第112話 逆向きの巡礼
巡礼路を戻って7日目に、人の流れが逆になった。
行きは、東から西へ歩いていた。聖国から海へ向かう者の列だ。戻りの道では、その同じ顔が西から東へ歩いている。杖を突いて、荷を背負い直して、宿場で値切らずに寝床を取る。
宿場の主が、俺に言った。
「巡礼が、途中で帰るのは珍しい」
「途中で帰る理由は」
「聞いてません。誰も言わないんですよ。ただ、道の先で何かあったってのは、歩き方で分かります」
その晩、フィーネが卓に紙を広げた。
黒鎖教団の伝令が、宿場の裏の井戸に落としていったものだ。落とす場所は決まっている。教団は、手渡しをしない。
紙には、線が3本と、数字が並んでいた。
「読める形になっておりますわ。……8日前です」
「何が8日前だ」
「ソルディア聖国が、南東から国境を越えました」
俺は、その紙を見た。線が3本。1本は太く、2本は細い。
「本隊と、別働隊が2つか」
「はい。太いのが南東です。細い方の1本は、まだ行き先が分かりません」
フィーネは、指で線をなぞった。なぞる指が、途中で止まった。
「ゼノ。8日前というのは、聖女がラセルにいた日ですわ」
「そうだな」
「あの方が、井戸を浄めていらした日に、軍は動いておりましたの」
聖女は、船で来て、船で帰った。
あの娘は、俺を殺すなと言われていた。焼けとも言われていた。焼くために町を数えさせられて、数え終えたから焼けなくなった。
3隻の船と、200人と、16の誕生日と、11の井戸。それだけの物を使って、俺を8日、海の端に置いた。
その8日で、軍が越えた。
「上手えな」
俺は、そう言った。誰も返事をしなかった。
「太い線の先に、何がある」
ミルカが、自分の写しの束から1枚抜いた。抜くのが速い。1年半、この女の紙束の並びは一度も崩れたことがない。
「三国境です。西がヴァリス、北東がカルナ、南東が聖国。その尖ったところに、砦が1つあります」
「ローデン砦」
「はい。ゼノが越境したときに、通った砦です」
覚えている。壁の厚い砦だ。
◆
砦将の名は、グレイグ・ノルン。
鉄灰色の短い髪で、左のこめかみだけが白い男だった。俺たちが越境したとき、あの男は、まず門の蝶番を見た。人より先に、壁と蝶番を見る癖がある。
「あんたら、人数は」
「9人だ」
「9人なら、東の門から入れ。西は蝶番が歪んでる。9人が通ると、今日中に落ちる」
そういう男だった。
リィナが、卓の端から訊いた。
「その砦に、何人いますか?」
「常駐は300前後です」
ミルカが答えた。
「近くの村が4つ。合わせて千二百人ほどが、砦の水を使っています」
「聖国は、何人ですか」
「太い線は、この書き方だと1万を超えます」
卓が、静かになった。ポーラなら、ここで何か鍋の音を立てただろう。ポーラは王都にいる。
俺は、外へ出た。
宿場の裏は麦畑で、刈ったあとの根が足の裏に当たった。月が細い。その下で、俺は闇を1枚、地面に伏せて、そこに穴を開けた。
1尺ある。向こう側は、畑の反対の端だ。40歩。手を入れると、40歩先の空気が指先に触れる。冷たい。畑の端は、こちらより風が通っている。
俺は、その穴に、頭から入ろうとした。
入らなかった。
肩まで入ったところで、縁が肉に食い込み、そこから先へ進まない。押すと、穴の方が歪む。歪んだ穴が、俺の腕を挟んだまま閉じかけた。
引き抜くと、肩の皮が2箇所、裂けていた。
「ゼノ」
リディアが、畑の縁に立っていた。腕を組んで、こちらを見ていた。たぶん、だいぶ前からだ。
「何度目?」
「今日は6度目だ」
「体は通らない」
「通った日がある。6日目に、7歩ずれた」
「それは、あんたが自分の器を通ったから」
リディアは、畑に下りてきて、俺の開けた穴に自分の指を入れ、少し回した。
「これは、あんたが抉った穴。中に何も無い。ここを人が通ると、中で死ぬ」
「あんたは通れるのか」
「通れない」
