第4章 取り残された人々
第二の幸いが始まって一時間もしないうちに、ジーンは四十八回、「どうして」と尋ねた。
少なくとも、エリックが数えられた範囲では。
「どうして空は青いの?」
「どうしてパンは焼くと固くなるの?」
「どうしてマイクは僕より大きいの?」
「どうしておばあちゃんは泣いてるの?」
五年間、一度も言葉を話さなかった少年の中には、五年分の質問がたまっていたらしい。
エリックは最初の二十回ほど、できる限り丁寧に答えた。
二十一回目から、説明が少し短くなった。
四十回を超える頃には、
「それはパパにも分からない」
という答えが増えていた。
「パパ、知らないこと多いね」
ジーンは率直に言った。
「今日から急に、そ、それを指摘する人が増えたな」
「昨日までは僕、言えなかったから」
「そうだった」
エリックは笑った。
そして、すぐに泣きそうになった。
ジーンの話し方は五歳児のものだった。
突然、大人と同じ知識を得たわけではない。知らない単語も多く、長い説明を聞けば途中で集中が切れた。
それでも、頭の中で考えていたことを言葉にできる。
相手の言葉を理解し、自分の返事を選べる。
五年間閉ざされていた扉が開いたのではない。
エリックには、初めから扉などなかったように思えた。
そこにはずっとジーンがいた。
周囲の人間が、彼の声を聞く手段を持っていなかっただけなのだ。
「昨日まで、僕たちが話してたこと、分かってたのか?」
エリックが尋ねると、ジーンは少し考えた。
「全部じゃないよ」
「どのくらい?」
「パパが悲しいのは分かった」
「いつ?」
「いっぱい」
エリックは言葉を失った。
ジーンは父親の顔を見上げた。
「今も悲しい?」
「今は……うれしい」
「でも泣いてるよ」
「大人は、うれしくても泣くんだ」
「どうして?」
四十九回目だった。
「それはパパにも分からない」
ジーンは、以前と同じように手を伸ばした。
父親の頬を、二度たたいた。
言葉を話せるようになっても、それはやめないらしい。
エリックは、そのことにひどく安心した。
◇ ◇ ◇
世界各地でも、同じような再会が起きていた。
認知症によって家族の名前を忘れていた人が、子供や孫を一人ずつ呼んだ。
事故で長期記憶を失っていた男性が、自宅へ帰る道を思い出した。
脳損傷で意思を伝えられなかった人々が、何年分もの感謝や不満を語り始めた。
重いうつ病のため、何を見ても喜びを感じられなかった人が、朝日の美しさに気づいた。
強迫的な恐怖や、現実との接触を失わせていた重い精神症状も消えた。
依存症の人々には、別の種類の静けさが訪れていた。
ノースカロライナ州シャーロットのある家では、妻がまず財布を探した。
いつもの場所になかった。
胸が冷たくなった。
夫がまた持ち出したのだと思った。
台所へ行くと、夫はテーブルに座っていた。
財布はその前に置かれていた。
その横には、半分残ったウイスキーの瓶があった。
妻は立ち止まった。
夫は瓶を見ていた。
だが、手を伸ばさなかった。
「飲まないの?」
夫は首を振った。
「欲しくない」
妻は笑わなかった。
その言葉なら、何十回も聞いていた。
「昨日もそう言った」
「違う」
夫は自分の手を見た。
「我慢してるんじゃない」
手は震えていなかった。
汗も出ていない。
苛立ってもいなかった。
酒を取り上げようとした時の、あの目をしていなかった。
妻はしばらく夫を見た。
「治ったと言われても、私はまだあなたを信用できない」
「分かってる」
返事は早かった。
「信用してくれとは言わない」
夫は財布を妻の方へ押した。
「昨日までにしたことは消えないから」
借金。
嘘。
息子との約束。
妻を突き飛ばした夜。
全部覚えていた。
忘れたのでも、なかったことになったのでもない。
ただ、それから逃げるために酒を必要としていた異常だけが消えていた。
夫は腹部に手を当てた。
「病院へ行きたい」
「お酒の?」
「それも話す。でも、こっちはまだ治ってない」
長年の飲酒で傷んだ肝臓は、そのまま残っていた。
同じことが世界中で起きていた。
薬物を買うためATMの前まで来ていた男が、カードを財布へ戻した。
オンラインカジノで何時間も賭け続けていた女性が、次の賭けをせず画面を閉じた。
開店前のギャンブル店に並んでいた列から、一人、また一人と人が抜けた。
誰かに禁止されたのではなかった。
酒も、薬物も、賭ける場所も消えていない。
欲求に従わないという選択が、再び普通にできるようになっていた。
重度のアルコール依存や薬物依存の患者を観察していた病院では、医師たちが警戒していた離脱反応まで起こらなかった。
数時間のうちに、オーバードーズや急性アルコール中毒による救急搬送が急減した。
酒や薬物に絡む暴力や窃盗の通報も減り始めた。
