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十の幸い ― 世界を揺るがす奇跡と、失われた聖なる書  作者: CBR


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第4章 人が取り戻すもの

第二の幸いが始まって一時間もしないうちに、ジーンは四十八回、「どうして」と尋ねた。少なくとも、エリックが数えられた範囲では。

「どうして空は青いの?」

「どうしてパンは焼くと固くなるの?」

「どうしてマイクは僕より大きいの?」

「どうしておばあちゃんは泣いてるの?」

五年間、一度も言葉を話さなかった少年の中には、五年分の質問がたまっていたらしい。エリックは最初の二十回ほど、できる限り丁寧に答えた。二十一回目から、説明が少し短くなった。

四十回を超える頃には、

「それはパパにも分からない」

という答えが増えていた。

「パパ、知らないこと多いね」

ジーンは率直に言った。

「今日から、そ、それを指摘する人が一人増えたな」

「昨日までは僕、言えなかったから」

「そうだった」

エリックは笑った。そして、すぐに泣きそうになった。

ジーンの話し方は五歳児のものだった。突然、大人と同じ知識を得たわけではない。知らない単語も多く、長い説明を聞けば途中で集中が切れた。それでも、頭の中で考えていたことを言葉にできる。相手の言葉を理解し、自分の返事を選べる。

五年間閉ざされていた扉が開いたのではない。エリックには、初めから扉などなかったように思えた。そこにはずっとジーンがいた。周囲の人間が、彼の声を聞く手段を持っていなかっただけなのだ。

「昨日まで、僕たちが話してたこと、分かってたのか?」

エリックが尋ねると、ジーンは少し考えた。

「全部じゃないよ」

「どのくらい?」

「パパが悲しいのは分かった」

「いつ?」

「いっぱい」

エリックは言葉を失った。目の奥が熱くなり、涙が頬を伝った。

ジーンは父親の顔を見上げた。

「今も悲しい?」

「今は……うれしい」

「でも泣いてるよ」

「大人は、うれしくても泣くんだ」

「どうして?」

四十九回目だった。

「それはパパにも分からない」

ジーンは、以前と同じように手を伸ばした。父親の頬を、二度たたいた。言葉を話せるようになっても、それはやめないらしい。頬に残った二度の軽い感触が、エリックには妙に心地よかった。

挿絵(By みてみん)


