第110話 150と1
教会の壁に、紙が貼ってある。
さっき神官が広げた巻き紙だ。目を通したあとで、そこへ貼った。糊ではなく、鉛の重しで上端を押さえてある。風で角が揺れていた。
名簿だ。
聖女は、名簿に載っていない者を祓えない。記録が合わなくなる。だから、この女は今日、リィナを1人だけ見逃した。つまり、この町は、あの紙の分しか焼けない。
俺は、足元へ目を落とした。
広場の石畳に、細い線が1本、教会の壁の方へ伸びていた。指で引いたような線で、先が壁際で小さな円になって止まっている。
リディアが、広場の端で膝をついて、こちらを見ずに、右手の包帯を口で締め直している。
「開いてる」
俺は、そう言った。誰にでもなく言ったのに、リディアの肩が動いた。
壁際の円から、4本指の手が出て、名簿の下端を掴んで、引いた。鉛の重しが、こと、と落ちた。紙が、円の中へ消えた。
神官が振り返ったときには、壁には何も無かった。重しだけが、石の上で転がっていた。
「……紙が」
「持っていかれましたわね」
聖女は、壁を見なかった。俺を見ていた。
リディアが、紙を広げながら、広場の端から歩いてきた。速いのに、足音がしない。俺の横で止まって、その紙を差し出した。
「読める?」
「読める。名前と、家と、人数だ」
「消して」
「消せねえ。墨は闇じゃ落ちねえ」
「じゃあ、書いて」
リディアは、懐から鉛の欠けを出して、俺の手に押し込んだ。その力が強かった。
俺は、名簿の最後の行の下に、1行足した。字は下手だ。人間の字を書くようになって、まだ1年と少ししか経っていない。
『ゼノ』
それだけ書いて、紙を広げたまま、頭の上へ持ち上げた。
「聞け」
広場の150人が、こちらを向いた。
「この紙に載ってる名前を、今から読む。呼ばれた奴から、坂を下りろ。港じゃねえ。東の畑の方だ。振り返るな」
読み上げたのは、俺ではなかった。
ミルカが、俺の手から紙を取った。いつの間にか、隣に立っている。東へ回らせたはずの女が、戻ってきていた。
「わたしが読みます。ゼノは、字を読むのが遅いです」
「遅くねえ」
「1行に3拍かかります。わたしは1拍です。150人だと、7分の差が出ます」
彼女は、俺の顔を見た。それだけだった。
ミルカが読み始めた。声が高い。写しを取るときの声だ。1行ずつ、家の名と、その家の人数を読む。名前を呼ばれた者が、順に坂を下っていった。
誰も走らなかった。走ると、人数が分からなくなる。ミルカがそう言ったわけではない。町の者が、勝手にそう決めた。
聖女は、それを止めずに、両手を合わせたまま、指の間から漏れる光を、少しずつ強くしていた。
「あなた様は、なぜご自分の名を書かれましたの?」
「祓う数を減らしてやった」
「減っておりません。150人と1人が、151人になっただけですわ」
「読み終わったら、150は居なくなる」
聖女は、まばたきをした。
「……居なくなっても、名簿にはございます」
「じゃあ、名簿を焼け。この町じゃなく」
光が、来た。
合わせた手が開いた瞬間、そこから出たのは柱ではなかった。面だ。広場の幅いっぱいに白い面が立って、こちらへ倒れてきた。
俺は闇を8枚組んで、正面に立てた。そこへ、面がぶつかった。音がしなかった。代わりに腕の骨が鳴って、左の肘から先の感覚が消えた。
8枚が、3枚まで削れた。
足せない。朝の砂浜で10回跳んだ分が、まだ戻っていない。あそこで止めておけばよかったと、俺は一瞬だけ思って、そう思った自分に腹が立った。
足元の石が、白く灼けていく。
「ゼノ様」
リィナの声が、後ろから来た。近い。下がらせたはずの位置より、ずっと近い。
「下がってません」
「見りゃ分かる」
「板を割りました。だから、わたしには当たりません」
「そんな話じゃ——」
言い終わる前に、リィナが俺の前へ出て、白い面の中に立った。
光が、彼女の輪郭で割れた。
左右へ流れた先で石が灼けて、リィナの立っている場所だけが、灰色のまま残った。木剣を、両手で握っている。その手が震えているのに、足が動かない。
「……熱くは、ないです」
「喋るな」
「熱くないですけど、痛いです」
俺は、リィナの襟を掴んで、後ろへ引いた。その手が光に触れて、指の皮がめくれ、下から黒いものが出た。人間の皮膚ではない色だ。
見られた。聖女が、その色を見た。
「……そちらが、本当の手でございますか?」
