第120話 渡すのだ
地下から出てきたのは、40人だった。
床の線に沿って、石が内側から溶けた。その穴から、白い外套が順に、速く上がってくる。這うのではなく、立ったまま押し上げられて出てくる。
40人の先頭に、審問官がいた。
エイドリクだ。去年、40人を率いて石の谷へ来た男だ。あのときは、よく通る声で教義を読み上げていた。
今日は、違った。
「ゼノ・エルディス」
俺の名を、そう呼んだ。
「その名は、名簿にございません。ございませんが、こちらの板には、書いてございます」
彼は、懐から板を出した。木の板だ。表に、字が彫ってある。
遠くて読めないが、字の長さで分かる。
俺の名だ。
「板は、いつ作った?」
「1年前でございます」
「誰が彫った?」
「猊下が」
エイドリクは、板を胸の高さで持った。
「あなた様のお名前を、我々は存じませんでした。存じないものを、猊下は1年前に彫っておられます」
俺は、貯蔵庫の床を見た。
溶けた線は、円を描いていた。俺がラセルで見た、棚の口と同じ形で、こちらの方がずっと古い。何百年も前から、この砦の下に埋まっていた。
グレイグは、去年「床に古い線がある」と言っただけで、掘らなかった。掘る鉄も、掘る人手も、この砦には無かった。
「グレイグ」
俺は、階段の上へ声を上げた。
「あんたの砦の下に、口がある」
上は、壁の戦いの最中だった。
塔が4つとも壁に着いて、兵が渡り始めている。190人足らずが、それを押し返しているが、押し返しきれていない。
グレイグの声が、上から降ってきた。
「開いとるのか?」
「開いてる」
「閉められるか?」
「……内側から引っ張れば閉まる」
言ってから、気づいた。
内側から引っ張る。
ラセルでやった。あのときは、俺が棚の内側へ入って、母親を担いで出た。その間、リディアが外から縫い目を開けていた。
今回は、逆だ。
今、口の内側にいるのは、敵の40人ではない。その後ろに続く本隊だ。地下の道が、どこまで続いているかは分からないが、線は南東へ伸びている。
聖国まで、繋がっている。
「ミルカ。地上へ上がれ」
「嫌です」
「上がれ」
「上がりません。写しが途中です」
俺は、この女を一度だけ見て、闇を1枚床に伏せ、その上にミルカを載せたまま、階段の上へ滑らせた。
紙の束が、3枚飛んだ。
「ゼノ」
あの女が声を張るのを、初めて聞いた。
エイドリクの後ろから、41人目が出てきた。
その男は、両手に輪を持って、こちらへ歩いてくる。人間の歩き方だった。
だが、持っているものは違う。
「それを、どこで貰った?」
「授かりました」
「誰にだ?」
「猊下に。……猊下は、天より授かったと仰せです」
輪が、4つ来た。
3つを落とした。最後の1つが、首に掛かった。
底に、蓋がされた。
今度は、残りが2割になった。2割では、上級の闇魔法は使えない。中級までだ。中級の闇魔法で、40人は止まらない。
だから、俺は殴った。
魔法を使わずに人間を殴るのは、18年ぶりだった。
拳が、思ったより効いた。人間の体は、思ったより丈夫で、思ったより早く壊れる。7人目で指が折れ、その指で8人目を殴った。
エイドリクが、後ろで何か唱えていた。
終わるのは、待たなかった。
首の輪を、光で焼いた。自分の首ごと焼いた。焼けた匂いがして、輪が1つ落ちた。
蓋が、1枚外れた。
2割が、4割に戻った。4割あれば、上級の闇魔法が1つだけ使える。
俺は、それを床の円に使った。
敵に向けたのではなかった。円の内側へ、12枚の闇を落とし込み、内側から縁を掴んで——引いた。
石が、鳴った。
円が、縮んだ。
その縁に、41人目が半分だけ残り、そこで止まって、動かなくなった。
閉じ切る前に、エイドリクが叫んだ。
「——猊下。この者は、二つを持って——」
叫び終わらなかった。
床が、元の石に戻った。継ぎ目も無い。何も無い。ただの貯蔵庫の床だ。
俺は、膝をついた。
器が、空だ。底を掻いても、何も上がってこない。指が3本折れていて、首の皮が焼けていて、腕の輪はまだ2つ残っている。
階段の上で、音が変わった。
