第113話 先に逃がす
馬は、3日で潰れた。
4頭のうち2頭だ。残りの2頭も、脚の腱が浮いていた。宿場で替えようとしたが、この街道の馬は全部、軍に買い上げられていた。聖国の軍ではない。ヴァリス側だ。
「歩くしかありませんわね」
「歩いてたら、24日だ」
「では、どうなさいますの」
俺は、リディアを見た。リディアは、道の端の石に座って、草鞋の緒を結び直していた。
「あんた、行ったことのある町にしか開けねえと言ったな」
「言った」
「今から行けばいい」
リディアは、緒を結ぶ手を止めて、顔を上げた。その表情が、初めて分かりやすかった。
「……それ、12年考えて思いつかなかった」
「12年も何を考えてた?」
「開ける方法ばかり」
彼女は、立ち上がった。
やり方は、単純だった。
先頭を、いちばん足の速い者が歩く。シャルだ。次の宿場に着いたら、そこの井戸か、教会の壁の前か、とにかく動かない物の横に立ち、地面に小さく円を彫る。
その場所を、リディアが「行った場所」として覚える。そこになら、開く。
そこへ、後ろから紙と、干し肉と、包帯と、替えの草鞋が落ちてくる。
「6日目です」
ミルカが、歩きながら数を言った。
「予定より、4日早いです。荷が無いのと、飯を煮ないのが効いています」
「飯は」
「歩きながら食べています。ゼノは3度、噛まずに飲み込みました」
「見てたのか」
「見ていました。喉が2度動くと、噛んでいません」
リィナが後ろで笑って、慌てて口を押さえた。
◆
7日目に、シャルが戻ってきた。
前へ出したはずの女が、こちらへ向かって走ってくる。走り方が、報告の走り方だった。
「街道に、荷馬車が20台」
「軍のか」
「幌に印がありません。ですが、車輪の轍が深いです。空荷の轍ではありません」
「どっちへ行った?」
「北です。北へ行く道は、この先で3つに分かれます」
俺たちは、街道の脇の斜面から、それを見た。
荷馬車が20台。牛が引いている。馬ではない。馬は軍に取られているから、牛だ。歩みは遅い。それでも、御者が急かしていない。
間に合う予定で動いているということだ。
「ミルカ。北の3つの道は、どこへ出る」
「1つはカルナ。1つは三国境の砦。……もう1つは、地図に載っていません」
「載ってねえ道が、なんで分かる」
「分かりません。分かるのは、この地図の縮尺が、そこだけ合っていないことです」
ミルカは、写しを膝に広げた。
「山の形を、7年前の写しと比べました。そちらには、谷が1本多いです。今の地図では、その谷が消えています」
「消した奴がいるってことか」
「地図を写した者が、谷を1つ写し忘れる確率は、低いです」
その晩、荷馬車の列は、街道脇の広場で止まった。
俺は闇を1枚、御者たちの焚き火の陰に伏せて、そこから声を拾おうとしたが、距離が遠すぎた。闇は音を運ばない。結局、シャルが木の上から見て、口の形を読んだ。
「『18日に、裏から』と言いました」
「裏ってのは」
「分かりません。ですが、地図を持っている者が1人います。他の御者は、その男に道を訊いていません」
◆
8日目の朝、荷運びの若い男が、俺たちの方へ歩いてきた。
列から離れて、1人で来た。歳は17か18だ。痩せていて、背だけ高い。肩に麻の袋を担ぐ手つきが、慣れている。
顔を見て、俺は足を止めた。
知っている顔だった。
「……ラウルか」
「はい」
刻印の無い35人の1人だ。越境の前に一度出ていき、王都の南の廃坑で戻ってきて、王都でオルドリクの名簿を当たっていた。そのあと、また姿を消した。二度目は何も言わなかったと聞いている。荷を積む順番だけ、残る者に教えて出ていった。
「荷運びか」
「はい。国境の手前まで運んで、帰る仕事です」
「教団は、どうした?」
「辞めました」
ラウルは、袋を下ろして、地面に座った。話を長くする気の座り方には見えなかった。
「訊いていいですか」
「訊け」
「あの列、何を運んでると思います?」
「あんたの見立ては」
「麦です。8日分が、20台」
彼は、指で地面に線を引いた。
「兵1万なら、この倍要ります。倍要るのに半分しか来てないってことは、残りは、別の道から来るんです」
俺は、その線を見た。
街道から北へ伸びて、途中で一度折れている。その先が、ミルカの地図で消えていた谷の方だ。
「あんた、行ったことがあるのか」
「3年前に一度。山菜を採りに入って、道に迷いました」
「道はあったか?」
「石が敷いてありました。古い石です。……荷車が通れます」
ラウルは、そこで顔を上げた。
「これ、伝えた方がいいですよね」
「知らねえ」
「知らねえって」
「あんたが決めることだ。俺は、あんたを雇ってねえ」
ラウルは、少しの間、自分の掌を見ていた。
「……分かりました」
彼は立ち上がって、袋を担ぎ直してから、こう言った。
「フィーネさん、まだ教団にいますか」
「いる」
「じゃあ、俺は、そっちへ行きます」
その場で書かせた。
フィーネが紙を出して、ラウルが線を引いた。それをフィーネが清書して、リディアが穴に落とした。行き先は、王都の公邸の庭の井戸だ。
紙が消えたあと、ラウルはその穴のあった場所をしばらく見ていた。
「今の、何ですか」
「近道だ」
「……そうですね」
彼は、それ以上訊かずに、列へ戻っていった。背中が、来たときより速かった。
◆
10日目の昼過ぎ、三国境が見えた。
丘を1つ越えると、風が変わる。乾いた風だ。南東の聖国側から吹いてくる風は、砂の匂いがする。
その風の中に、砦があった。
石の色が、記憶より黒い。《《焼けたのではない》》。雨に濡れているだけだ。門は、閉まっていた。
その外に、人が立っていた。
千人はいる。
老人と、女と、子供だ。荷を背負っている者もいれば、何も持っていない者もいる。列になってはいない。ただ、門の前の地面に、固まって立っていた。
門は開かない。
リィナが、俺の隣で足を止めた。
「……ゼノ様。あの人たちは、中に入れてもらえないんですか」
「入れねえんじゃねえ」
俺は、門の上を見た。
鉄灰色の短い髪の男が立っていた。
左のこめかみだけが白い。あの男は、門の蝶番を見ている。籠城の前に、まず蝶番を見る男だ。
グレイグ・ノルンは、下の千人に向かって、こう言っていた。
「入れん」
「北東へ歩け。カルナの国境まで2日だ。水は門の外に出してある。1人1杯ずつ持っていけ」
千人が、動かなかった。
「動け。ここは持たん」
誰かが、何か言い返した。老人の声だ。何を言ったかは、風で聞こえなかった。
グレイグの答えは聞こえた。
「門は焼けても直せる。人間はそうはいかん。——先に逃がす」




