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第111話 塩の井戸

翌朝、町の井戸は11とも塩になっていた。


汲(く)むと、透き通っている。透き通っているのに、舌に載せると海の味がする。浄めた水は清らかだと、あの娘は言った。清らかな水で、この町は麦を煮られない。


テオが、それを俺に報告しに来た。報告というより、苦情の言い方だった。


「あんたのせいじゃない。分かってる。分かってるが、他に言う相手がいない」


「聞いてる」


「……言った。それだけだ」


彼は、それで帰っていった。


昼前に、広場へ行った。


石畳の焼け跡が11個、白く残っている。焦(こ)げた匂いが、まだ抜けていない。その1つの縁(ふち)に、子供が座り込んでいた。納屋にいた子のうちの1人だ。小さい方の女の子で、名前はまだ聞いていない。


釘を持って、焼け跡の縁を引っ掻いていた。


円を彫ろうとしていた。石畳は硬い。釘の先が滑って、線が3度とも途中で曲がった。


「誰に教わった?」


「あの人」


女の子は、宿の方を指した。その先に、包帯の手の女が立っていた。


リディアは、こちらへ来なかった。


その場から女の子に向かって片手を上げて、宙に円を1つ描いた。右下から起こす描き方だった。


ミルカが、俺の隣で息を呑んだ。


「ゼノ。右下からです」


「そうだな」


「壁を削った者は、左上からでした。この女の人は、違います」


彼女は、その場で紙を出して、書きつけながら、こう言った。


「谷の壁を削った人の候補が、これで1人減ります」


    ◆


宿に戻ると、揉めていた。


1階の卓に、リディアの母が座っている。昨日から、ずっとそこにいる。座らせると座ったまま動かない。立たせると立ったまま動かない。20年、棚の口を押さえていた女の体は、自分でどこかへ行くということを忘れていた。


その卓を挟んで、フィーネとリディアが立っていた。


「置いていくとは、どういうことですの」


「言葉の通り」


「あなた、この方が誰か分かっておりますの?」


「母親」


リディアは、そう答えたきりだった。


フィーネの声が、一段上がった。


「……分かっていて、置いていくと仰るの」


「王都まで30日。母さんは3日で死ぬ」


「連れて歩けないなら、あなたが残ればよろしいでしょう」


「残ったら、開ける人間がいなくなる」


「その言い方は、卑怯ですわ」


フィーネが卓に片手をついた拍子に、椀が1つ倒れた。それを、リディアが黙って立て直した。


「わたし、5年、教団の厩で寝起きしました」


語尾が、そこで平らになった。


「その5年、ネイアという名は、名簿の中にしかありませんでした。買った名です。5万で買いました。買った名のせいで、あなたが12年逃げたのなら、それは、わたしの方が悪い」


