第114話 鳴らない蝶番
門の前の千人は、動かなかった。
水は配られていた。1人1杯。杯を持ったまま、誰も飲まずに、門を見ている。
俺は、その間を歩いた。
人が避けた。怖がる者の避け方とは違う。誰かが通るなら通せ、という避け方だ。この人数を2日歩かせるのは、無理だと全員が分かっている。それでも、立っている。
門の上で、グレイグが俺に気づいた。
「……ゼノ殿か」
「あぁ」
「9人で来たな。前は」
「今日は6人だ」
グレイグは、門の上から下りてこないまま言った。
「悪いが、あんたも入れられん。中に入れるのは、戦える者だけだ」
「そいつは都合がいい」
「何がだ?」
「俺は、戦える」
門が開いたのは、それから半刻後だった。
片側だけだ。グレイグは、6人を通して、すぐに閉めさせた。その音で、外の千人が一度、こちらを見た。
中庭は、思ったより狭い。兵が走り回っていて、水の樽が並んでいる。樽の数が足りない。
「300人と聞いた」
「今は271だ」
グレイグは、歩きながら答えた。
「29人を、村へ走らせた。逃げ遅れがいないか見に行かせた。……戻らん者もおる」
「外の千人は、どうする?」
「北東へ歩かせる」
「2日だ。年寄りの足なら4日だ」
「分かっとる」
グレイグは、足を止めて、俺の方を向いた。左のこめかみの白いところが、雨で濡れて光っていた。
「分かっとるが、ここにおれば、明後日には全部死ぬ。歩けば、4日のうちに何人かを失う」
「水が足りねえんだろう?」
「足りん。1人1杯で、樽が空になった」
「なら、途中で配る」
「途中に井戸は無い」
俺は、リディアを呼んだ。
リディアは、中庭の隅で、すでに石畳に円を彫り終えていて、こちらを見もせずに言った。
「北東の道。わたし、7年前に歩いてる」
グレイグは、その円の前にしゃがんで、指で縁をなぞり、立ち上がって俺を見た。
「何ができる」
「水が送れる。ここから、2日先へ」
「樽ごとか」
「1尺の穴だ。樽は通らねえ」
「革袋なら通るな」
この男は、そこで初めて、部下に向かって声を上げた。
「革袋を、全部出せ。空でも出せ。縫い直せる者は手を挙げろ」
兵が動いた。
速い。命令の内容を訊き返す者が1人もいなかった。271人が、革袋を持って中庭に集まるまで、たぶん10分もかからなかった。
西の門を見に行った。
前に来たとき、あの男は「西は蝶番が歪んでる」と言った。9人が通れば今日中に落ちる、と。
今も歪んでいる。直っていない。
「直さなかったのか」
「直す鉄が無い」
グレイグは、あっさり言った。
「王都へ3度書いた。3度とも、来年の予算でと返ってきた。……来年は、来ん」
俺は、蝶番に手を当てた。
錆びている。錆の下に、木が入っている。木が痩せて、鉄が遊んでいる。この遊びが、門を落とす。
闇を1枚、薄く組んで、鉄と木の隙間へ流し込み、そこで止めた。動かさない限り、闇は消えない。俺が死ねば消える。俺が死んだあと、この門がどうなるかは、俺の勘定に入っていない。
「……何をした」
「隙間を埋めた。当分は落ちねえ」
グレイグは、門を押して揺らし、蝶番のところに耳を寄せた。
「鉄が鳴らん」
「鳴らねえよ」
砦将は、もう一度門を揺すり、掌に付いた錆を外套の裾で乱暴に拭った。裾の縁が赤く汚れた。
「……あんた、去年ここへ来たとき、これを見たか?」
「見た」
「見て、何も言わなかったな」
「あんたが知ってたからだ」
グレイグは、それきり口を閉じて、門から離れた。5歩ほど歩いて、振り返らずに足を止めた。
「礼は、後にする」
「あぁ」
「後が来るかどうかは、知らん」
◆
地下へ下りたのは、その夜だ。
砦の地下は、貯蔵庫になっている。麦と、塩と、油。樽の数は油がいちばん多い。籠城では火を使う。
その床に、線がある。
去年来たときにも見た。石畳の下に、もっと古い石が埋まっていて、そこに線が引いてある。まっすぐに引かれていない。ゆるく曲がって、貯蔵庫の壁の下へ消えている。
ミルカが、その前にしゃがんでいた。
「ゼノ。この線、彫ったものではありません」
「じゃあ、何だ」
「焼いたものです。石が、線のところだけ、溶けて固まっています」
彼女は、灯りを近づけた。
「この温度を出せるのは、火魔法ではありません。あれは、石を溶かす前に割ります」
「じゃあ、何が出す?」
「知りません。……ですが、谷の壁の、二重線の内側と、同じ手触りです」
俺は、その線に指を当てた。
冷たい。ただの石より冷たく、その温度に覚えがあった。どこで触ったかを思い出そうとして、思い出さずに、手を離した。
そのあとで、気づいた。
思い出そうとしたのではない。《《思い出しかけて、自分で止めた》》。
◆
翌朝、外の千人が歩き始めた。
段取りをつけたのは、グレイグの部下ではなかった。フィーネだ。
あの女は、夜のうちに外へ出て、千人の中の名前を全部書き取り、家ごとに順番を決めて、先頭に若い男を12人配って、最後尾を歩く者を1人決めた。
「数えてあれば、途中で減ったときに分かりますの」
「減らす前提か」
「……減らしたくはございませんわ」
リィナが、列の先頭についた。
木剣を背負って、子供を1人負ぶっている。その子に髪を掴まれたまま、彼女は俺の方を振り返った。
「ゼノ様。2日で戻ります」
「戻らなくていい」
「戻ります」
「向こうに着いたら、水を配れ。配り終えるまで戻るな」
リィナは、少し考えてから、頷いた。
列が丘を越えるのに、半日かかった。
最後の1人が見えなくなったとき、グレイグが門の上で、初めて息を吐いた。長い息だった。
その息が終わらないうちに、南東の空が鳴った。
雷の鳴り方ではなかった。
砦の兵が、全員そちらを向いた。俺も向いた。丘の向こうに、白いものが見えた。
白い。
外套の白ではない。旗だ。地平線の端から端まで並んでいる。数えようとして、やめた。数える意味が無い。
グレイグが、隣に来た。
「聖戦だと言っとるそうだ」
「誰がだ」
「向こうが、な。……こちらから見れば、ただの侵攻だ」
俺は、その白い線を見ていた。
俺から見れば、違う。
あの1万は、転生した大悪魔を捕らえるために来た。俺がここにいなければ、この砦は今日も蝶番が歪んだままで、来年の予算を待っていただけだ。
「グレイグ」
「なんだ」
「あんた、なんで俺を中に入れた?」
◆
砦将は、白い旗の列を見たまま、こう答えた。
「入れんかったら、あんたは外で戦うだろう。そうなると、外の千人が巻き込まれる」
「……それだけか」
「それだけだ」
彼は、門の蝶番の方を見た。
「それと、鉄が鳴らんようになった。あの門の内側なら、人を置ける」




