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第107話 6本の線

母親が目を覚ましたのは、3日目の朝だった。


宿の2階の、海の見える部屋だ。窓を開けると、朝の光が床まで入る。ミルカが、その位置に莚(むしろ)を敷き直していた。


「日を、当てた方がいいです。骨が脆くなっています。日に当たらないと、骨は薄くなります。大学の書物に書いてありました」


「20年、当ててねえからか」


「20年分です」


女は、その光の中で目を開けて、まず眩しがった。


手で顔を庇った、その手の甲を、リディアが見ていた。部屋の入口に立ったまま、3日間、そこから先へ入っていない。


「母さん」


女は、声のした方を向いて、少しの間、考える顔をした。3日前と同じ顔だ。


「……リディア」


リディアの膝が抜けて、彼女はその場に座り込んだ。こちらへは来ない。入口から動かずに、床に手をついた。


「名前、思い出したのか?」


「いいえ。昨日、誰かが、ずっとその名を呼んでおりました。壁の向こうで。……それで、覚えました」


リディアが俺を見て、すぐに目を逸らした。


昨夜、この女は隣の部屋で、1晩中、母親の名を呼ぼうとしていた。呼べずに、自分の名を呼んでいた。壁は薄い。俺の部屋からも聞こえていたが、そのことは言わなかった。


ミルカが女の腕を取って、肘(ひじ)の内側を見てから、そこを指で押す。


「痛みますか」


「いいえ」


「では、こちらは」


「……少し」


ミルカは腕を戻して、俺の方へ来て、声を落とした。


「ゼノ。この方の腕に、印があります」


印は、肘の内側にあった。丸い。直径は銅貨ほど。痣(あざ)ではなく、皮膚の下に白い線が入っている。線は6本。中心から外へ向かって、等しい間隔で伸びていた。


俺は、それを見て、息が止まった。


——加護の印だ。


天界の加護は、受けた者の身体に印を残す。形は、加護を与えた者ごとに違う。前世で、俺はそれを数え切れないほど見た。見たのは、たいてい殺した相手の身体の上だった。


6本の線。この形を、俺は1度だけ見たことがある。俺が狭(はざ)間(ま)に落とされた日だ。その直前、俺を止めようとした者の手の甲に、同じ形があった。


「ゼノ。この印は、何ですか?」


俺は、すぐに答えなかった。口を開けば、俺が天界の印を知っている理由を、説明しなければならなくなる。


「古い印だ」


「どのくらい古いですか」


「知らねえ」


ミルカは羽根ペンを出して、その形を写し始めた。


「わたし、嘘をつかれるのは構いません。ただ、写しは取ります」


    ◆


その日の午後、リディアが自分の袖をまくった。宿の広間だ。全員がいた。彼女は卓の上に右腕を乗せて、包帯を外した。


指が4本の手の、その肘の内側に、同じ印があった。6本の線。ただし、こちらは薄い。母親のものより、ずっと薄かった。


「同じですね」


ミルカが言った。


「同じだ」


リディアは、そう言って、袖を戻した。


「わたしは、これのおかげで生きている。棚に4年いて、死ななかったのはわたしだけだ。他に7人いた。7人とも、2年以内に死んだ」


「その印か?」


「そうだ。開けるたびに、どこかが減る。減ったところが、勝手に止まる。……小指から先は、止まらなかった」


「これは、母さんから貰ったものだと思っていた。あの人の腕に、同じものがあるからだ。……だが、違う」


「なんでだ?」


「母さんの印は、20年前には無かった」


彼女は、そこで言葉を止めて、自分の右手を握った。握れない。指が4本では、握りが歪む。


「わたしの印が、先だ。9つの年に出た。……その年の冬に、母さんが消えた」


リディアは、卓の木目を見ていた。


「わたしに印が出て、その後で母さんが棚に入れられた。順番が逆なんだ。血で受け継ぐものなら、あの人が先のはずだろう」


フィーネが、帳面を開いた。


「リディアさん。その印が出ましたとき、何か、変わったことはございましたの? 身体でも、夢でも、天気でも構いませんわ」


リディアは、少し考えて、こう答えた。


「……声がした」


「どのような声ですの?」


「女の声だ。1度だけ。寝ているときでも、起きているときでもない。目が醒める途中で聞いた」


「何と仰いましたの」


リディアは、そこで顔を上げた。


「『代わりに、あなたが覚えていて』」


俺は、卓の下で自分の指を1本曲げた。


——覚えていて。


前世で、俺にそう言った奴がいる。狭間へ落ちる直前だ。落ちたのは俺で、言ったのは、俺を落とした側でも、止めようとした側でもなかった。もっと上にいた者だ。


「ゼノ。顔が白いです」


「白くねえ」


「白いです。今、脈が上がりました。指を折ったときに」


ミルカは、羽根ペンの先で俺の手を指した。


「わたし、人の脈は首の太い血管で数えます。ゼノのは、いつも遅いです。今だけ違いました」


リィナが立ち上がって、俺と卓の間に入り、ミルカの方を向いた。


「ミルカさん。数えるのは、後にしてください」


「なぜですか」


「ゼノ様が、嫌がっています」


ミルカは、羽根ペンを置いた。


「分かりました。……後で数えます」


    ◆


その夜、俺は1人で桟橋に出た。板の上に座って、足を海に垂らす。水は冷たいが、王都の川より濁っていない。


俺は闇を1枚、水の上に伏せた。その面に、星が映る。並びの中に前世の天界の位置を探したが、無い。界が違えば、星の見え方も違う。


後ろで、板の鳴る音がした。リディアだ。彼女は俺の3歩後ろで止まって、そこに座った。


「あんた、あの声を知ってるな」


「知らねえ」


「嘘だ。……わたしは12年、嘘をつく側だった」


俺は答えない代わりに、闇の面を1度揺らした。映っていた星が崩れて、また戻る。リディアの目が、長いことそれを追っていた。


「……あんたに、ついていく」


「こっちは頼んでねえ」


「頼まれてない」


彼女は、膝を抱えた。


「母さんは、歩けない。谷へは帰せない。連れて歩くしかない。……わたし1人では、次元狩りから母さんを守れない」


「守るのが目的か」


「半分だ」


「もう半分は」


「あの声の主を、見つける」


リディアは、海を見ていた。


「12年、それを探して歩いた。巡礼路を歩いたのは、逃げるためだけじゃない。教会の記録に、あの声のことが書いてあるかもしれない。そう思って」


「書いてあったか?」


「1度だけだ」


彼女は、外套の内側から紙を1枚出した。折り目が、何度も畳み直されて擦り切れている。教会の紙だ。裏に、十字の漉き目が入っていた。


「シャノの教会で写した。8年前だ」


紙には、1行だけ書き写してあった。


『第9の座、空席。名を記すを禁ず』


俺は、それを読んで、返した。リディアは受け取って、また畳みながら、こう言った。


「第9の座には、誰かがいた。いたのに、名前を書くことを禁じられている。……あんた、心当たりは?」


「無え」


「また嘘だ」


彼女はそう言って、少しだけ笑った。


「……いい。今日は、《《嘘のままでいい》》」

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