第115話 動かせぬ資材
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王宮の作戦室に呼ばれたとき、ヴィントは自分の名を2度確かめた。
呼び出しの紙には『ヴィント』とだけあった。家名が書かれていない。父が失脚してから、この国の紙に「ダリオン」の4文字を書く者はいなくなった。
部屋に入ると、卓の周りに将が7人いた。
7人とも、ヴィントを見なかった。
「火魔法の上級が使える者を集めた。以上だ」
そう言ったのは、第3軍の将だった。頬に古い刀傷がある男で、名はまだ覚えていない。
「東の街道で、橋を落とす。落としたら下がれ。以上だ」
「何本ですか?」
「7本だ」
ヴィントは、地図を見た。7本の橋が、東の街道に並んでいる。落とせば聖国軍は止まる。だが、その7本の橋は、東の4つの村が水を汲みに渡る橋でもあった。
「村の者は」
「聞いておらん」
「橋を落とすと、あの4村に残る井戸は、2つしかありません」
「知らん」
将は、地図を巻きながら、初めてヴィントの顔を見た。
「お前の父なら、同じことを言う。……いや、あの男なら、村ごと数に入れて計算しただろうな」
部屋の空気が固まった。誰も、その言い方を止めなかった。
作戦室を出て、ヴィントは廊下で吐いた。
出てきたのは、朝に食べたパンだけだった。石の床に膝をついて、袖で口を拭いて、それから、そのまま動けなかった。
足音が近づいてきた。
「あんた、そこで何してんの」
ユーリカだった。短い金の髪を、今日は結んでいない。手に、飲みかけの水の椀を持っている。
「……見ての通りだ」
「見た通りに言うと、吐いてる」
「言うな」
「言うよ。わたし、見たことしか言えないもん」
ユーリカは、椀をヴィントの前に置いて、自分は壁にもたれた。
「何言われた?」
「……父と、同じことを言うだろうと」
「言われて、なんで吐くの?」
ヴィントは、答えられなかった。
◆
その夜、ヴィントは大学の書庫の地下へ下りた。
宰相府の書物のうち、焼かれなかったものが、ここへ運び込まれている。トバイアスの仕事だ。3年生のあの男は、失脚の翌日に荷車を1台借りて、誰にも言わずに2往復した。
「4000回描いた陣より、こっちの方が重かったですよ」
トバイアスは、そう言って笑ってから、真顔でこう足した。
「ヴィントさん。あなたが読むまで、誰にも見せていません」
木箱が12ある。
11箱は、税と穀物の帳簿だった。12箱目に、表紙の無い綴じ本が3冊入っていた。
1冊目を開いて、ヴィントは息を詰めた。
父の字だった。
細くて、右上がりで、数字だけが妙に丸い。墨が薄い。速く書く人だった。子供の頃、書斎で盗み見た字だ。見ただけで叱られた。何を叱られたかは覚えていないのに、字の形だけ覚えている。
『東部防衛、第3案』
『前提——聖国が南東から来る場合、ローデン砦は持たない。持たせようとすれば、王都の兵を割く。割れば王都が空く』
『よって、砦は捨てる』
ヴィントは、一度、本を閉じた。
閉じて、開いた。
『捨てる代わりに、砦の兵を東の4村へ入れ、村ごと防塞にする。村の者は……』
続きは、読まなくても分かった。
それでも、最後まで読んだ。父の計画は、精緻だった。無駄が1つも無い。兵の数、水の量、日数、退く順。すべて数字で書いてある。
数字の中で、村の者は《《動かせぬ資材》》と書かれていた。
ヴィントは、その行を指でなぞってから、綴じ本を床に置き、両手で顔を覆った。
手の下で、声が出た。
「……父上は、こんなものを、僕に見られたくなかったはずだ」
「じゃあ、閉じますか?」
トバイアスが、そう訊いた。
「閉じて、元の箱に戻します。僕、運んだだけなので、戻すのも僕がやります」
ヴィントは、顔から手を離して、綴じ本を拾い上げた。
「……いや。読む」