◇ ◇ ◇

世界各地でも、失われていた記憶や判断、意思を伝える力が戻った。

認知症、脳損傷、重いうつ病や精神症状によって閉ざされていた人々が、家族の名を呼び、自分の言葉で話し始めた。

◇ ◇ ◇

その朝、短い眠りから目を覚ました時、エリックはしばらく動かなかった。

何かがおかしい。

そう思ってから、違うと気づいた。

何かが、なくなっていた。

胸の奥が静かだった。

理由もなく不安になる感じがない。

目を開けた瞬間から一日を重荷のように感じることもない。

代わりにあったのは、穏やかな幸福感だった。


興奮しているわけではない。

何かいい知らせを聞いたわけでもない。

ただ、朝が来て、自分が生きている。

それだけで、心が静かに満たされていた。


ずっと昔には、こんな朝があった。

いつからなくなったのか思い出せないほど、長い間忘れていた。

変化は、それだけではなかった。

頭の中が軽かった。

一つのことを考えると、その先まで自然に思考が進む。

途中で霧の中へ沈んでいた考えが、今は輪郭を失わない。

複数のことを比べても混乱せず、考えは以前より鋭く、深く進んだ。

頭が別のものになったのではない。自分の頭が、ようやく本来の働きをしている。


エリックはベッドの上で目を閉じた。

他のことを確かめる前に、祈りたかった。

「ありがとうございます」


最初に浮かんだのは、それだけだった。

それから、ソフィア、ジーン、母のこと、そして長い間忘れていたこの静けさのことを、心から感謝した。


祈り終えてもしばらく、そのまま座っていた。

第二の幸いは、確かに自分にも及んでいた。

その変化を別の形で実感したのは、食事の時だった。

遅い昼食を終えた後、テーブルにはまだパンが残っていた。

いつもなら、腹が減っていなくても手を伸ばしていた。エリックはしばらくそれを見た。

欲しくなかった。

我慢しているのではない。腹が減っていないから、もう食べたくない。ただ、それだけだった。

だが彼には、いつ以来か思い出せないほど久しぶりの感覚だった。

鏡の中の身体は何も変わっていなかった。

まだ二百キロ近い。度の強い眼鏡も必要だった。剃るのをやめた頭では、短く伸びた毛の間に脱毛した場所がまだはっきり見えていた。原因は消えても、髪まで一晩で戻るわけではない。

近視をはじめ、身体そのものの病や障害も残っていた。

その日のうちに、エリックはいつもの薬の容器を手に取った。

習慣でふたに指をかけ、それから手を止めた。

もう必要なかった。

その日から薬をやめたが、離脱症状は一つも起きなかった。

心の病が消えても、吃音は残っていた。

英語で話すと、相変わらず音が止まった。

最初の言葉を押し出すために、顎や首に力が入った。

清い言語では流暢に話せたが、英語に戻れば以前のままだった。


何より、過去まで消えたわけではない。

十七歳の事件も、父に浴びせた言葉も覚えている。

うつ病は消えた。だが、それで過去を受け入れられるようになったわけではない。

自分がしたことを思い返すたび、胸の奥にはまだ痛みが残った。


◇ ◇ ◇


母マリーの認知機能も完全に回復していた。夕食の席で、彼女は薬を飲んだ時刻も、数時間前に交わした会話も、自然に覚えていた。

「そこまで思い出さなくてもいいんじゃないか」

エリックが言うと、マリーは笑った。

「忘れたくて忘れていたわけじゃないのよ」

「それはそうだけど」

「今日、ジーンが『どうして』って四十九回聞いたことも覚えてるわ」

「母さんまで数えてたのか」

「最後は、大人はうれしくても泣くのはどうして、だったでしょう」

ジーンが目を輝かせた。

「おばあちゃん、覚えてる!」

「今日のことだもの」

マリーはそう言ってから、自分で笑った。

「昨日までなら、こういう『今日のこと』が一番危なかったのよね」

だが、マリーのがんは消えていなかった。認知症はなくなった。脳の機能は正常だった。

それでも検査画像には、小さな腫瘍が残っていた。ステージ一。早期に見つかったため、治療の見通しは悪くない。しかし、第二の幸いの対象ではなかった。

「私は次の週まで待てばいいんでしょう?」

マリーは落ち着いて言った。

「告知が正しければ」

「あなた、まだその言い方をするのね」

「絶対だとは言えない」

「二回当たったのに?」

「二回当たった人間が、三回目も正しい保証にはならない」

マリーは息子の顔を見た。

「お父さんに似ているけど、そこだけは違うわね」

「父さんなら?」

「二回目が起きた時点で、三回目の分までハレルヤと言ってる」

「目に浮かぶよ」

◇ ◇ ◇

第二の幸いから数時間のうちに、世界各地で歓喜が広がった。だが、その表れ方は同じではなかった。何年も家族を認識できなかった人々は、名前を呼びながら抱き合った。閉鎖病棟の扉が開かれた。介護施設では、入居者が自分で荷物をまとめ、長期間休職していた人々は職場へ連絡し、働きたいと申し出た。


