名もなき想い(Side カイ)
リーネに資料を渡し、まだ昼日中であるのに今日は下がって良いと言われたカイはそのままリーネのそばに留まる。下がっていいとは自由にして良いと言うことだ。何か言われたらこれは自主的な護衛だと言おう。
リーネの執務室にある応接用ソファに寝転びながら、これまで書庫で集めた情報を整理する。情報を集めていることを誰にも悟られたくないと言うのはカイが持つ野生的な危機感だ。
顔立ちが似ていると言うだけだが、それが想起させるものは血筋だ。自身のルーツを辿りたいと言う欲求は自己の確立において大きな役割を持つ。カイの持つ位は今でこそ高貴なものだが、それは生まれ落ちた時から約束されたものではなかった。
カイは下町で育った平民だった。自分が母だと思っていた人が実は母の産婆を勤めた人で、本当の母ではないのですよ、と告げられた時カイはまだ十歳だった。王族の嗜みとして下町の視察に来ていたリーネがあの者が良い、と自分を見つけなければきっと一生知ることのなかったことだった。王族の言葉は絶対だ。王子が望んだのなら平民に選択肢はなく、平民を平民の位からいかようにも変更できる。
王宮に上がり、側仕えをすることは一生涯王族の側で昼も夜もなく生活を捧げること。すなわち二度と家族と過ごすなど無理な話なのであった。それをよく理解していた産婆は、せめてもの餞別としてカイにその出自を伝えた。
十年を共に過ごし育てた子に対して、産婆が真実何を思っていたのかはわからない。
「親の名前くらい教えてくれたっていいだろう...」
小さく呟いたカイの声は幸いにも集中しているリーネには届かなかった。
---
「...い、おい、起きろ。」
小さく揺すられてカイはゆっくりと瞼を開ける。リーネが側に立っている。カイがリーネの執務室に留まり、居眠りをするのは、このリーネが起こしてくれて何の警戒心もなく自分の側に近寄ってくれるのが好きだったからだ。リーネ自身にその気がなくとも第一王子を敵視する者は少なくない。
見下ろしてくる金髪に手を伸ばし、そのまま自分の胸元に引き寄せる。痛いくらいに抱きしめたい気持ちを堪えて、ふわりと包みこむように腕に囲う。リーネはじっとしている。
「...寝ぼけているのか?」
陽が傾き出したら執務を切り上げ、起こしてくれるリーネをいつからか寝ぼけていることにして抱き締めるようになった。この感情に名前はつけられない。悟られないように気づかせないように、こうして一方的な感情を小出しにしている自分はなんと小心者なのだろうか。
リーネの薄く色づいた桃色の唇を何度自分のものにしてしまえたらいいと考えたことだろう。幾度か抱きしめてもリーネは拒絶しない。受け入れられていると錯覚しそうなほど肩の力を抜いて寄りかかってくる華奢な体をゆるく抱きしめつつ、この時間だけは誰にも奪われまいと、肩を抱く手に少し力が入る。
「リーネ」
「なんだ?」
「...っ、呼んだだけ」
何だそれは、と返ってくる声もいつものものだ。呼び捨てにしても許される今の関係。いつか抱き寄せた時には、その手を自分の体に回してはもらえないだろうか。




