第116話 あの日と同じ冷たさ
聖国軍は、その日、攻めてこなかった。
丘の上に並んで、天幕を張り終えると、香を焚いた。風がこちらへ吹いているので、砦の中まで匂いが来る。甘い匂いだ。嗅いでいると、頭の奥が少し鈍る。
「毒か?」
「違う」
グレイグが答えた。
「祈りの香だ。あれを3日焚いてから攻める。そういう軍だ」
「3日待つのか?」
「向こうは待つ。こちらは待てん」
◆
砦の兵は271人。
うち、上級魔法が使える者は3人だった。火が2人、風が1人。中級までなら40人ほどいる。残りは、魔法を使わない兵だ。
俺は、その3人を中庭に集めて、名前を訊いた。3人とも、名乗るときに背筋を伸ばした。そのままでいいと言うと、余計に伸びた。
「あんたら、陣を何枚まで重ねられる?」
「……3枚です」
「2枚と半分です。3枚目が、たまに崩れます」
「崩れる方は、下がってろ」
「下がりません」
そう言ったのは、いちばん若い兵だった。20かそこらだ。火魔法の方で、指の腹に焼けた跡がいくつもある。自分の火で焼いた跡だ。
「下がると、何人か死にます」
「下がらなくても死ぬ」
「じゃあ、同じです」
俺は、名前をもう一度訊いた。カイという名だった。
夜のうちに、油の樽を上げた。
271人で、地下から城壁の上へ、樽を38運んだ。誰かが樽の数を口に出していて、その声が途中から歌になった。
そうなると、運ぶのが速くなる。
18年見てきたが、いまだに理屈が分からない。
樽を上げ終えたのは、夜明け前だった。
そのころ、中庭の石畳に、紙が1枚落ちてきた。
リディアが彫った円からだ。シャルが拾って、俺のところへ持ってきた。
フィーネの字とは違った。エリシアの字だ。
『旧道がございます。地図に無い道です。谷の背後に出ます。
近接で斬り合える兵が500、要ります。上級の火魔法は、道が狭く使えません。
——リィナ様を、お貸しくださいまし』
俺は、その紙を2度読んだ。
読み返しているとき、後ろに足音がした。振り返らなくても分かる。北東へ千人を送って、夜通し駆け戻ってきた足だ。
「ゼノ様」
「帰ってくるなと言った」
「配り終えました」
リィナは、俺の手元の紙を見て、そこに自分の名前があるのを見つけた。
「わたしの名前が、書いてあります」
「その字が読めるのか」
「『リィナ』だけなら読めます」
彼女は、そう言って、少し得意そうにしてから、すぐ顔を戻した。
「……何が書いてありますか」
俺は、紙を渡さずに、こう言った。
「500人を率いて、狭い道を塞げと書いてある」
リィナは、しばらく自分の掌を見ていた。木剣の柄で潰れた胼胝が、両手とも同じ場所にある。潰れて、固まって、また潰れた跡だ。
「わたし、500人を率いたことがありません」
「無えな」
「どうすればいいですか?」
「知らねえ」
「……ゼノ様は、知っているはずです」
知っている。
前世で、俺の下には万がいた。万を動かすのは、数を動かすことではない。いちばん前で誰が死ぬかを決めて、その顔を残り全員に見せることだ。
だが、それを言うと、この娘は前に出る。
「エリシアが決めたことを、俺は直さねえ」
俺は、それだけ言って壁の方へ歩きながら、後ろで木剣の柄を握り直す音を聞いた。
聖国軍が攻めてきたのは、3日目の朝ではなかった。
2日目の昼だ。香が、まだ2日分しか焚かれていない。丘の上の白い列が、いきなり形を変えて、坂を下ってきた。
「早い」
グレイグが、壁の上でそう言った。
「祈りが終わっとらん」
「終わってなくても来たな」
「……あれは、待てん理由がある側の動きだ」
先頭は、盾だった。
大きい盾だ。人の背丈ほどある板に、白い布を張っている。その布が光っていた。布ではなく、布の上に張った陣が光っている。
陣は、2枚だ。中級の光魔法。盾1枚につき、2枚。
それが、200枚並んで坂を上がってくる。1枚ずつなら中級でも、200枚が同じ速さで動くと、壁のように見えた。
「油を落とせ」
グレイグの声が飛んだ。