違法薬物の売人の端末には、いつもの買い手から連絡が来なくなった。
依存症治療施設では、電話が鳴り続けた。
ただし、以前とは内容が違った。
「やめたいんです」ではなかった。
「やめられました。これから、どうすればいいですか」だった。
変化は、路上生活者の支援現場にも現れた。
ある都市の支援センターでは、毎日のように食事だけ受け取って帰っていた男性が、初めてケースワーカーの前に座った。
「身分証を作り直したい」
「分かりました」
「それから、寝る場所を探したい」
ケースワーカーが端末を開いた。
男性は続けた。
「仕事も。でも、全部いっぺんにやると失敗する。順番を決めるのを手伝ってくれないか」
ケースワーカーの手が止まった。
昨日まで、この男性と五分以上話せたことは一度もなかった。
第二の幸いは、家も金も仕事も与えなかった。
壊れた人間関係も、自動的には戻さなかった。
それでも、助けを受け入れ、明日のために今日の行動を選ぶ力を、多くの人に返していた。
医学機関が撮影した脳画像では、損傷していた組織が正常な状態に戻っていた。
退縮していた領域は回復し、途切れていた神経の接続が再構成されていた。
遺伝的な異常と考えられていた疾患まで、脳の機能障害を引き起こす場合は改善されていた。
それは一時的な興奮でも、集団暗示でもなかった。
客観的に測定できる変化だった。
ただし、記憶そのものが作り替えられたわけではない。
苦しい経験は、消えなかった。
愛していた人を失った記憶も残った。
過去に犯した罪が、なかったことになるわけでもない。
人格は同じだった。
損なわれていた機能だけが回復した。
第二の幸いが回復させたのは、脳や精神の働きが損なわれて生じていた機能障害だった。依存症もそこに含まれ、依存に伴う離脱反応も起こらなかった。しかし、依存によってすでに傷ついた臓器や、その他の病と身体障害は、まだ第三の幸いを待っていた。
その区別は重要だった。
世界中の親たちの中には、回復した子供を抱きながら、
「以前のこの子は、本当のこの子ではなかった」
と言う人もいた。
その言葉に、同じような障害と生きてきた人々が反発した。
以前の自分も、自分だった。
清い言語で行われた最初の大規模な討論の一つは、この問題を扱うものになった。
ある若い女性は、第二の幸いまで発話が困難だった。
彼女は世界に向けて言った。
「私は昨日、別の人間から私自身に変わったのではありません。昨日までの私も私です。私を愛してくれた人、私の意思を探そうとしてくれた人を、私は覚えています」
ジーンも同じだった。
言葉が話せるようになる前から、優しかった。
マイクが転べば救急箱を持ってきた。
母親が疲れていれば毛布を掛けた。
父親が泣けば、その頬を二度たたいた。
第二の幸いは、ジーンに思いやりを与えたのではない。
もともとそこにあった思いやりを、言葉でも表せるようにしたのだ。
◇ ◇ ◇
エリック自身にも、変化が起きていた。
最初に気づいたのは、食事だった。
遅い昼食を終えた後、テーブルにはまだパンが残っていた。
いつもなら、腹が減っていなくても手を伸ばしていた。
エリックはしばらくそれを見た。
欲しくなかった。
我慢しているのではない。腹が減っていないから、もう食べたくない。ただ、それだけだった。
だが彼には、いつ以来か思い出せないほど久しぶりの感覚だった。
鏡の中の身体は何も変わっていなかった。まだ二百キロ近い。度の強い眼鏡も必要だった。剃るのをやめた頭では、短く伸びた毛の間に脱毛した場所がはっきり見えていた。
第二の幸いは、身体を治してはいなかった。
その日のうちに、エリックはいつもの薬の容器を手に取った。
明日の朝も、これまで通り飲むべきなのか迷った。
そのまま、しばらく見つめた。
何かが違った。
長年、胸の中には鉛の板のようなものがあった。
何を始めるにも、それを持ち上げなければならなかった。
ベッドから起きる。
顔を洗う。
子供と話す。
祈る。
笑う。
何をするにも、目に見えない重さが付きまとった。
うれしい出来事があっても、喜びが心まで届く前に、その板に吸収された。
今、その重さがなかった。
気分が高揚しているわけではない。
世界が突然美しく見えるわけでもない。
ただ、心が本来あるべき位置に戻っていた。
エリックは薬の容器を手にしたまま、医療担当の仲間へ連絡した。
「薬を、やめてもいいと思いますか」
「自己判断ではやめないでください」
返事は即座だった。
「でも、うつ病は消えています」
「その可能性は高いです。それでも、薬を急に中止した時の影響がどうなるかは確認できていません。第二の幸いが薬物代謝まで変えたとは限りません」
「世界が奇跡で変わっても、医者の答えは慎重なんですね」
「それが仕事です」
エリックは指示に従った。
検査を受け、医師の監督の下で薬を減らすことになった。
