第108話 103回目
ラセルを出るのは、7日後と決めた。
母親が馬に乗れるようになるまでに、それだけかかるとミルカが言ったからだ。乗れるといっても、自分で跨るわけにはいかない。誰かの前に横向きに座らせて、帯で縛る。落ちないようにするだけで、半日ごとに休みが要った。
その7日の間、俺は毎朝、砂浜へ下りて、同じことを繰り返した。闇を4枚、外周に組む。内周に光。円を作って、指を内側へ絞る。
倉庫の床でやったのと同じ形だ。
開かなかった。1日目は、線すら浮かばない。2日目に、砂の上へ薄い輪が出たが、色が変わらない。ただの輪だ。手を入れると、砂に触れる。
3日目、リディアが浜へ来て、離れた岩の上に座って、見ていた。何も言わない。
「見てるだけか」
「見てるだけだ」
◆
4日目、フィーネが数え始めた。彼女は帳面を持って波打ち際に立ち、俺が失敗するたびに1本ずつ線を引いた。街道でやったのと同じやり方だ。
「81回目ですわ」
「うるせえ」
「数えなくてよろしいの?」
「数えろ」
彼女は、少し笑って、線をもう1本引いた。
103回目で、色が変わった。輪の内側が砂の色を失って、そこだけが、何も無い色になった。
俺は、手を入れた。入った。手首まで入って、その先に何も無い。掴むものが無く、冷たくもない。ただ、腕が3寸ほど短くなったように見えた。
「戻せ」
リディアが、岩の上から言った。
「戻さないと、そこで固まる」
「固まるのか?」
「腕が向こうに残る。棚で2人、そうやって死んだ」
俺は、腕を引いたが、抜けない。輪の縁が皮に吸いついていて、引けば引くほど、縁が内へ寄ってくる。
——押すと逃げる。引くと寄る。
俺は、力を抜いた。
とたんに輪が広がって、その隙に腕が抜けた。その先が白い。爪の色が灰に近い。あの日、倉庫の陰でやられたのと同じだ。
俺は光を2枚流して、色を戻しながら岩の上を見ると、リディアが立っていた。
「今のを、もう1度やれ」
「どれだ?」
「力を抜いたところだ」
彼女は砂の上へ下りてきて、俺の描いた輪の跡の前にしゃがんだ。しゃがんで、指で縁をなぞる。
「あんた、今、教わっていないのに、正しい抜き方をした」
「偶然だ」
「偶然でいい。……もう1度やれ」
◆
5日目から、リディアが浜にいる時間が長くなった。教えるとは、1度も言わない。ただ、俺が間違えるとそこで口を開く。「押した」「早い」「厚い」。3語で終わる。
6日目、俺は自分の体を通した。輪を大きくして、そこへ足から入る。入った先が、砂浜の10歩先だった。狙ったのは、3歩先だ。
「7歩、ずれてるな」
「わたしは、12年やって、いまだに2歩ずれる」
「2歩か」
「2歩だ。あんたは、器が大きすぎる。大きいと、細かく刻めない」
彼女は、自分の指が4本の手を見せた。
「刻めない者が力で通すと、こうなる。……あんたは、たぶん、腕から失くす」
◆
7日目の朝、俺は10回続けて跳んだ。3歩、5歩、8歩。ずれは3歩まで縮んだ。10回目のあとで膝が落ちて、砂に手をついた。
器が、空だった。闇が1枚も浮かない。人間の身体になってから、ここまで空にしたのは初めてだ。
「もう、やめとけ」
リディアが、そう言った。
彼女は、俺の横にしゃがんだ。
「本物の次元魔法は、こんなに食わない。わたしは1尺の穴なら1日に20回開ける。あんたは、10回で潰れた」
「食い方が違うのか?」
「違う。あんたのは、穴を抉っている。わたしのは、縫い目を開けている」
俺は、砂の上に仰向けになった。空が白い。海の上の空は、王都のより白かった。
「教えるつもりは、無えんだろうが」
「無い」
「じゃあ、なんでいる?」
リディアは少し黙って、それからこう言った。
「あんたが、間違ったまま覚えるのを、見ていられないだけだ」
◇
同じころ、王都では。
エリシア・ヴァリスは、王宮東の小塔で、3通目の封を受け取っていた。聖国の使節が持ってきたものだ。封蝋は聖庁の正式なもので、開封は王の面前でと定められている。
彼女は、それを王の面前で開けなかった。
◇
自室で、1人で開けた。
文は、3行だった。
『異端者ゼノを、30日以内に引き渡されたし』
『引き渡しなき場合、ヴァリス王国全土を、異端を匿う地と見なす』
『これは、神託である』
◇
彼女は、その紙を2度読んだ。2度目で、手が震えた。恐ろしかったのではない。期限が、最初から間に合わないよう切られていた。
——30日。
西へ40日の町にいる者を30日以内に引き渡すことは、端から出来ない。それを知っていて、書いている。
◇
彼女は灯りの芯を上げて、紙を火に近づけたまま、10を数えるほど動かなかった。
焼けば、届かなかったことになる。届かなかったことになれば、30日は始まらない。
——始まらないのとは、違う。
彼女は、紙を火から離した。
——始まっていることを、わたくしが知らないことになるだけです。
◇
翌朝、エリシアは登城して、審問庁の書記官に3通目の封を提出して、こう言い添えた。
「開封は、王の面前でと定められております。わたくしは、独りで開けました。——処分を、お受けいたします」
書記官が、顔を上げた。
「殿下。なぜ、そのようなことを仰せに」
「先に読んだ者が、先に責を負うためです」
◇
その日の午後、王宮で会議が開かれた。議題は1つだ。引き渡すか、拒むか。
主戦論を唱える者はいない。引き渡しに賛成する者が19人、反対が6人。残る11人は、どちらも言わなかった。エリシアは発言を許されず、許されないまま、立って終わりまでそこにいた。
◇
会議のあと、宰相が彼女を呼び止めた。
「殿下。あなた様は、あの者に手紙を出されますか」
「出しません。知れば、戻ってまいりますので」
彼女はそう答えてから、廊下の窓の外を見た。西の空だ。
「戻ってまいりましたら、あの方は、1人で聖国へ行かれます」
「……それは、困りますか」
「困ります」
エリシアは、窓から目を離さなかった。
「あの方が1人で行かれますと、王国は、何も差し出さずに済んでしまいます。……一度そうなれば、次もあの方1人に行かせます。わたくしは、そういう国の旗を、二度と掲げたくございません」
◇
7日目の夕方、ラセルの港に船が入った。3隻だ。帆に聖国の印が入っている。入港の合図は上げていない。
俺は、宿の屋根からそれを見た。シャルが隣に来る。新しい刃を3本、腰に挿していた。
「ゼノ様。人が下りております」
「何人だ?」
「……数えきれません。まだ、下りております」
坂の下の通りが、埋まっていた。白い外套が、港から教会へ向かって流れのように動いている。1隻あたり60から80。3隻で、200を超える。
先頭を、白い髪の娘が歩いていた。裸足だ。石畳の上を、履き物をつけずに歩いている。王宮の大広間でフィーネの前に膝を折った、あの聖女だった。
聖女は、坂の途中で足を止めて、上を見た。宿の屋根の、俺のいる場所だ。距離は300歩ある。見えるはずがない。
見えていた。彼女はこちらへ向かって軽く頭を下げて、それから口を動かした。
——《《今日は、祓います》》




