おうとして、できなかった動きだ。
「わたくし、あの方に、深く頭を下げられましたの」
「それを、あんたは受けたのか?」
「受けました」
「受けて、その後で、名簿から名を消したのか」
「はい。その順でございます」
俺は、そこでようやく、腹の底のものの名前が分かった。
嫉妬だ。
18年ぶりに触った感情だった。魔界にいた頃は、こんなものを持つ必要が無かった。欲しいものは全部、手を伸ばせば届いた。届かないものは、無かった。
「ゼノ様」
「……なんだ」
「お怒りでございますか?」
「怒ってねえ」
「お顔が、怒っておられます」
俺は、その場を離れて窓際まで歩いた。自分の足音が、うるさい。器が4割でも、足音くらいは消せる。消すのを忘れていた。
「明日、審問だ」
俺は、窓の外を見たまま、そう言った。
「聖国の使節が、あんたを出せと言う。出せねえと言えば、家名を持ち出す。家名が無えと分かれば、次は別の名を持ち出す」
「そうなりましょう」
「そのとき、あんたは黙ってろ」
「……わたくしが、でございますか?」
「あんたが口を開くと、また1人で決める。——明日は、俺がやる」
◆
その夜、リィナが屋上へ上がってきて、隣に座った。木剣を膝の上に置いて、しばらく柄の巻きを直していた。
巻き終わってから、こう言った。
「ゼノ様。わたし、エリシア様が羨ましいです」
「なんでだ?」
「ゼノ様が、あんなに大きい声を出したのを、初めて見ました」
彼女は、そう言って、少し笑い、木剣を抱えて、先に階段を下りていった。