戦いの音とは違う。人が走って、降りてくる音だ。
「ゼノ」
グレイグの声だった。
「上が抜けた」
「何人残った?」
「61だ」
砦将は、階段の途中で止まっていた。片腕が、肩から下がっていた。血の付き方が、自分のものではない付き方だった。
「東門から出す。61人と、あんたらだ」
「あんたは?」
「俺は、門を閉める」
「閉めるのは、外からでいい」
「外からでは、閂が掛からん。この砦の東門は、内側からしか閂が掛からん。20年前の改修で、そうなった。……図面が漏れとるなら、向こうも知っとる」
俺は、立ち上がろうとして、できなかった。器が空だと、人間の体は重い。
「あんたも担いで出す」
「担がれん」
「あんた、41年おると言ったな」
「言った」
「41年おった場所を、今日で終わらせるのか?」
グレイグは、下がった片腕を、もう片方の手で持ち上げ、腰の帯に挟んでから、こう答えた。
「終わらせるのではない。渡すのだ」
「誰にだ」
「逃げた千人にだ」
東門が開いた。
61人が出た。ミルカは、シャルが担いだ。リディアは、自分で歩きながら、最後の20回を使って、丘の向こうまで水の袋を落とし続けた。
俺は、兵の肩を借りて、いちばん後ろを歩いた。
門の内側に、グレイグが立って、こちらを見ていた。何も言わずに、片手で、門の蝶番の方を指した。
鉄が、鳴らない蝶番だ。
門が閉まった。
思ったより静かな音だった。閂の落ちる音が、そのあとに1つ鳴った。
俺は、丘を1つ越えたところで、振り返った。
砦が燃えていた。
火は、下から上へ回っていた。油の樽は全部使い切ったはずだ。それなのに、火は貯蔵庫の方から上がっていた。
◇
——焼いてくれんか。
夕方、あの男はそう言った。
81人と、自分を、砦ごと焼いてくれと。俺は、その頼みを受けずに、「死ぬ前提で喋るな」と言った。
あの男は、自分で焼いた。
俺の手を、使わせなかった。
夜通し燃えた。
朝になっても、石が熱を持っていた。近づけないまま、61人は丘の上で朝を迎えた。
59人になっていた。
2人は、夜のうちに死んだ。運んでいる途中だったのか、丘の上でだったのかも分からないまま、ミルカが名前を2つ、紙に書いた。
「ゼノ」
「あぁ」
「61人と書いてしまいました。消して、59にしますか?」
「消すな」
俺は、そう言った。
「61で書いとけ。2人減ったと、その下に書け」
ミルカは、頷いて、そう書いた。それから、羽根ペンを持ったまま、しばらく紙を見ていた。
昼前に、丘の向こうから人が来た。
木剣を持った娘だ。3日の道を2日で来て、そのあとさらに半日歩いてきた顔をしていた。後ろに、痩せた若い男が1人いる。
リィナは、燃え落ちた砦を見て、それから俺を見た。俺の指と、首と、腕の輪を、順に見た。
「……ゼノ様」
「遅い」
「はい」
彼女は、それだけ言った。
そこに座り込むかと思ったが、丘の上の59人のところへ歩いていって、1人ずつ、水を配り始めた。名前を訊きながらだった。
59人の名前を訊き終わるのに、昼が過ぎた。
日が傾いて、石の熱が少し引いた。兵が4人、焼け跡へ入っていった。81人の骨を見に行ったのだと思っていた。
戻ってきた4人は、戸板に1人を載せていた。
グレイグだった。背中と、下がっていた方の腕が焼けて、服が皮に貼りついている。中庭の井戸の底に、胸まで水に浸かって座っていたという。閂を落として、貯蔵庫の油に火を入れて、そのあと綱を伝って下りたらしい。
俺は、戸板の横にしゃがんだ。
煤と、焼けた毛の匂いがした。グレイグは目を開けないまま、唇だけ動かした。
「……何人、出た」
「61。夜のうちに2人減った」
「そうか」
それきり、何も言わなかった。息はしていた。
その日のうちに、丘の下の村へ運ばせた。
俺は、熱の残る石を見ていた。
全部守ると言った覚えはない。言っていないのだから、守れなかったことを詫びる筋合いも無い。
無いが。
門の蝶番は、鉄が鳴らないまま焼けた。塞いだ闇は、俺が生きている限り消えない。焼け落ちた石の下で、あれだけがまだ、俺の魔力を吸っている。




