第106話 引くな
外から閉めるのではない。内側を、引っ張る。
俺は闇の外周を掴んだまま、指を内側へ絞った。円の縁が内へ寄って、床の石を擦る音を立てる。鑿で彫った溝が、その音に合わせて浅くなっていった。
滲み出していた色が、溝の中へ戻る。その途中で、何かが引っかかった。
指ではなかった。俺の器の中だ。闇を回している側の、いちばん底のところに、外から手を入れられたような感じがした。
——覗かれてる。
その感じは覚えている。前世で、俺が下の階層を覗くときに使ったのと同じだ。覗かれている側は、たいてい気づかない。俺は、気づいた。
「もう少しだ」
リディアの右手は、俺の組んだ闇の上に乗っている。乗せているだけで、力を入れていない。
「押すな。円は押すと逃げる」
「押してねえ」
「押している。あんたの力が強すぎる」
彼女は、そこで、俺の手首を掴んだ。
「——待て。そのまま、引くな」
俺が手を止めた瞬間、円の縁が自分から内へ寄って、最後の指の幅ほどを、音もなく閉じた。
床に、細い線だけが残った。彫った溝はそのままだが、色が戻っている。ただの石だ。
「閉じた」
リディアはそう言って、俺の手首を放して、自分の右手を見る。包帯の下の指が、痙攣していた。
「……あんた、何をした」
「引いた」
「引いただけで閉じる者を、わたしは知らない」
彼女は床に座り込んで、こう言った。
「わたしは、これを4年閉じようとして、1度も出来なかった」
母親は、倉庫の壁際で眠っていた。リィナが自分の外套を畳んで、その頭の下に入れている。
シャルが、扉の外から声を出した。
「ゼノ様。船が出ます。……よろしいのですか?」
「札は、こっちにある」
俺は、脇に挟んだ板を見せた。7つの名の板だ。削りかけの3つが、白いままだった。
倉庫を出たのは、日が落ちきってからだった。
港の灯りが、1つずつ点いていく。無地の帆の船は、もう桟橋を離れていた。誰も見送らなかった。
テオが、桟橋の先に立っていた。腫れた頬のまま、船を見ている。見ているというより、数えていた。
「7人だ」
彼は、船から目を離さずにいた。
「俺を入れて7人が、名前を書いた」
「書かせたのは、俺だ。あいつらが菓子を持ってきたとき、俺が先に書いた。書いて、大丈夫だと言った。……大丈夫じゃなかった」
彼は、自分の剥がれた爪を見た。リィナがその横に立って、何も言わずに、俺の手から7つの名の板を取り上げ、そのまま桟橋の端まで歩いた。
「リィナ」
「投げません。投げたら、拾われます」
彼女は板を両手で持ったまま、海の方を向いていた。
「……ゼノ様。これは、割れますか?」
「棚の中じゃ割れなかった」
「ここは、外です」
リィナは板を石の上に置いて、木剣を振り上げた。
1度目で、板が跳ねた。2度目で罅が入り、3度目で割れ、7つの名前が、4つと3つに分かれた。
リィナは、割れた片方を拾ってテオに渡した。
「これは、あなたの名前です」
「……割れてる」
「割れていれば、開けられません。多分です」
「多分か」
「多分です」
彼女はそう言って、もう半分を拾い上げた。リディアが近づいて、その半分を受け取り、割れ口を指でなぞった。
「割れる。外では割れるのか」
指が、割れ口の上で止まった。
「……12年、1度も試さなかった」
◆
宿に戻ったのは、夜更けだった。
母親は、まだ眠っている。ミルカが湯を運んで、萎えた足を拭きながら、指で長さを測っている。
「ゼノ。この方の足は、骨が短くなっています。使わないと、縮みます。……20年分です」
「戻せねえのか」
彼女は、湯の中に布を戻した。
「歩けるようにはなりません。それは、光魔法でも同じです」