心の病が消えても、吃音は残っていた。
英語で話すと、相変わらず音が止まった。
最初の言葉を押し出すために、顎や首に力が入った。
清い言語では流暢に話せたが、英語に戻れば以前のままだった。
何より、過去まで消えたわけではない。
十七歳の事件も、父に浴びせた言葉も覚えている。
うつ病は消えた。
しかし、自分を許せない気持ちは、病気だけから生じていたわけではなかった。
◇ ◇ ◇
母マリーの認知機能も完全に回復していた。
夕食の席で、彼女は薬を飲んだ時刻や、その午後交わした会話を自然に覚えていた。
「そこまで思い出さなくてもいいんじゃないか」
エリックが言うと、マリーは笑った。
「忘れたくて忘れていたわけじゃないのよ」
「それはそうだけど」
「今日、ジーンが『どうして』って四十九回聞いたことも覚えてるわ」
「母さんまで数えてたのか」
「最後は、大人はうれしくても泣くのはどうして、だったでしょう」
ジーンが目を輝かせた。
「おばあちゃん、覚えてる!」
「今日のことだもの」
マリーはそう言ってから、自分で笑った。
「昨日までなら、こういう『今日のこと』が一番危なかったのよね」
ジョシュアがいたなら、間違いなく「ハレルヤ」と言っただろう。
だが、マリーのがんは消えていなかった。
認知症はなくなった。
脳の機能は正常だった。
それでも検査画像には、小さな腫瘍が残っていた。
ステージ一。
早期に見つかったため、治療の見通しは悪くない。
しかし、第二の幸いの対象ではなかった。
「私は次の週まで待てばいいんでしょう?」
マリーは落ち着いて言った。
「告知が正しければ」
「あなた、まだその言い方をするのね」
「絶対だとは言えない」
「二回当たったのに?」
「二回当たった人間が、三回目も正しい保証にはならない」
マリーは息子の顔を見た。
「お父さんに似ているけど、そこだけは違うわね」
「父さんなら?」
「二回目が起きた時点で、三回目の分までハレルヤと言ってる」
「目に浮かぶよ」
◇ ◇ ◇
第二の幸いから数時間のうちに、世界は祝祭のような状態になった。
街頭では、何年も家族を認識できなかった人々が再会した。
閉鎖病棟の扉が開かれた。
介護施設では、入居者が自分で荷物をまとめ始めた。
長期間休職していた人々が職場へ連絡し、働きたいと申し出た。
世界中で抱擁と涙があふれた。
けれど、その喜びの輪の外にいる人々もいた。
第二の幸いから六時間後、エリックたちのQ&Aページに、一通の映像が届いた。
映っていたのは、三十代ほどの女性だった。
彼女は車椅子に座っていた。
首から下を動かすことができず、清い言語を視線入力装置で組み立てていた。
「私の脳は正常です。昨日も正常でした」
機械音声が、彼女の文章を読み上げた。
「私は事故で脊髄を損傷しました。第二の幸いの後も、指一本動かせません」
女性はカメラを見つめた。
「世界中が喜んでいます。喜ぶべきことだと思います。ですが、私たちにもう一週間待てと言う人は、その一週間がどれほど長いか分かっていますか」
映像は数時間で世界中に広がった。
同じ問いが、至る所から寄せられた。
生まれつき目が見えない人。
爆発で聴力を失った人。
事故で脚を切断した人。
筋肉や臓器の病気に苦しむ人。
激しい慢性痛を抱える人。
がん患者。
心臓病患者。
第二の幸いによって精神は明瞭になった。
だからこそ、自分の身体が取り残されていることを、以前より鮮明に理解するようになった人もいた。
ある男性は、清い言語で叫んだ。
「なぜ脳が先なんだ。なぜ目や耳ではなかった。誰が順番を決めた」
ある母親は、聴力を失った幼い娘を抱きながら訴えた。
「うちの子は、世界共通の言葉を理解できます。でも一度も音を聞いたことがありません。人類が同じ言葉を話せることに、どんな意味があるのですか」
別の投稿には、短い一文だけが書かれていた。
また私たちは後回しですか。
その言葉は、エリックの胸に突き刺さった。
◇ ◇ ◇
公開Q&Aには、数百万人が同時に接続していた。
事前に選ばれた質問に答える予定だったが、エリックは車椅子の女性の映像を最初に流すよう求めた。
映像が終わった。
エリックは、すぐには話さなかった。
清い言語なら、言葉は滑らかに出る。
それでも、何を言えばいいのか分からなかった。
数秒後、彼はカメラを見た。
「分かりません」
配信担当者が顔を上げた。
準備された回答にはない言葉だった。
「私自身にも、まだ第三の幸いを待っている身体上の問題があります。でも、私は歩けます。見ることも、聞くこともできます。あなたが経験している痛みを、分かるとは言えません」
コメント欄の流れが少し遅くなった。
「第三の幸いが来ると、私は告げられました。ですが、“あと一週間だから我慢してください”と軽く言う資格は、私にはありません。一週間の間にも、人は苦しみます。亡くなる人もいるかもしれません」
