第5章 五十分
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エリックは震える手で聖書を開いた。
ページをめくる音が、妙に大きく聞こえた。
部屋には白い衣を着た者が立っている。
外では警備担当者たちが、十一秒間の映像消失について調査を続けていた。壁の向こうには妻と二人の息子が眠っている。
それなのに、この部屋だけが世界から切り離されていた。
エリックは出エジプト記四章を探した。
十節。
文字は見えていた。
意味も知っていた。
それでも声に出そうとすると、喉が閉じた。
「モ、モーセは……主に、言った。わ、私は……」
最初の音を押し出すたび、顎が震えた。
エリックは英語の聖書を読み続けた。
「わ、私は、話すことが……と、得意では、ありません。私は、く、口が重く、し、舌も……」
最後まで読むのに、ひどく時間がかかった。
白い衣の者は急かさなかった。
モーセは、自分には話す能力がないと訴えた。
神は、人の口を造ったのは誰かと問い、何を話すべきか教えると告げた。
それでもモーセは、ほかの人を遣わしてほしいと願った。
十三節まで読み終えた時、エリックの首筋には汗が流れていた。
「モーセは、け、結局、アロンに助けられました」
――あなたにも、九十五人が与えられている。
「九十五人は、僕より優秀です」
――だから与えられた。
「なら、その中の誰かを選べばいい」
――あなたは、その者たちに支えられる。
答えになっていない。
そう思ったが、口にはしなかった。
白い衣の者が一歩近づいた。
その背後から、淡い光が広がった。
――あなたは、自分が弱いから選ばれたのだと思っている。
ふと、パウロの「肉体のとげ」を思い出した。パウロは特別な仕方で用いられた。それでも、その苦しみを取り除いてほしいという願いまで特別にかなえられたわけではなかった。神に特別に用いられることと、すべてを特別扱いされることは同じではない。
エリックは答えなかった。
――そうではない。完全な人を探しているのではない。力を得ても、それを自分のものと呼ばない者に伝える役目を与える。
「僕は、人を殴って逮捕されたことがあります」
――知っている。
「父に、ひどいことを言いました」
――知っている。
「今でも、感情を制御できない時があります」
――知っている。
エリックは両手を握った。
「それなのに、なぜ僕なんですか」
――完全な人を探しているのではない。
慰めであると同時に、逃げ道を閉ざす言葉だった。
――あなたの後ろ盾は、人間の政府でも、企業でも、宗教上の権威でもない。全能の神である。
政府の保護を断った判断は間違いだったのか。
家族を危険にさらしているのではないか。
この数日間、何度も繰り返した不安だった。
恐れなくなることと、守られていると信じることは、同じではないらしい。
父ジョシュアなら、ここで何と言っただろう。
考える必要はなかった。
ハレルヤーㇵ。
間違いなく、そう言った。
エリックは聖書の上に手を置いた。
「僕に、で、できることであれば……何でも、おっしゃる通りに……いたします」
――では、聞きなさい。
◇ ◇ ◇
第四の幸いは、未来を自由に見る力ではなかった。
――人に重大な害が迫る時、それを避けるために必要な警告が与えられる。
――第四は、今から始まる。警告は、必要な時に必要な者へ与えられる。
エリックの意識に、無数の光景が流れ込んだ。
崩れる山。
海岸へ迫る水の壁。
夜の都市をのみ込む炎。
橋を押し流す濁流。
それだけではなかった。
暗い倉庫へ運び込まれる容器。
車へ押し込まれようとする子供。
食料庫の鍵を複製する手。
住宅棟の裏口へ近づく男。
最後の光景に、エリックの喉が鳴った。
「これは……災害ではありません」
――害は、自然だけから来るのではない。
人類一般には、大勢の命や生活を損なう重大な危険が知らされる。
神の民については、それに加え、害意をもって加えられようとする行為と、生活や仕事を大きく妨げる事故についても、必要な警告が与えられる。
「僕が全部受け取るんですか」
――誰に知らせるかは、あなたが決めることではない。
「九十五人にも?」
返事は短かった。
――必要な者に。
それ以上の説明はなかった。
世界の反対側で起きる事故を、ノースカロライナにいる自分が全部知る必要はない。
現場の隣にいる誰かへ知らせた方が早い場合もある。
その程度のことは、エリックにも理解できた。
「人の心は読めるんですか」
――与えられない。
「選挙の結果は?」
――与えられない。
「株価は?」
一瞬、沈黙があった。
――与えられない。