「そう」


「そうで済ませないでください」


「済ませてない」


リディアは、包帯の手で、母の肩に触れたまま、手を動かさなかった。


「わたしは、12年、この人を探してた。見つけて、昨日、名前を呼ばれた。それで足りる」


「足りませんわ」


「足りる」


「あなたは、この方に、一度も娘として呼ばれていないでしょう」


リディアの手が、止まった。


それを見て、フィーネは、自分が何を言ったかに気づいた顔をした。口を開いて、それから閉じた。


俺は、口を挟んだ。


「フィーネ。あんた、この女に礼を言いに来たんじゃねえのか」


言ってから、間違えたと分かった。


フィーネが、こちらを向いた。目の縁を赤くしたまま、笑うような形に口を動かした。


「……ゼノ。あなた、本当に、そういうところだけは変わりませんのね」


「どういうところだ?」


「そのお訊きになり方ですわ」


彼女は、椀を持って、外へ出ていった。扉を強く閉めなかった。それが、余計に悪かった。


残ったのは、俺と、リディアと、母親と、階段の途中に立っていたリィナだった。


リィナは、下りてこずに、そこから言った。


「ゼノ様。今のは、ゼノ様が悪いです」


「あぁ」


「追いますか」


「追う」


階段の手すりに、リィナの手が載っていた。下りてはこない。握る力だけが強くなっていた。


「わたしが行きます」


「あんたが行くと、2人とも戻ってこねえだろうが」


リィナは、少しの間を置いてから木剣を置き、俺の横を通って、先に外へ出た。


俺が外に出たとき、2人は厩(うまや)の前にいた。


フィーネが馬の首に手を当てて立っていて、リィナがその3歩手前で立っている。この形を、俺は前に一度見ている。


近づくと、フィーネの声が聞こえた。


「リィナさん。わたし、あの人に、何を言わせたかったのかしら」


「分かりません」


「分かりませんの」


「はい。でも、フィーネさんが今、何を言われたかったかは、分かります」


リィナは、灯りを持っていなかった。昼だからだ。持っていない手を、そのままフィーネの袖に掛けた。


「ネイアは、69人だそうです」


「……ヨナス様が、そう仰いました」


「69人の中に、フィーネさんが入っています」


「入れていただいただけですわ」


リィナは、手を離して、宿の方へ歩き出し、3歩で振り返った。


「わたしは、名簿に入っていません。載っていない側から言いますけど、……入っているのは、いいことです」


その晩、テオが来て、卓の前に立ち、俺とリディアの両方を見てから、リディアの方に言った。


「預かる」


「子供が11人いる」


「12人になるだけだ。……食わせる口が増えるのは、慣れてる」


リディアは、返事をしなかった。しないまま、懐から紙を出して、卓に置いた。名簿だ。昨日、俺の名前を書き足した紙だ。


「これ、町のだから返す」


テオは、その紙を見たが、すぐには取らなかった。


「……最後の行は、消さないのか」


「消さない」


「なんでだ」


「載ってる名前は、迎えに行けるから」


テオは、紙を折って懐に入れてから、母親の方を見た。


母親は、卓の木目を指でなぞっていた。なぞりながら、小さい声で何か言っている。同じ2音を、繰り返していた。


「リ、ディ、ア」


3音だった。俺の聞き違いだ。


リディアは、そちらを見なかった。


立ち上がって外套を取り、袖を通しながら、俺に言った。


「明日、出る?」


「出る」


「巡礼路を戻るなら、ドストとシャノは避けて」


彼女は、外套の襟を立てて、右の耳の跡を隠した。仕草が速い。12年で身についたものだ。


「わたしの顔を知ってる神官が、両方にいる。……12年で、顔だけは覚えられた」


彼女は、そこで初めて、母の座っている方へ一度だけ目をやって、すぐ戻した。


    ◆


翌朝、町を出た。


見送りは無かった。塩の井戸が11あって、その水で朝の麦が煮られない町だ。


坂の途中で、後ろから足音がした。


テオだった。走ってきて、俺の前で止まって、息を整えてから、包みを差し出した。中は水の入った革袋が4つだ。


「東の湧(わ)き水だ。塩じゃない」


「あんたらの分は」


「同じだけ汲んだ。……数えて分けた」


坂の上から、海が見えた。


リィナが、一度だけ立ち止まって、それを見ていた。海を見たのは、この町が初めてだ。その海の端で、一昨日、水が白く沸いた。


「ゼノ様」


「なんだ」


「わたし、海は、もういいです」


「そうか」


「山の方がいいです。……山なら、木剣が届きます」


シャルが、坂の上で待っていた。


町にいる間、ほとんど屋根の上にいた女だ。降りてきて、俺の前に膝をついて、1枚の紙を差し出した。神官の荷から抜いたものらしい。


教会の紙だ。昨日のものより新しい。


『ラセル、浄め未了。名簿、紛失。聖女猊下、負傷。——第9の座、繰り上げを具申す』


「シャル。繰り上げってのは、何だ?」


「存じません。ですが、空席が埋まるということかと」


第9の座は、空席だ。名を記すことを禁じられている。


その座に、繰り上げで誰かが入る。入れるとしたら、肘の内側に6本の線を持つ者だ。俺は、その線を3人分見た。リディアの母と、リディアと、聖女だ。


4人目を、俺はまだ見ていないが、いるはずだ。神託を出した男が、20年ぶりに本物の言葉を聞いたのなら、聞かせた方にも器が要る。


「ゼノ」


ミルカが、俺の袖を引いて、紙の隅を指した。


紙の下の端に、小さく1行あった。


『王都、第2次審問。30日後。引き渡し対象——ヴァリス家息女』


エリシアだ。


俺は、その紙を畳んで懐に入れ、馬の腹を蹴った。


30日で、王都に着く。着いたら、あの女に一つ訊くことがある。


——《《なんで、俺に黙ってた》》。

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