エリックは一度、息を整えた。
「私は、その順番がなぜ選ばれたのか知りません。公平に見えないと感じる人を、信仰が足りないとも言いません。怒るのは間違っているとも言いません」
彼は英語に切り替えた。
清い言語なら、世界中の人に届く。
だが、この部分は、自分の不完全な声で話さなければならないと思った。
「ぼ、僕に、で、できるのは……つ、伝えられたことを、ご、ごまかさずに、伝えることだけです」
最初の音が何度も止まった。
首の筋肉が震えた。
視聴者は待った。
「つ、次の幸いは、な、七日後です。病気と、し、身体の障害が、い、癒やされます」
エリックは拳を握った。
「そ、それが起きなければ……僕は、に、逃げません。あ、あなたたちの前で、僕が間違っていたと、言います」
映像の女性から、数分後に返信が届いた。
分かったとは言いません。でも、分からないと認めたことには感謝します。
その一文が、エリックにはどんな称賛より重かった。
配信が終わると、ノーラから個別の通話が入った。
「私なら、もっと厳しいことを言っていたと思います」
「どんなことを?」
「第一の幸いで、言葉の壁はなくなった。第二では、損なわれていた知力の働きが回復した」
第一で、誰もが言葉の壁なしに良い知らせを知ることができるようになった。第二で、損なわれていた人にも、理解し判断する働きが回復した。
王国の良い知らせを知り、理解し、それを受け入れるかどうか自分で判断するための基礎が、人類全体に敷かれていた。
ノーラは続けた。
「でも、信じるかどうかまで決められたわけではありません」
「はい」
「なら、第三も同じなのかもしれません。王国が病気や障害をなくせると示すだけなら、世界中の一人残らずが癒やされる必要まではなかった」
エリックは眉を上げた。
「イエスも、地上にいた時、イスラエルの病人全員を一人残らず癒やしたわけではありません。それでも、王国の力が何を成し遂げるかは示されました」
「でも、今回は全員だと告げられた」
「そうです」
エリックはしばらく考えた。
「太陽と雨のことを思い出しました」
「マタイ五章?」
エリックはうなずいた。
「第三の幸いが、あの言葉と同じ意味だと言うつもりはありません。ただ、正しい人だけに太陽を昇らせ、正しい人だけに雨を降らせる方ではない、ということを思いました」
ノーラはうなずいた。
「全人類にまで与えられること自体、私たちが要求できるものではない」
「そう思います」
少し沈黙があった。
ノーラが言った。
「では、あの女性に『また一週間待つのは不公平だ』と言われて、腹は立ちませんでした?」
エリックは苦笑した。
「立ちました」
「やっぱり」
「でも、正しいことを相手にぶつけても、その人の一週間は短くなりません」
ノーラはしばらく黙った。
「モーセのことを思い出しました」
「またモーセですか」
「ミリアムに非難された後のことです。彼女が病気になった時、モーセは『自業自得だ』とは言いませんでした。神に、どうか彼女を癒やしてください、と願った」
エリックは画面から目をそらした。
「僕をモーセと比べるの、やめてもらえませんか」
「比べていません。今のところは」
「その最後の一言が余計です」
ノーラが笑った。
エリックも、少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
第二の幸いから三日目。
世界中から届く問い合わせは、一日数千万件に達していた。
「なぜ知っていたのか」
「第四の幸いもあるのか」
「十の幸いの最後には何が起きるのか」
「あなたは預言者なのか」
「キリストはすでに戻ったのか」
「神の王国は、いつ地上を支配するのか」
個別に答えることは完全に不可能だった。
九十五人の仲間はQ&Aページを拡張し、同じ質問を分類した。
医療情報には医学関係者が注記を付けた。
聖書に関する回答には、複数の翻訳と原文資料への参照が添えられた。
断定できないことには、明確に「分からない」と記した。
ページの最も閲覧された項目は、
エリック・ウィルソンは預言者ですか
だった。
回答は短かった。
本人はそう考えていません。九十五人も、その称号を用いていません。彼は、九十六人が告げられた最初の三つの幸いについて、代表して情報を伝えています。
その下には、エリック自身の言葉が引用されていた。
最初だと言われただけで、何が特別なのでしょうか。私が知っていることは、いずれほかの人も知ります。なら、私は特別ではありません。ただ、たまたま最初に聞いた人間です。私は神が伝えたいことを伝える道具にすぎません。
それでも、人々は彼を預言者と呼んだ。
救世主と呼ぶ者さえ現れた。
エリックは、その言葉を見るたびに削除を求めた。