樽が落ちた。
その油に、カイが火を入れた。火魔法の中級。狙ったのは油ではなく、油の落ちた地面の手前だ。そこから焼くと、火が坂を下らずに上がる。
盾の列が、止まった。そこへ、風の上級が横から吹いた。火が、盾の列の内側へ入った。
悲鳴が上がった。思ったより少なかった。
理由は、すぐ分かった。
焼けた兵が、叫ばずにそのまま立って、盾を前へ出し直している。
俺は、その立ち方に見覚えがあった。魔界の言い方があるが、人間の言葉で言うと、こうなる。
「あいつら、痛みを切ってる」
「切れるのか?」
「切れる。器の外から押さえれば切れる。……やると、あとで戻らねえ」
俺は、壁から飛んだ。闇を6枚、足の下に敷いて速さを殺し、盾の列の真ん中に、音を消して下りた。
すぐに、囲まれた。
想定のうちだ。200枚の盾は、内側を向けない。向けると、隣の盾と噛み合わなくなる。
俺は、内側で暴れた。
闇を12枚組んで、円の形に置き、外へ広げた。上級の闇魔法だ。盾の内側から外へ押すと、噛み合った列が、噛み合ったまま裏返る。
裏返った盾の陣が、自分の光で自分を灼いた。
そこまでは、計算どおりだった。
狂ったのは、そのあとだ。
盾が割れた隙間から、鎖に見えるものが来た。
鎖とは違う。光でできた輪だ。輪が3つ、俺の手首と首に掛かり、その瞬間、体温が落ちた。
冷たい。
石の冷たさとは違う。もっと薄い、広い冷たさだ。人間の皮膚を通り越して、器の内側を直接撫でてくる冷たさ。
——《《知っている》》。
18年前に、俺はこれで死んだ。
天界の回廊で、背中から来た。誰が来たかを見る前に、この冷たさが先に来た。それだけを覚えている。顔は覚えていない。
その同じものが、今、聖国軍の兵の手から出ている。
「捕縛の術です」
盾の向こうで、誰かがそう言った。若い男の声だ。
「猊下より賜りました。——大悪魔は、これで捕らえよと」
俺は、闇を1枚だけ組んだ。
12枚は組めない。輪が掛かってから、器の底が急に遠くなった。汲もうとすると、手の届かないところへ下がる。
1枚を、輪と皮膚の間に差し込んで、押し広げた。輪が、闇1枚分だけ肉から離れた。その隙間から、俺は自分の腕を抜いた。皮が、手首の周りで一周分、剥がれた。
血は出なかった。冷たさが、血まで止めていた。
◆
砦の門が開いた。
グレイグが開けさせて、70人ほどを出した。その70人が、坂を駆け下りて、俺と盾の列の間に入った。
「戻れ、ゼノ殿」
「まだやれる」
「やれても戻れ。門が閉められん」
俺は、戻った。
門が閉まったとき、外には30人残っていた。
70人出して、40人が戻った。残った30人は、盾の列に飲まれた。その前に、何人かがこちらを向いて何か叫んだが、風で聞こえなかった。
グレイグは、閉まった門を見て、それから、俺の手首を見た。皮が剥けて、その下が黒い。
「……それは、あんたの色か?」
「あぁ」
「そうか」
◆
夜になった。
中庭で、兵が死体を並べている。場所が足りなくて、貯蔵庫の入口の前まで列が伸びた。
リィナが、俺のところへ来た。木剣ではなく、鉄の剣を1本持っていた。グレイグの部下から借りたものだ。柄の巻きが、手に合っていない。
「ゼノ様。決めました」
「あぁ」
「わたし、旧道へ行きます。500人は、こちらでは借りません。王都で借ります」
「理由は?」
「ここにいる者は、明日も要ります」
リィナは、俺の手首を見ないようにしていた。
「わたしが連れていくと、ここが1人減ります。……1人でも、減らせません」
「歩くと3日だ」
「知っています」
「間に合わねえぞ」
「間に合わせます」
リディアが、中庭の隅から言った。
「王都には、開く」
彼女は、立ち上がって、自分の右手の包帯を口で締め直した。この女は、いつも同じやり方で締める。
「人は通らない。紙と、手と、刃だけ」
「知ってます」
リィナは、そう答えた。
「わたしが通るんじゃありません。——わたしの名前が通れば、500人は動きます」