「念のため聞いただけです」
天使に冗談が通じたかどうかは分からなかった。
――警告は、富、支配、名声のためには与えられない。害を避け、人を守り、これから来る王国について証言するために与えられる。
警告に従った結果、告げられた出来事が起きなくなることもある。
それは予告が誤ったからではない。
――防ぐために警告する。
その一言で十分だった。
白い衣の者は続けた。
――第五の幸いでは、神のお考えに沿って行われる人の労働が、無駄にならず、豊かに実を結ぶ。
何もない場所から完成品が現れるのではない。
知らない技術が突然頭に入るわけでもない。
人が見て、考え、相談し、働く。
必要なら計画を変える。
間違えば修正する。
その働きが、通常では考えられないほどよく実る。
エリックの頭に、ヨセフが浮かんだ。
飢饉を消したのではない。
豊作の年に集め、蓄え、飢饉の年に分配した。
人を配置し、食料を管理した。
その仕事によって、多くの命が守られた。
――ただし、神のお考えに反する仕事を成功させるための力ではない。
「兵器でも、投機でも、何でも成功するわけではない」
――その通り。
第六の幸い。
その言葉と共に、光景が変わった。
乾いた平原。
ひび割れた土。
草一本ほとんど見えない土地。
そこから、水が湧いた。
一か所ではない。
岩の間から。
乾いた窪地から。
砂の下から。
細い流れが合わさり、小川になった。
小川が合わさり、川になった。
水は暴れなかった。
住宅を流さず、地面を削り取らず、人が住む場所を壊さなかった。
ただ、必要なところへ流れた。
茶色かった土地に緑が広がった。
空気から有害なものが消え、土は作物を育てられる状態へ変わった。
汚染された水から、人や生き物を害するものが除かれていった。
――神の民の生活圏を中心に、地は清められ、美しく、豊かになる。
「どこまで?」
――生活を支える地と水に、必要な範囲で及ぶ。
所有権の線ではない。
登記簿の境界でもない。
エリックは、地平線まで続く不毛地を見た。
その景色が、エデンの園そのものになったわけではなかった。
だが、エデンについて聖書から想像していたものに、今まで見たどの土地より近かった。
――第七の幸いでは、悪霊の直接の干渉を退ける権威が、神の民の中でそれを正しく用いる者に与えられる。
霊媒を通して語る声。
憑依。
見えない存在からの威圧。
「精神疾患や脳の病気まで悪霊と決めつけることは?」
――してはならない。
実際に悪霊が関わっていなければ、その権威は何も起こさない。
――力は人間のものではない。
第八の幸い。
今度は、病院のベッドが見えた。
固定された脚。
包帯。
事故で傷ついた身体。
――第三の幸いの後に新たに生じた病や傷を癒やす賜物が、神の民の中でそれを正しく用いる者に与えられる。
「第三の幸いと同じですか」
――同じではない。
第三は、人類に王国が成し遂げることを示すため、一斉に与えられた。
第八は、その後の神の民の歩みを支えるために与えられる。
通常の医療を不要にするためのものでも、他の人を従わせるためのものでもない。
「第九は?」
――崇拝について調べるための完全な本文が、清い言語で全世界へ与えられる。誰もが同じ本文を読み、関連する言葉を自分で比較できるようになる。
「第十は?」
――今は、第九までを伝えなさい。
――第五の幸いは、第三の幸いから十四日後、これまでと同じ時刻に始まる。第六、第七、第八は、その後、七日ごとに同じ時刻に始まる。
だが、第九について、天使は日を告げなかった。
「第九も、その七日後では?」
――その時は、後に知らされる。
エリックは質問しようとした。
その瞬間、意識に一つの地名が置かれた。
ワシントン州。
レーニア山。
目の前の部屋が消えた。
◇ ◇ ◇
雪と氷に覆われた巨大な山が見えた。
夜明け前。
空は濃い青色だった。
山の西側。
岩盤の奥で、高温の水と蒸気が圧力を高めている。
熱水によって長い年月をかけてもろくなった岩。
細かな亀裂。
わずかな振動。
午前四時十二分。
山腹が内側から破裂した。
爆発は山全体を吹き飛ばすようなものではなかった。
西側斜面から灰白色の蒸気と岩石が噴き出した。
その直後、巨大な範囲の岩盤が崩れた。
氷と雪と水を巻き込み、崩壊物は谷へ落ちた。
土砂は水を吸い上げ、周囲の岩石や樹木を取り込みながら膨れ上がった。
巨大なラハール。
泥、岩、氷、木材、建物の破片を含む流れが、川の谷を下っていく。
濡れたコンクリートの川のようだった。
エリックには数字が分かった。
五日後。
午前四時十二分。
西側斜面。
約二億六千万立方メートルの山体崩壊。