技術担当者は言った。
「インターネット上の言葉を全部消すのは無理です」
「では、少なくとも僕たちのページでは使わないでください」
「使っていません」
「検索結果の見出しに出ています」
「それは検索会社に言ってください」
「連絡先は?」
「あなたはまた一人で対応するつもりですか?」
エリックは口を閉じた。
九十五人の監視は、以前より厳しくなっていた。
◇ ◇ ◇
五日目には、社会の緊張が目に見える形で高まった。
身体障害や病気を抱える人々の一部は、第三の幸いを待つため、神の民の教育施設へ集まり始めた。
施設へ行けば治癒されるという根拠はなかった。
幸いは場所や所属に関係なく、全世界で生じると説明されていた。
それでも人々は、エリックや九十五人の近くにいたがった。
「もし何か条件があるなら、直前に教えてもらえる」
「神の民の土地にいれば、安全だ」
「祈ってもらえば、自分だけ取り残されずに済む」
誤った期待が広がった。
エリックたちは繰り返し声明を出した。
寄付は必要ない。
神の民へ加入することも条件ではない。
特定の場所へ移動する必要もない。
誰かに触れてもらう必要もない。
第二の幸いは信仰や所属を問わず全人類に及んだ。
第三も同じだと告げられている。
しかし、不安に駆られた人々は説明だけでは止まらなかった。
教育施設の周辺道路には、車椅子、医療車両、家族を乗せた車が何キロも並んだ。
地元当局は交通規制を始めた。
神の民は敷地を閉鎖せず、空いている建物を休憩場所として開放した。
食事と水を配った。
医療用電源を必要とする人のため、発電設備を用意した。
ただし、「ここに来れば癒やされる」とは一度も言わなかった。
エリックも外へ出て、人々と話した。
彼を見つけた群衆が一斉に近づいたため、警備担当者が止めようとした。
エリックは制止した。
「話を聞くだけです」
「危険です」
「この人たちは、僕を傷つけに来たわけではありません」
「全員がそうだとは確認できません」
その言葉に、エリックは反論できなかった。
結局、透明な仕切りと一定の距離を置いた上で、数人ずつ話すことになった。
長時間立っていることが難しいエリックには椅子が用意された。
視力を失った男性が尋ねた。
「最初に見たいものを決めておくべきでしょうか」
エリックは少し考えた。
「決めなくても、目を開けた時に最初にあるものが、最初に見るものになると思います」
男性は笑った。
「では、妻に目の前にいてもらいます」
聴力を失った少女の母親は言った。
「最初に何を聞かせればいいでしょう」
エリックは答えた。
「お母さんの声で、名前を呼んであげてください」
両脚を動かせない青年は尋ねた。
「立つ時に、転びませんか」
「それは僕にも分かりません。誰かにつかまっていた方が安全です」
「奇跡の瞬間にも、安全対策が必要なんですね」
「人間は、奇跡の直後でも転ぶと思います」
青年は声を上げて笑った。
周囲にも笑いが広がった。
エリックは、わずかな時間だけ空気が軽くなるのを感じた。
◇ ◇ ◇
第三の幸いの前夜、世界中の病院は異様な静けさに包まれていた。
手術は、延期できないものを除いて見送られた。
患者も医師も、予定時刻を待っていた。
集中治療室では、家族がベッドの周囲に集まった。
視覚障害者は、目を開ける準備をした。
聴覚障害者は、突然の音に驚かないよう、静かな場所を選んだ。
長く歩いていなかった人々のそばには、理学療法士が立った。
がん患者は、検査画像を表示したまま待った。
製薬会社や医療機器メーカーの経営陣も、同じ時刻を見つめていた。
彼らが願っていたことは、必ずしも同じではなかった。
病人の回復を願う者がいた。
自分の会社の崩壊を恐れる者もいた。
そして両方を同時に感じている者が、最も多かった。
◇ ◇ ◇
予定時刻の三十分前。
九十六人は、一つのオンライン集会にそろった。
エリックのいる教育施設では、敷地内と周辺に集まった人々のため、大型画面が設置されていた。
母マリーは、エリックの妻や子供たちと一緒に隣室にいた。
彼女の体内には、まだ小さながんがあった。
「緊張してる?」
エリックが尋ねると、マリーは肩をすくめた。
「少しね」
「怖い?」
「がんが消えないことより、消えた後にあなたがまた寝なくなることの方が怖いわ」
「今日は寝ます」
「昨日もそう言ったでしょう」
ジーンが言った。
「パパ、嘘ついたの?」
「予定が変わったんだ」
「それを嘘って言うんじゃないの?」
「五歳児が急に論理的になると、家庭が大変だな」
マイクが笑った。
開始五分前、エリックは配信場所へ移った。
画面には、九十五人の顔が並んでいた。
さらにその向こうで、世界中の人々が待っていた。
開始一分前。
エリックは清い言語で語った。