答える暇が無かった。2枚目の面が、1枚目に重なってきていた。
そのとき、広場の石畳に、線が3本走った。
リディアだ。3本とも、俺の足元から聖女の足元まで、まっすぐに伸びている。
「ゼノ。組んで」
「枚数が無え」
「1枚でいい。薄くしていいから、長く」
俺は、残りを1枚に伸ばした。紙より薄い闇が、線の上に載った瞬間、リディアが線を引き寄せた。
闇が、聖女の足元で立ち上がった。こちら側から向こう側へ、場所を飛ばして現れた。1尺の穴を、壁の高さまで引き伸ばしたものだ。
聖女の背中側へ回り込んだ闇に、聖女の光が当たって、跳ね返った。その光が、聖女自身の合わせた手を、下から灼いた。
白い外套の娘が、初めて声を上げた。
声にならない声だ。喉の奥で潰れた音が、1つだけ出て、それきりだった。彼女は膝をついて、灼けた自分の掌を見て、こう言った。
「……わたくし、痛いのを、初めて知りましたわ」
俺は歩いた。3歩で、聖女の前に着き、片膝をついて、その腕を取った。
汗で前髪が張り付いている。俺は、髪の方ではなく、袖の方をめくった。肘の内側に、線が6本あった。
リディアの母と、同じものだった。
「あんた、どこで貰った」
「……存じません」
「いつからある」
「生まれたときからだと、伺っております」
聖女は、俺の手を払わなかった。払う力が残っていないのか、払う気が無いのか、分からなかった。
「あなた様は、これを、ご存じですのね」
「前に、同じものを見た」
港の方で、鐘が鳴った。3隻の船が、帆を上げ始めていた。上げ方が早い。命令を待っていない上げ方だ。
聖女は、その音を聞いて、立ち上がろうとして、手をついた。その手が、また灼けた。
「……引いております」
「あんたを置いてか?」
「わたくしが焼けと申しませんでしたので。……船は、焼く合図を待っておりました」
神官が2人、駆けてきて、聖女を抱え上げた。
抱え上げられながら、彼女は俺の方へ顔を向けて、灼けた手を、少しだけ上げた。
「1つ、申し上げ損ねました」
「なんだ」
「ザリエル猊下は、あなた様を殺すなと仰いました。それから、《《数え終える前に焼け》》と」
「数え終えたのか」
「はい。先ほど、そちらの方が読み上げてくださいましたので」
聖女は、ミルカの方を見た。ミルカは、名簿を胸に抱えたまま、動かなかった。
「150と、1でございます。……数え終えましたから、もう、焼けません」
彼女は、そこで、笑うような顔をした。16になったばかりの娘の顔だった。
「30日後に、王都で審問がございます」
抱え上げられたまま、聖女はそう言った。
「お仲間が、期限を1つお持ちです。お渡しになるものが、30日で決まります。……あなた様は、お急ぎになった方がよろしゅうございますわ」
エリシアのことだ。その話を、俺はそこで初めて聞いた。
白い列が、坂を下っていった。行きと同じ2列だ。先頭の聖典を持つ者が、行きより1歩ずつ速く歩いていた。
広場に残ったのは、俺と、リィナと、リディアと、ミルカと、焼け跡だけだった。石畳に、白い輪が11個ある。
東の畑の方から、人の戻ってくる足音がした。
いちばん先に戻ってきたのは、テオだった。
子供を1人背負い、1人を抱えたまま走ってきて、広場の手前で足を止めて、焼け跡の数を数えてから、俺を見た。
「あんた、数えるなと言ったな」
「言ってねえ。帰れと言ったのは、あんただ」
「……そうだったか」
テオは、子供を2人とも下ろして、その場に座り込み、両手で顔を拭った。手が煤で汚れていて、顔の方が余計に汚れた。
リディアが、俺の隣に来て、名簿をミルカの手から取り、俺の書いた最後の1行を見ていた。下手な字だ。
「これ、消さないでおく」
「なんでだ」
「この町の名簿に、あんたの名前が載ってる。……載ってる名前は、迎えに行ける」
彼女は、紙を畳んで、懐に入れた。
12年前に谷を出てから、この女は年に一度だけ『生きている』と書いて送った。最後の1通にだけ、もう1行あった。
『迎えに来るな』
俺は、それを持って40日歩いてきた。
「ヨナスが、あんたの字を誰かに読ませたいと言ってた」
リディアは、返事をしなかった。しばらく焼け跡を見ていて、それから、包帯の手で自分の右の耳の跡に触れて、指を下ろした。
「……祖父は、まだ目が見えてる?」
「あと2年だとよ」
「じゃあ、急がないと」
ヨナスに似た言い方だった。




