第105話 口を押さえる者
「忘れました」
女は、困っている様子も無く、そう言った。忘れたことを、ずっと前に受け入れている言い方だ。
俺は板を抱えたまま、その前にしゃがんだ。近くで見ると、頬の痣は火傷の跡だった。丸い。直径は爪ほど。同じ大きさの跡が、首筋にもう2つあった。
「いつからここにいる」
「分かりません。……日が無いので」
彼女は、床に手をついたまま動かなかった。立てないのだ。膝から下が萎えている。長い間、使っていない足の萎え方だ。それでも上半身はまっすぐで、背筋だけが、まだ折れていなかった。
「聖国の者か」
「服は、そうです」
「あんたは」
「……わたしは、石の谷の者です」
そこだけは、忘れていなかった。
「谷のどこだ?」
「割れ目の、下から3段目。右から4つ目の穴です」
「名は」
「忘れました」
女は、自分の膝の上で、指を1本ずつ折って数えるような仕草をした。数えるものが無いのに、指だけが動いた。
「名を、先に取られました。そこから、順に……名の次が、顔でした。……自分の顔を、もう覚えておりません」
俺は闇を1枚、掌の上で薄く伸ばして、平たくした。黒い面は、磨いた石より滑らかになる。角度をつけると、映る。
俺は、それを女の顔の前に立てた。女は、そこに映った顔を見て、黙った。
「……これは、どなたです?」
「あんただ」
「わたしは、もっと若いはずです」
彼女は闇の面に手を伸ばして、途中で止めた。俺は闇を下げなかった。女は、もう一度その顔を見た。
「……娘に、似ておりますね」
「娘がいるのか?」
「おりました。ここへ来る前に」
「名は」
「忘れ——」
彼女は、そこで止まった。口を半分開けたまま、動かなくなる。何かが喉の途中まで来ている顔だった。
「……リ、」
出てこなかった。女は自分の口に手を当てて、指で唇を押さえた。その指が震えていた。
「出ません。……ここまで来ているのに、出ません」
「リディアだ」
女の目が、そこで初めて大きくなった。
「リディア」
彼女は繰り返して、2度目で声が崩れた。
「リディア。リディアです。……わたし、そう呼んでおりました。毎朝、そう呼んで、梯子を押さえてやりました。あの子は、高いところが好きで」
彼女は、顔を覆った。手の間から、初めて声が出た。泣き方が下手だった。長く泣いていない人間の泣き方だ。
俺は、板を床に置いて、棚を見ながら待った。
12列の棚に、物が並んでいる。靴。櫛。子供の服。指輪。書物。どれも誰かの持ち物で、名前の書いてあるものが多かった。
——名を取って、ここへ置く。
置かれた物は、外では無かったことになる。
「あんた、なんでここにいる」
女は、顔から手を離した。
「口を、押さえております。この場所の口です。開いたままにすると、向こう側から来ますので。……誰かが内側におりますと、口は閉じたままになります」
彼女は、自分の膝を撫でた。
「わたしが出ますと、開きます」
俺は、床の縁を見た。床の端から先は、何も無い色だ。その色のずっと奥に、うっすらと動くものがあった。数が多い。形は分からない。
見ているうちに、1つがこちらへ寄ってきた。だが、床の縁を越えられない。女がここにいるせいだ。
「20年、押さえてたのか」
「20年ですか。……そんなに経ちましたか」
彼女は、少し笑った。リディアに似ていた。
「それでは、あの子は、もう大人ですね」
俺は立ち上がって、女の腕を取った。
「出るぞ」
「出られません」
「あんたが出たら、そいつらが来るんだろうが」
「……はい」
「来たら、俺が殺る」
女は俺の顔を見上げて、何か言おうとして、言わなかった。
代わりに、こう訊いた。
「……あなたは、どなたです?」
「ゼノだ」
「ゼノ様。あなたは、あの子を知っておいでですか。元気ですか」
俺は、すぐに答えなかった。指が4本しかない手と、頬の痣と、12年で1度も2行書かなかった手紙を思い出した。
「歩いてる」
女は、それで納得して、腕を俺に預けた。軽い。人1人の重さが無く、骨の上に布が乗っているだけの重さだった。
俺がその体を担ぐと、女の手が、思ったより強い力で俺の襟を掴んだ。
「ゼノ様。走ってくださいまし」
「あぁ」
「わたしが出ますと、口が開きます。あの子に、触らせてはなりません」
俺は、円のあった場所へ歩きながら、11人の板と、7つの名の板を片腕で抱え直す。抱えきれない。1枚を脇に挟んで、もう1枚を懐へ押し込んだ。
床の真ん中に、丸い薄い色がある。入ってきた口だ。そこへ足を下ろす直前、後ろで音がした。
音は、床の縁からだった。縁の向こうで止まっていたものが、動き出している。1つや2つではない。数え切れないものが、何も無い色の中を、こちらへ寄ってくる。
女が、俺の背中で言った。
「もう、緩んでおります」
「早えな」
「あなたが、わたしに触れたからです。……触れた者の分だけ、緩みます」
俺は、口に落ちた。足の裏から先に、重さが戻る。膝、腰、肩。最後に、頭の中で音が戻った。倉庫の床だ。石の匂いと、潮の匂いがした。
目の前に、リディアが立っていた。
リディアは、俺を見なかった。俺の背中に担がれている女を見て、2歩下がって、それから動かなくなった。
右手が、外套の中から出ていた。包帯の巻かれた、指が4本の手だ。その手が、空を掴むように開いて、閉じた。
「……母さん」
女が、俺の背中で顔を上げ、その声のした方を見た。少しの間、誰なのか分からない顔をして、そのまま、こう言った。
「……どちら様でしょう」
リディアは答えずに、その場に膝をついて、両手を床についた。石の床に、水が落ちた。1滴、2滴。
俺が女を床に下ろすときも、女の手はまだ俺の襟を掴んでいた。
「ゼノ様。あの方は、どうして泣いておいでです」
俺は答えずに、倉庫の床の円を見た。円の線が、白く光り始めている。彫った溝の中から、何も無い色が滲み出して、床の石を溶かしていた。
「リディア。口が開く。閉め方を知ってるか?」
リディアが上げた顔は、濡れていた。そのまま彼女は立ち上がって、右手を円の上に翳した。
「知らない」
「知らねえのか」
「12年、開ける側だった。閉めたことは、1度も無い」
彼女は、そう言って、俺を見た。
「……《《教えろ》》と言え」
俺は答えず、円の上に闇を4枚組んで、その内側に光魔法の陣を1枚重ねた。石の谷の壁の形だ。
「教えねえでいい。俺が閉める」
「閉められない。あんた、内側を知らないだろう」
「知ってる。今、見てきた」
俺は、5枚目を組んだ。
「棚が12列。床の縁の向こうに、数え切れねえのがいる。——あんたの母親が、20年、口を押さえてた」
リディアの手が、止まって、それから動いた。彼女の右手が、俺の組んだ闇の外周に重なって、彼女の線と俺の線が噛み合った。
噛み合ったとき、俺の手の中で、初めて円の閉じ方が分かった。
——外から閉めるんじゃねえ。内側を、引っ張るんだ。