直近の街、オーティング到達まで五十分。
その先。
サムナー。
ピュアラップ。
フィフェ。
人口が密集した低地。
数日前から住民が移動していれば、犠牲を最小限にできる。
だが、崩壊後に一斉に避難を始めれば、道路が詰まる。
眠っている住民。
同時に道路へ出る車。
動かなくなる交差点。
橋へ殺到する人々。
警告がなければ、想定死者一万八千人以上。
数字を見た瞬間、エリックの膝から力が抜けた。
「やめてください」
自分でも何をやめてほしいのか分からなかった。
災害を。
映像を。
役目を。
すべてを。
――伝えなさい。
「僕の言葉だけで、みんなが避難すると思いますか」
――あなた一人で伝えるのではない。
九十五人。
神の民。
科学者。
行政。
報道。
警告を受け入れるすべての人。
「信じない人もいます」
――それでも伝えなさい。
「間に合わなかったら?」
――それでも伝えなさい。
映像が消えた。
エリックは床にひざをついていた。
「ぼ、僕は、これをどう証明すればいいんですか」
――告げられたことを正確に記録しなさい。
「誰に最初に話せば?」
――あなたを支える者たちに。その後は、警告を聞くすべての人に。
その言葉で、出エジプト記の別の場面が浮かんだ。
七番目の災厄、雹。
警告を受けたのはイスラエル人だけではなかった。
ファラオの家来の中にも、神の言葉を重く受け止め、使用人や家畜を家の中へ避難させた者がいた。
彼らはエジプト人だった。
それでも、警告に従った者は災厄を免れた。
似ているのは雹と火山ではない。
警告されたこと。
そして、警告を聞いて行動する機会が開かれていたこと。
――急ぎなさい。
部屋の照明が戻った。
時計は午前一時十九分。
白い衣の者が現れてから、八分しかたっていなかった。
エリックには何時間も経過したように思えた。
震える指をキーボードに置いた。
レーニア山。
五日後。
午前四時十二分。
入力を始めた。
◇ ◇ ◇
午前二時には、九十五人全員へ緊急連絡が送られた。
参加できた三十二人の画面から、眠気が消えた。
エリックは第四から第九の概要を共有し、それからレーニア山の地形図を表示した。
「五日後、ワシントン州で大規模な火山災害が起きます」
情報源を問われ、エリックは答えた。
「先ほど、天使がこの部屋に現れました」
最初の三つの幸いを経験した後でも、簡単に受け入れられる言葉ではなかった。
米国地質調査所とワシントン州当局へ、時刻、崩壊地点、想定規模、流路をすべて渡すことになった。
回答を待ち続ける時間はない。
六時間後には公表する。
その決定の直後、ケニアの農業技師が別の資料を画面に出した。
「エリック。もう一つ、今夜始める必要があります」
「山のことですか」
「土地のことです」
画面には、各地の施設へ押し寄せている人数が表示された。
第三の幸い以後、神の民の拠点に滞在を求める人は増え続けていた。
空き家。
ホテル。
体育館。
旧病棟。
教育施設。
使える場所は急速に埋まっていた。
「第五で住まいを造る仕事が大きく進む。第六では不毛な地まで生活に適した場所になる。なら、第六になってから土地を探すのでは遅いです」
ノーラが言った。
「今から探す」
「はい」
「水のある土地を?」
農業技師は首を振った。
「第六について告げられた内容がその通りなら、水や今の農業適性を第一条件にする必要はありません」
画面に条件が並んだ。
広いこと。
現在の居住者が少ないこと。
大規模な立ち退きを必要としないこと。
比較的平坦であること。
森林が密集していないこと。
使用権について法的な調整が可能なこと。
「森林を避ける理由は?」
「伐採して、根を抜いて、運び出してから町を造るより、最初から何もない方が速いです」
「かなり逆ですね」
「普通の不動産開発なら、水がない、土が悪い、木もない土地は候補から落とします」
技師は一つの衛星画像を拡大した。
「今回は、そういう土地ほど都合がいい」
何十キロも続く乾いた平原だった。
道路は遠い。
農地はない。
まとまった森林もない。
住民もほとんどいない。
「ここに町を?」
「候補の一つです」
「水源は?」
「現時点では、十分とは言えません」
「農業は?」
「ほぼ向きません」
「じゃあ、なぜここを?」
技師は即答した。
「広いからです」
エリックは画面を見た。
三週間足らず後、その土地がどうなるのか。
天使の光景を思い出した。
「購入だけにしないでください」
法律担当者が顔を上げた。
「長期貸与、使用許可、共同利用。現住民を追い出さずに済む方法を優先します。今は価値の低い土地でも、第六の後はそうではなくなる」
ノーラがうなずいた。