3日かけて読んだ。
ヴィントは別の紙に写し、数字を1つずつ確かめた。父の計算は、2箇所だけ間違っていた。2箇所とも、20年前の橋の幅で計算していた。橋は、15年前に架け替えられて広くなっている。
その分、兵は速く渡れる。村を防塞にしなくても、間に合う。
◆
4日目の朝、ヴィントはエリシアの前に、紙を14枚並べた。
公邸の広間だ。エリシアは、外套を着たまま立っていた。ここ数日、この人が座っているところを、ヴィントは見ていない。
「父の計画を、書き直しました」
「……ダリオン様の」
「はい。骨は父のものです。切り捨てる部分だけ、僕が変えました」
エリシアは、紙を1枚ずつ見た。速い。読んでいないのではなく、読めている速さだった。
「橋は、落としませんの」
「落とします。7本のうち、3本だけです」
ヴィントは、指で地図を叩いた。
「3本落とせば、敵は南へ迂回します。出てくる先が、この谷です。谷なら、2000で1万を止められます。……父の計算です」
「残りの4本は」
「村の水です。落としません」
エリシアは、しばらく地図を見ていた。
「ヴィント様。あなた、これを将軍方の前で言えますの」
「言えません」
「なぜ」
「僕が言うと、父の名が出ます。出れば、案ごと捨てられます」
彼は、声を落とした。急に、子供の声になった。
「……僕の名前でも、駄目なんです」
エリシアは、紙を揃えて、自分の胸の高さで持った。
「では、わたくしが出します」
「エリシア様」
「わたくしの名で出します。異論は、わたくしが受けます」
「それでは、あなたが——」
「わたくしは、もう1つ、自分の名で受けているものがございます」
彼女は、そこで言葉を切り、言い直さなかった。
◆
その日の午後、ポーラが厨房から出てきた。
大学の厨房ではない。公邸の厨房に、勝手に入り込んで、勝手に鍋を使っている。誰も止めなかった。
「はい、ヴィントさん」
「……これは」
「食べるやつ」
椀が突き出された。中身は麦の粥だ。塩が効いている。ポーラの手は熱い。椀の縁まで熱い。
「3日食べてないでしょ。分かるんだから」
ヴィントは、それを受け取った。一口食べて、それから、椀を持ったまま動かなくなった。
ポーラが、前掛けで手を拭きながら言った。
「ねえ。あんたのお父さん、悪い人だったの?」
「……悪い人です」
「じゃあ、あんたはどうなの?」
「分かりません」
「分かんないなら、食べな。食べてから考えな」
◆
夕方、教団の伝令が来た。
ドルガ本人だった。白髪を後ろで束ねた60過ぎの男が、公邸の裏口から入ってきて、エリシアの前に紙を置いた。
「旧道です」
「旧道」
「地図に無い道が、1本ございます。石が敷いてあり、荷車が通ります。……出所は、うちの若いのです。刻印の無い者でして」
ドルガは、少しだけ笑った。
「辞めた男が、線を引いて寄越しました」
エリシアは、その紙を地図に重ね、線の行き先を指で追った。途中で、指が止まった。
旧道は、東の街道の裏をまわり、谷の出口に出る。ヴィントが「2000で1万を止められる」と言った、その谷の——背後だ。
「……挟まれますわね」
「はい」
ヴィントの声が、掠れた。
エリシアは、地図から顔を上げずに、こう言った。
「ヴィント様。この旧道に、何人要りますの」
「狭い道です。500で足ります。ただし、近接で斬り合える500です」
「火魔法ではなく?」
「はい。道が狭すぎて、上級の火魔法は味方に当たります」
エリシアは、そこで初めて顔を上げた。
「近接で500」
彼女は、外套の前を握った。手の甲に、力が入っていた。
「……1人、心当たりがございます。ですが、今、東の砦におります」
窓の外で、鐘が鳴った。夕の鐘だ。王都の鐘の音は、東の砦までは届かない。3日かかる距離だ。
「間に合いますかしら」
誰も、答えなかった。