「12年やってか」
「12年やって、通れないと分かった」
彼女が指を抜くと、穴が音もなく閉じた。俺のより静かだ。
「わたしが通せるのは、手と、紙と、刃だけ。人は通らない。……通す術式は、途中が抜けてる」
「抜けてるのは、どこだ」
「知らない。谷の壁にも無い」
俺は、肩の裂けた皮を光で塞ぎながら、考えた。三国境まで、この道を行けば24日だ。24日後に着く場所で、8日前に1万が動いている。
計算が合わない。
「リディア。人が通らねえなら、物は通るな」
「通る」
「紙は」
「通る」
「じゃあ、紙を先に行かせる」
フィーネを起こした。
フィーネは髪を結ばないまま出てきて、片手でそれを押さえながら、卓の前に座った。
「何時だと思っておりますの」
「教団の伝令は、王都まで何日だ」
「早馬で12日ですわ」
「紙だけ先に着けば、何日だ」
フィーネは、そこで手を止めた。押さえていた髪が、肩に落ちた。
「……ゼノ。あなた、何を仰っているの」
リディアが、卓の上に紙を1枚置いて、その脇に円を1つ描いた。指で、木の卓に。線は残らないのに、描き終えた瞬間、卓板に穴が開いた。
1尺だ。
「宛先が要る」
彼女は、そう言った。
「行った場所にしか開かない。わたしが立ったことのある町でないと、向こう側が無い」
「王都には」
「ある。7年前に、一度いた」
フィーネが羽根ペンを取り、書き始めた。一度も顔を上げなかった。書いた紙を折って、穴の縁に載せて、指で押した。
紙が、落ちた。
王都のどこかだ。7年前にリディアが立った場所。そこが路地なのか、井戸の底なのか、誰かの家の中なのかは、分からない。
「……拾う者がいなければ、ただの落し物ですわね」
「拾う奴はいる」
◇
王都の、ヴァリス公邸。
エリシアは、その朝、書斎の窓を開けなかった。開けると、庭の東側が見える。東側には、聖国の使節が3日前から張った天幕がある。
卓の上に、紙が2枚ある。
1枚は、第2次審問の日取り。もう1枚は、聖国から届いた文で、引き渡し対象が名指しされている。彼女自身の名だ。
父は知らない。兄も知らない。誰にも見せていない。
その理由を、彼女は自分で1つに決めていた。
見せれば、あの方が戻ってくる。戻ってくれば、東の砦へ行けなくなる。砦が焼ければ、千二百人が死ぬ。1人と千二百人の勘定は、どう置いても答えが同じだ。
それなのに、彼女は昨日、その紙を3度読み返した。
3度目に、指が震えた。腹が立って、卓の脚を靴の先で蹴り、周りを見た。誰も見ていなかった。
◆
その日の昼、侍女が紙を1枚持ってきた。
「お嬢様。……庭の井戸に、これが落ちておりました」
折り目のついた紙だ。井戸の中に落ちていたのに、濡れていない。
エリシアは、それを開いた。
字を見て、息が止まった。フィーネの字だ。
『ゼノは生きています。ラセルより東へ7日。
聖国が8日前に越境。太い線は三国境。1万を超えます。
あなた、わたしたちに黙っていることが2つありますわね。
——1つでよろしいので、今、お答えなさい』
エリシアは、その紙を胸に当ててから、廊下へ出て、侍女に言った。
「馬を。……東の砦へ、早馬を出します」
◇
宿場の卓に、返事が落ちてきたのは、2日後の朝だった。
紙が、卓の上の空中に現れて、そのまま落ちたのを、リディアが押さえた。
フィーネが開いて最後まで読み、それを俺に渡した。
『引き渡し対象は、わたくしです。黙っておりました。
もう1つは、まだ申し上げません。
東の砦へ早馬を出しました。間に合わせてくださいまし』
俺は、その紙を2度読んだ。
その間、誰も何も言わなかった。リィナが、俺の手元を見ていた。ミルカが、写しの束に手を置いたまま止まっていた。
紙を畳んで、懐に入れた。
「30日で王都って言ったな」
「仰いましたわ」
「やめだ」
俺は、外套を取った。
「東へ行く。24日の道を、10日で行く」