「これから起きることを、私たちは行うのではありません。私たちには誰かを癒やす力はありません」
画面の外で、無数の人々が息を潜めた。
「幸いは、神の民だけに与えられるものでもありません。国籍、民族、宗教、富、社会的地位によって区別されないと、私たちは理解しています」
三十秒。
「この回復は、神の王国が地上全体で成し遂げることの前兆です。完成ではありません。人間の支配が終わったわけでも、死がなくなったわけでもありません」
十五秒。
エリックは母のいる部屋を見た。
十秒。
世界中の病院で、医師たちが患者の手を握った。
五。
四。
三。
二。
一。
時刻が変わった。
最初に起きたのは、音だった。
教育施設の外から、誰かの叫び声が上がった。
一人ではない。
数百人。
数千人。
喜びと驚きと恐怖が混ざった、巨大な声だった。
その瞬間、エリックの視界がぼやけた。
目に何か起きたのかと思い、反射的に眼鏡を外した。
世界が鮮明になった。
部屋の反対側にある小さな文字まで読める。
「……見える」
声に出した時、もう一つの異変に気づいた。
呼吸が深く入った。
胸にも、腹にも、いつもの圧迫がない。
シャツが身体から大きく離れていた。袖も肩も、別人の服を借りたように余っている。
エリックは自分の腹部を見た。
二百キロ近かった身体が、そこにはなかった。
痩せ細ったのでもない。年齢と骨格にふさわしい筋肉と体脂肪を備えた、健康な身体だった。
顔に触れると、頬と顎の輪郭まで違っていた。
配信担当者は、急に合わなくなった衣服が映らないよう、カメラを顔の位置へ切り替えた。
エリックは立ち上がろうとした。
これまでと同じつもりで力を込めた瞬間、身体が予想より軽く動き、机へ手をついた。
「危ない」
自分で言ってから、数日前の言葉を思い出した。
人間は、奇跡の直後でも転ぶ。
身体は正常だった。ただ、二百キロ近い身体を動かしてきた感覚まで、一瞬で忘れたわけではなかった。
それでもエリックは、すぐ隣の部屋へ目を向けた。
自分の身体より先に確かめたいことがあった。
隣室では、マリーが息子を見て目を見開いた。
「エリック?」
「僕です」
「ずいぶん減ったわね」
「母さん」
マリーは笑ってから、胸に手を当てた。
「じゃあ、次は私ね」
医療担当者が携帯型の検査装置を当てた。
画面を見た担当者の手が止まった。
マリーも、その画面をのぞき込んだ。
ほぼ同時に、世界各地の病院から報告が流れ込んだ。
腫瘍が消失した。
詰まっていた血管が開いた。
損傷した心臓が正常に動き始めた。
感染症の病原体が検出されなくなった。
自己免疫疾患の異常反応が止まった。
濁っていた目が澄んだ。
失われていた聴覚が戻った。
切断されていた神経と組織が再生した。
欠けていた手足さえ、完全な形を取り戻した。
長い間ベッドに横たわっていた人々が起き上がった。
年齢そのものが若返ったわけではない。
九十歳の人は九十歳のままだった。
髪の白さも、顔のしわも残った。
しかし、年齢に応じた健全な身体を取り戻していた。
老いが消えたのではない。
病と障害が除かれたのだ。
シャーロットの男性も、病院でその時刻を迎えていた。
酒への渇望は、一週間前に消えていた。
その間、一度も飲まなかった。
だが、長年の飲酒で傷んだ肝臓は残っていた。
医師が検査画像を見直した。
数秒、何も言わなかった。
「もう一度撮ります」
二度目も同じだった。
肝硬変の所見が消えていた。
男性は隣にいる妻を見た。
「これで、全部元通りだ」
言いかけて、首を振った。
「……違うな」
妻も、すぐには笑わなかった。
「うん」
男性は画面から目を離さなかった。
「体は戻った。あとは、俺が戻していく」
借金も、失った仕事も、壊した信頼も消えてはいなかった。
それでも今度は、それらに向き合える体を取り戻していた。
◇ ◇ ◇
車椅子に座っていたあの女性は、自分の指が動くのを見た。
最初は右手の小指だった。
次に、ほかの指。
手首。
肘。
彼女は何度もまばたきをした。
周囲の人が支える中、ゆっくりと上体を起こした。
十年以上、自分の力で座ったことがなかった。
「立ちたい」
彼女は機械を使わず、自分の声で言った。
両脇を支えられ、床に足を置いた。
膝が震えた。
筋肉は完全に回復していたが、立つ感覚への再適応には時間が必要だった。
一歩目でつまずき、支えていた人々に抱き留められた。
彼女は泣きながら笑った。
「エリックが言った通り。奇跡の直後でも転ぶのね」
◇ ◇ ◇
目の見えなかった男性は、妻に正面へ立ってもらっていた。
予定時刻を過ぎた瞬間、彼はまぶしそうに目を細めた。
最初に見えたのは、白い光だった。
次に、人の輪郭。
それから、長年声と手の感触だけで知っていた妻の顔。
男性は、しばらく何も言わなかった。
妻が不安そうに尋ねた。
「見える?」