フィーネは、卓に向かっていた。帳面を開いて、今日のことを書いている。書きながら、俺の方を見ずに言った。
「ゼノ。倉庫のことは、どう書きますの?」
「好きに書け」
「聖国の船が、人を2人、箱に入れて運ぼうといたしました。——事実ですわ。ですが、これを書きますと、行為者は聖国になります」
「そうなるな」
「なりますの」
彼女は、羽根ペンを置いた。
「そして、これを審問庁に出せば、王国と聖国の間に、もう1つ火がつきます」
俺は卓の反対側に座って、板の割れた半分を卓の上に置いた。
「火はもう点いてる」
「……ええ」
「あんたが書かなくても、燃える」
「わたしが書きますと、燃え方が変わりますの」
フィーネは、俺を見た。
「どちらに燃やしたいか、仰ってくださいまし。わたし、そのように書きますわ」
俺は、その訊き方が嫌だったが、この女がそう訊く理由は分かる。フィーネは、自分で決めたくないのではなかった。決めた責任を、俺と分けたいのだ。
「王国に、聖国が人を売ってると書け」
「売買の証は」
「無い」
「では、書けません」
彼女は、羽根ペンを持ち直した。
「証の無いことを書きますと、次に本当のことを書いたときに……」
「じゃあ、何を書く?」
「事実だけですわ」
フィーネは、書き始めた。
「ラセルの港で、箱が2つ積まれた。中に子供が2人いた。船は旗を上げていなかった。——ここまでが事実ですの。読んだ者が、勝手に聖国を思い浮かべます」
彼女は、書きながら、少し笑った。
「わたし、これで5年、教団におりましたのよ」
◆
その夜、俺は屋根に上がった。シャルが棟のところに座って、刃の無い柄を膝に置いている。
「刃は、明日買え」
「……はい」
「2本だったな」
「3本にいたします」
俺は、その横に座って、海を見た。屋根の瓦が、昼の熱を少しだけ残していた。
海は暗かった。星がある。王都で見るのと同じ並びだが、低いところまで見えた。遮るものが無いからだ。
俺は闇を1枚、指の上で回しながら、倉庫で感じたものを思い出す。器の底に、外から手を入れられた感じだ。
——誰かが、こっちを見た。
前世で、俺を覗ける者は少なかった。魔界で3人。天界で何人いたかは知らない。界が違えば、覗くだけでも代価が要る。それでも覗いてくる奴がいるとすれば、そいつは俺を捜していたということだ。
俺は闇を止めて、隣を見た。シャルが、俺の顔を見ていた。
「ゼノ様。何か、来ますか?」
「来る」
「いつです」
「知らねえ」
◇
天界の第3階層、審議の間。
その日、大天使ザリエルは、報告を受けている最中に、言葉を切った。
そのまま、しばらく動かなかった。
同席していた者が、後にこう記録している。「大天使は、卓上の水を見ておられた。水面に、輪が1つ立っていた。風は無かった」
◇
ザリエルは立ち上がって、東の窓を開けた。下界が見える窓ではなく、界と界の狭間に面した窓だ。その向こうで、何かが1度、撓んだ。
「……閉じた者がいる」
彼は、そう言った。
「20年、開いたままだった口だ。あれを閉じられる者は、いない」
◇
側にいた者が、訊いた。
「魔界の者でしょうか」
「魔界の術では、閉じられない」
「では、天の」
「天でもない」
ザリエルは、窓を閉めた。その手が、框の上で止まった。
「両方を使っている。——1人でだ」
◇
彼は、そこで初めて神託を下した。本物の神託だ。この20年、聖国へ下りた神託は、すべて人の手で書かれたものだった。書いていたのは地上の者で、彼はそれを知っていて黙っていた。
今回だけは、自分で下ろした。文は、短かった。
◇
『西の海の端に、二つを持つ者がいる』
『数えよ』
『数え終える前に、《《焼け》》』