「後から、神の民が未来を知って安い土地を買い占めた、と言われますね」
「言われるだけならまだいい。実際にそう見えることはしない方がいい」
役割が分けられた。
候補地調査。
政府と自治体への連絡。
地主との交渉。
測量。
進入路。
簡易住宅の設計。
電力と通信。
簡単な給水管と下水。
資材集積。
第四の幸いによる警告は、まだ本格的には広がっていなかった。
それでも、人々は次の幸いを待つだけではなくなった。
準備できることを、先に始めた。
◇ ◇ ◇
予告された災害の二日前、レーニア山西側で小規模な地震が連続した。
震源の位置と順序は、エリックが発生前に政府機関へ渡していた非公開資料と一致した。
州政府は避難勧告を命令へ切り替えた。
連邦政府も支援に入った。
道路整理が始まり、鉄道と大型車両が住民を危険区域外へ運んだ。
それでも全員が従ったわけではない。
家を守るため残る者。
過去の警報外れを理由に信用しない者。
撮影映像を売るため山へ近づこうとする者。
エリックは配信で訴えた。
「家を守るために命を危険にさらさないでください。建物は失われても、命があれば再建できます」
一人の男性が書いた。
私の家は三代続いた家だ。あなたに何が分かる。
エリックは答えを書こうとして、手を止めた。
分かるとは言えない。
私には、その家があなたにとってどれほど大切か分かりません。ですが、あなたが亡くなれば、その家を大切に思う人も一人失われます。どうか避難してください。
返事はなかった。
◇ ◇ ◇
予告当日の午前四時十二分。
二十二秒後、山の西側から白いものが噴き出した。
次の瞬間、岩と蒸気の柱が山腹を突き破った。
山の一部が沈んだ。
雪面に黒い亀裂が走った。
巨大な斜面が谷へ落ちた。
ラハール警報が作動した。
サイレンが、ほぼ無人になった街へ鳴り響いた。
オーティングまで、五十分。
流れは谷を下るごとに膨れた。
家ほどの岩が浮き沈みし、何十メートルもの樹木が小枝のように回転した。
橋が折れた。
線路が曲がった。
道路が消えた。
それでも、学校に子供はいなかった。
住宅地の大部分は空だった。
避難車両の列もなかった。
ラハールは予告された五十分後にオーティングへ達した。
経済的損失は莫大だった。
だが、事前警告がなければ一万八千人を超えると見積もられていた死者は出なかった。
最終的に確認された死亡者は四十三人。
行方不明者は十一人。
五十四人。
一万八千人ではない。
だが、ゼロでもなかった。
人々はエリックを英雄と呼んだ。
エリックは五十四人の一覧を見ていた。
「救えたはずだ」
隣にいたソフィアが答えた。
「何万人も救われたのよ」
「でも、五十四人は救えなかった」
九十五人との集会でも同じことを言った。
ノーラは厳しい表情で答えた。
「あなたが五十四人を救えなかった責任を全部背負うなら、救われた人の人生も全部、自分の功績にすることになります」
「そんなつもりはありません」
「なら、どちらもあなたのものではありません。あなたは警告を伝えた。行政は避難させた。住民は行動した。それぞれが自分の責任を果たしました」
エリックは画面の名前を見た。
「それでも、つらいんです」
「それは別です」
ノーラの声が柔らかくなった。
「人の死を平気で見られないことと、神の力を自分のものにすることは違います」
第四の幸いは、歓喜の渦を生まなかった。
災害は起きた。
街は壊れた。
人も亡くなった。
それでも、本来失われるはずだった命の大半が守られた。
完全な救いではない。
完全な王国でもない。
ただ、その時代が近づいていることを示す、小さく鋭い光だった。
◇ ◇ ◇
レーニア山の災害から五日後。
次の災害を教えてほしいという問い合わせが世界中から届いていた。
その一方で、神の民の内部には別の警告も届き始めた。
倉庫の裏口。
午前二時十八分。
鍵を壊そうとする二人。
別の地域では、子供を車へ連れ込もうとする男について、母親ではなく駐車場にいた一人の神の民へ突然情報が与えられた。
どちらも未然に防がれた。
エリックには知らされていなかった。
最初は少し驚いた。
次に、安堵した。
世界中の危険を一人で抱えなくてよい。
誰に知らせるかは、最初から自分の仕事ではなかったのだ。
そして、警告と同じくらい速い勢いで、別の地図が増えていた。
北アフリカ。
中東。
中央アジア。
オーストラリア内陸。
北米南西部。
南米の人口希薄地。
乾いた、広い土地。
測量隊が入り始めた。
使用交渉が始まった。
最初の進入路に杭が打たれた。
第五の幸いまで、あと二日。
人々は、まだ何も成功していない土地で働き始めていた。