彼は答えた。
「思っていたより、しわが多い」
妻は泣きながら、夫の肩をたたいた。
「あなたもよ」
◇ ◇ ◇
生まれつき耳の聞こえなかった少女は、突然入ってきた世界の音に驚き、耳を押さえた。
機械の動く音。
衣服の擦れる音。
自分の呼吸。
母親の泣き声。
少女は目を大きく見開いた。
母親が、ゆっくりと名前を呼んだ。
少女はその音を聞いた。
生まれて初めて、自分の名前が空気を震わせるのを聞いた。
「もう一回」
少女は言った。
母親は、何度もその名を呼んだ。
◇ ◇ ◇
世界は、第二の幸いを上回る歓喜に包まれた。
教会の鐘を鳴らす者がいた。
車の警笛を鳴らす者がいた。
広場で踊る者。
道路にひざまずく者。
ただ泣く者。
神を信じていなかった人々も、何が起きたのか説明できず、空を見上げた。
エリックは画面の前で立ち尽くしていた。
九十五人の仲間も、笑い、泣き、家族を抱きしめていた。
母マリーが部屋に入ってきた。
「消えたわ」
彼女は言った。
「全部」
エリックは母を抱いた。
ジーンとマイクも、その腰にしがみついた。
妻が三人をまとめて抱きしめた。
抱擁がほどけると、ソフィアは一歩下がり、夫の顔をしばらく見た。
眼鏡はない。頬と顎を覆っていた脂肪もなく、首から肩へ続く輪郭まで、彼女が知っているエリックとは違って見えた。
「何?」
「……不思議」
「何が?」
「初めて見る顔なのに、ちゃんとあなたなの」
エリックは返事に困った。
ソフィアはもう一度、夫の顔を見た。
「かなり格好いい」
「かなり?」
「そこで自信を持ちすぎたら減点する」
エリックは笑った。
その笑い方は、昨日までと同じだった。
誰かの肘がエリックの腹に当たった。
誰のものかは分からなかった。
「痛い」
エリックが言うと、ジーンが顔を上げた。
「病気はなくなったのに?」
「家族に押しつぶされたら痛い」
「第三の幸いでも?」
「それは対象外らしい」
マリーが笑った。
その笑い声を聞きながら、エリックは父の写真を見た。
「ハレルヤーㇵ」
今度は、声が震えなかった。
吃音が消えたわけではない。英語に戻れば、言葉はまだ同じ場所で引っ掛かった。
ただ、この一語だけはまっすぐ出た。
数時間もしないうちに、世界中の報道番組が二つの映像を並べた。
最初の告知をした時の、二百キロ近い身体に度の強い眼鏡、剃り上げた頭のエリック。
そして今、眼鏡を外し、健康な体格で立つエリック。
同じ人物だと示すには、名前よりも、笑った時の目元と、英語で言葉に詰まる声の方が確実だった。
◇ ◇ ◇
だが、歓喜は世界の一面にすぎなかった。
第三の幸いから二十四時間以内に、病院の一般病床の大半が空になった。
第二の幸いですでに、精神科医療や、認知症を主な理由とする介護の需要は大きく減っていた。
今度は、その変化が身体医療のほぼ全域へ広がった。
介護施設から、多くの入居者が自宅へ戻った。
薬局では、必要とされる薬が急激に減った。
がん治療施設。
透析センター。
リハビリテーション施設。
製薬会社。
医療機器メーカー。
介護サービス会社。
それまで何千万、何億という人々を支えてきた産業は、一夜にして需要の大部分を失った。
医師や看護師の多くは、患者が回復したことを心から喜んだ。
介護士たちは、長年世話をしてきた人が自分の足で施設を出る姿を見て泣いた。
研究者たちは、自分たちが一生をかけて治そうとしてきた病気が消えたことに歓喜した。
しかし、その翌日、彼らは別の現実に直面した。
仕事がない。
給与を支払う収入がない。
病院の巨額の設備費と借入金は残っている。
製薬会社の株価は暴落した。
医療関連企業に投資していた年金基金まで打撃を受けた。
介護施設で働いていた人々が、一斉に解雇された。
医療用品を運んでいた会社。
病院の清掃業者。
給食業者。
保険会社。
薬品の原料を生産する工場。
影響は、世界経済のあらゆる部分へ広がった。
人類は病から解放された。
同時に、病が存在することを前提に組み立てられていた社会が崩れ始めた。
◇ ◇ ◇
第三の幸いから二日目。
教育施設の外では、二つの集団が向かい合っていた。
一方は、癒やされた人々だった。
彼らは感謝を伝えるために集まり、清い言語で歌を歌っていた。
もう一方は、突然職を失った人々だった。
看護師。
介護士。
製薬工場の従業員。
医療機器会社の技術者。
彼らは病気が戻ることを望んでいたわけではない。
だが、住宅ローンも、家賃も、子供の学費も消えてはいなかった。
手にした看板には、こう書かれていた。
私たちの生活は誰が癒やすのか。
奇跡では家賃を払えない。
患者が救われ、職員が捨てられた。
一部の報道機関は、対立を単純化した。
奇跡を喜ぶ信仰者と、利益を失って怒る医療業界。
しかし現実は、そんなに単純ではなかった。
