第103話 棚
「あの子たちに、名前を書かせたな」
リディアがそう言ったとき、高い方の男は否定しなかった。
「書かせた。7人分もらった」
「何に使う?」
「あんたが知ってるだろう」
男が鉤の先で床を軽く突くと、板が莚の下で鈍く鳴った。
「名前を知っていれば、札が作れる。札があれば、どこにいても開けられる。……この町を出ても、追える」
俺は、フィーネを見た。彼女は石板を持ったまま、子供たちの前から動いていない。動かないまま俺の視線を受けて、小さく首を振った。
「わたしがおりました間は、誰も書いておりませんわ」
「昨日だ」
「……昨日は、わたしはおりませんでしたの」
その言い方が、平らだった。
「7人。11人のうち、7人か」
「書けたのが7人だ。4人は書けなかった。あんたの教え方が遅い」
男はそう言って笑った。そこへリィナの木剣が入ったが、当たらなかった。男の足元に輪が開いて、下半身がそこへ落ち、3歩ずれた場所から出てきた。
「嬢ちゃん、そいつは無駄だ」
「無駄ではありません。3歩です。さっきは5歩でした」
リィナが木剣を引き戻すと、男の顔から、また明るさが消えた。跳べる距離に限りがあるのだ。魔力量が減るほど縮む。谷で穴を開けたときと、同じ理屈だった。
俺は闇を4枚組んで、男の周りに正方形に立てた。壁は4枚。上は空いている。男は上を見ずに、足元を見た。
俺が待っていたのは、それだ。こいつらは、逃げるとき必ず下を見る。下に輪を開くからだ。
俺は5枚目を床に伏せた。床に闇を敷いて、その上に外周から流し込む。石の谷の壁と同じ組み方だ。外周に闇、内周に光。ミルカが17日かけて写した411枚の、その1枚目に書いてあった形だった。
男が開いた輪が、俺の敷いた闇の上で滑って、閉じた。
「……何をした」
「床を、ずらした。開く場所を、こっちで決めた」
男は自分の足元を見た。輪の跡が2つある。1つは自分の描いたもの。もう1つは、そこから半歩ずれた位置に残っていた。
俺は、言ってから、それが自分でも初めてだと気づいた。
男は逃げるのをやめて、鉤を捨てて、両手を上げた。
「降りる」
「早いな」
「跳べなくされたら、やり合わない」
彼は床に座った。何度も降りている男の、慣れた座り方だ。
リディアがその男の前にしゃがんで、左手で襟を掴んだ。右手は、外套の中だ。
「3番倉庫に、何人いる」
「6人」
「船は」
「日没だ。潮が変わる」
「積荷は」
男は、そこで初めて言い淀んだ。掴まれた襟の中で、喉が一度動いた。
「……人は、2人だけだ。あとは、棚だ」
リディアの手が、止まった。彼女は、それを俺に見られたことにも気づかずに、こう訊いた。
「棚を、こっちへ持ってきたのか?」
「持ってきた。今年からだ」
「……馬鹿が」
彼女は男の襟を放して、立ち上がった。その顔が、白かった。
「棚ってのは、何だ?」
「物を置く場所だ。どこにも無い場所に棚を作って、そこへ置く。置けば、誰にも見つからない。……20年前に、聖国の学者が思いついた」
「便利だな」
「便利だ。人を置くまではな」
◆
港へ下りたのは、日が傾いてからだった。
3番倉庫は、桟橋の突き当たりにある。石積みの、窓の無い建物だ。海に面した側だけが開いていて、そこに船が横づけされていた。帆には、聖国の印が入っていない。無地の帆だ。
「あれは、どこの船だ?」
「どこのでもない」
リディアは、桟橋の影から、その帆を見ていた。
「旗を上げない船は、どの国の港にも入れる」
「あんた、中に入ったことがあるのか?」
「3回ある。ドストと、シャノと、ここだ」
俺は、フィーネの読んだ地名を思い出した。12枚のうち、2度出てきた町だ。
「戻った年か」
「……あんた、手紙を読んだな」
「読んだ。全部だ」
「……そうか」
リディアは、桟橋の板の上に座り込んで、膝を抱えた。板の隙間から、下の水の音が上がってくる。
「じいさんは、あれを読んで、何と言った」
「無駄なことを書かん子だ、と言った」
彼女は、返事をしなかった。返事の代わりに、右手を外套から出した。包帯が巻いてある。指が4本。その手で、桟橋の板に円を描いた。
「これを、あんたに教えることはない」
「こっちは頼んでねえぞ」
「……頼め」
俺は、そこで黙った。
「頼まねえ」
「なぜだ?」
「あんたが断る顔をしてる」
リディアは、俺を見上げたまま、少しの間、顔を動かさなかった。
「12年前だ」
彼女は、そう言い出した。
「聖国の学者が、谷に来た。18年前まで通っていた者とは、別の人間だ。学者は、動かし方を知っている、教えてやる、と言った」
「行ったのか」
「行った。17だった」
彼女は、包帯の手を膝に置いた。
「教えられたのは、最初の3日だけだ。あとの4年は、こっちが教える側だった」
「4年か」
「4年だ。棚に入れられて、開けさせられた。開けるたびに、どこかが減る。最初は小指だった。次は、耳が聞こえなくなった。片方だけ、半年で戻った。……戻らないものもある」
リディアは、自分の右手を見ていた。
「何が戻らなかった」
「訊くな」
彼女は、立ち上がった。立つとき、板に描いた円を、踵で消した。
「あの子たちは、名前を書いた。その名前で札が作られて、船に積まれて聖国へ行く。着いたら、あの子たちは、どこにいても開けられる」
「攫うのか?」
「攫わない。攫う必要がない」
リディアは、倉庫の方を見た。
「棚の口を、あの子たちの腹の中に開ける。それで足りる」
俺は闇を1枚、指の上で回しながら、日の位置を見る。海の縁まで、あと指2本分だ。
「船が出る前に、札を取る」
「取れない。棚の中だ」
「棚を開ける奴が、中に6人いる」
「開けさせるのか?」
「あぁ」
リディアが、また笑った。やはり、ヨナスに似ていた。
「……あんた、あの子たちを数えたな」
「数えてねえ」
「2人足りないと言ったら、あんたは名前で答えた。……わたしも、そうだった」
日が、海に触れた。倉庫の扉が開いて、人足が板を渡し始めた。荷が2つ。どちらも、人が入る大きさの箱だ。
リィナが俺の横に並んだ。少し遅れて、フィーネがその隣に来た。外套の裾が、潮風で鳴っている。
「ゼノ様。中の2人を先に出します」
「あぁ」
「リィナさん。倉庫の中で、名を呼び合ってはいけませんわ。……向こうは、名を集めておりますの」
「はい」
リィナは、木剣の欠けた先を親指で撫でて、リディアの方を一度だけ見た。
「わたし、今日は《《止まりません》》」