職を失った看護師の中には、前日まで回復した患者と抱き合って泣いていた人もいた。
癒やされた人の中には、自分を長年支えてくれた介護士が解雇されたことに怒っている人もいた。
幸福と不安は、同じ人間の中に同時に存在していた。
エリックは、施設の窓から二つの集団を見た。
「僕たちは、人々に幸いが来ると伝えた」
隣にいたノーラが答えた。
「実際に来ました」
「でも、幸いを受けた結果、生活を失った人がいる」
「それをあなたの責任にするつもりですか」
「僕が伝えた」
「あなたが病院職員を解雇したわけではありません」
「でも、何か言わなければならない」
ノーラはため息をついた。
「また世界中の問題を一人で解決するつもりですか」
「解決はできない。ただ、黙っていることもできない」
その日の配信で、エリックは職を失った人々に向けて語った。
「病気が消えたのだから喜ぶべきだ、と言うだけでは十分ではありません。皆さんが人の苦しみを望んでいるわけではないことを、私たちは理解しています」
彼は、医療従事者たちの看板を画面に映した。
「人を助けるために働いてきた皆さんが、助ける相手が健康になったために生活を失う。その仕組み自体に問題があります」
エリックは一度言葉を止めた。
「ですが、私たちは政府でも企業でもありません。雇用や経済を命令によって作り替える力はありません。できる範囲で食料、住居、仕事の支援を行います。しかし、これから生じる変化の全体を止めることはできません」
コメント欄には、感謝と非難が同時に流れた。
無責任だ。
正直に言っている。
奇跡を予告したなら、その後まで考えておくべきだった。
人間に世界経済の準備ができるはずがない。
次に何が起きる。
最後の質問に、エリックは答えられなかった。
第一から第三の幸いについては告げられていた。
しかし第四以降の具体的な内容を、彼はまだ知らなかった。
第三の幸い以前から始まっていた混乱は、やがて食卓にも届き始めた。
畑に作物がないわけではなかった。倉庫にも穀物はあった。
だが燃料価格の高騰、運送会社の倒産、輸出規制、決済の混乱が重なり、ある場所にある食料を、必要な場所へ運べなくなっていた。
港にはコンテナが積み上がり、その一方で都市の棚から小麦粉や乳児用食品が消えた。
世界はまだ食料を作っていた。
ただ、それを届ける仕組みが壊れ始めていた。
◇ ◇ ◇
その夜、教育施設の警備網が一時的に停止した。
時間にして、十一秒。
予備電源は正常だった。
外部からの侵入記録もない。
それでも、監視カメラの映像だけが、同じ瞬間に白く消えた。
警備担当者たちは設備の故障を疑い、施設全体を確認した。
異常は見つからなかった。
午前一時過ぎ。
エリックは客室で一人、世界中から届いた報告を読んでいた。
妻と子供たちは別室で眠っていた。
机の上には、飲みかけのコーヒー。
その横には、もう必要のない度の強い眼鏡が置かれていた。
第1の幸いから剃らずにいた髪は、全体を短く刈りそろえていた。第三の幸いまで脱毛していた場所にも、ごく短い毛がそろい始めていた。
横には、父ジョシュアの写真。
画面には、職を失った介護士からの文章が表示されていた。
私は奇跡を憎みたくありません。でも、明日から子供に何を食べさせればいいのでしょう。
エリックは返信欄に指を置いた。
何を書いても足りない。
何も書かなければ、見捨てることになる。
目を閉じ、額を押さえた。
「僕に、どうしろっていうんだ」
その時、部屋の灯りが消えた。
パソコン画面も暗くなった。
停電ではなかった。
窓の外には、施設の照明がついている。
エリックは椅子から立ち上がった。
室内が、淡い光に満たされ始めた。
照明器具からではない。
壁からでも、窓からでもない。
光そのものが、部屋の中央に集まっていく。
エリックの呼吸が止まった。
最初の夢で見た光だった。
だが、今度は眠っていなかった。
白い衣を着た人物が、机の向こうに立っていた。
表情ははっきり見え、その背後から淡い光が広がっていた。
エリックは後ずさり、椅子にぶつかった。
「ま、待ってください」
夢の中と同じ言葉が出た。
だが今回は、足の震えも、冷たい床の感触も現実だった。
人物が口を開いた。
その声は、耳から聞こえた。
同時に、言葉そのものがエリックの内側へ置かれた。
――これから、第四から第九の幸いについて告げる。
エリックは首を振った。
「そ、それは、僕では駄目です」
人物は動かなかった。
「絶対に、ぼ、僕より適切な人がいます。お、お断りします」
背後の光が、わずかに強くなった。
――あなたが断ることは知られていた。
エリックの喉が鳴った。
人物は言った。
――出エジプト記四章十節から十三節を読みなさい。
机の上には、一冊の聖書が置かれていた。
エリックは震える手を伸ばした。