一方、依存症から解放された人々の中には、歓声を上げることもできず、ただ座り込む者がいた。

酒や薬物、賭け事への衝動が、本当に消えているのか確かめるように、自分の内側を探った。

楽しみとして始まったものが、いつしか生活を食い尽くし、人生を立て直そうとする自由さえ奪っていた。


その鎖が、突然なくなった。


泣く者がいた。笑う者がいた。家族に電話をかける者もいた。

そして、何をすればいいのか分からないまま、長い間忘れていた事実に気付いた者もいた。自分の明日は、自分で選べるのだと。


第二の幸いが始まってから数時間、九十六人の共有回線には、世界各地から同じような報告が入り続けていた。

認知症から回復した人、長く精神疾患に苦しんでいた人、そして重い依存症から解放された人たちの報告だった。

その中でエリックは、十年以上薬物依存に苦しみ、何度も治療施設に戻っていた男性と短いビデオ通話をした。

「やめたいと思う自分より、使わせようとする何かの方が、いつも強かったんです。逆らえば体まで苦しくなった。それが、全部なくなった」

その言葉を聞いた時、エリックは、第二と第三が別々の幸いとして告げられた理由を、はっきり理解した。

自分の人生を自分で生きられるようになることと、体を癒やすことは、同じではなかった。


その違いは、一つ一つの家庭では、もっと生々しい形で現れていた。


ノースカロライナ州シャーロットのある家でも、小さな異変が起きていた。

朝、妻が財布を探した。

いつもの場所になかった。胸が冷たくなった。

夫がまた持ち出したのだと思った。


台所へ行くと、夫はテーブルに座っていた。

財布はその前に置かれていた。

その横には、半分残ったウイスキーの瓶があった。


妻は立ち止まった。夫は瓶を見ていた。だが、手を伸ばさなかった。

「飲まないの?」

夫は首を振った。

「欲しくない」


妻は笑わなかった。その言葉なら、何十回も聞いていた。

「昨日もそう言った」


「違う」

夫は自分の手を見た。

「我慢してるんじゃない」


手は震えていなかった。汗も出ていない。苛立ってもいなかった。

酒を取り上げようとした時の、あの目をしていなかった。


妻はしばらく夫を見た。

「治ったと言われても、私はまだあなたを信用できない」


「分かってる」

返事は早かった。

「信用してくれとは言わない」


夫は財布を妻の方へ押した。

「昨日までにしたことは消えないから」


借金。嘘。息子との約束。妻を突き飛ばした夜。全部覚えていた。

忘れたのでも、なかったことになったのでもない。

ただ、それから逃げるために酒を必要としていた異常だけが消えていた。


夫は腹部に手を当てた。

「病院へ行きたい」


「お酒の?」


「それも話す。でも、こっちはまだ治ってない」


長年の飲酒で傷んだ肝臓は、そのまま残っていた。


同じような変化は、世界中で報告されていた。

依存そのものだけでなく、そこから広がっていた暴力、借金、事故、家庭の崩壊にも変化が現れ始めた。本人と、その周囲まで含めれば、影響を受ける人間は数十億に及んだ。


医療現場では、第二の幸いを客観的に確かめる作業も進んでいた。

認知症や脳損傷の患者では、画像検査にも明らかな変化が確認された。

損傷や萎縮があった領域は回復していた。


だが、記憶を書き換えられたわけではない。

過去にしたことも、築いた関係も、自分自身であることも残っていた。


一方で、第二の幸いを素直に喜べない人々もいた。

第二の幸いから六時間後、エリックたちのQ&Aページに、一通の映像が届いた。

映っていたのは、三十代ほどの女性だった。彼女は車椅子に座っていた。首から下を動かすことができず、清い言語を視線入力装置で組み立てていた。

「私の脳は正常です。昨日も正常でした」

機械音声が、彼女の文章を読み上げた。

「私は事故で脊髄を損傷しました。第二の幸いの後も、指一本動かせません」

女性はカメラを見つめた。

「世界中が喜んでいます。喜ぶべきことだと思います。ですが、私たちにもう一週間待てと言う人は、その一週間がどれほど長いか分かっていますか」

映像は数時間で世界中に広がった。同じ問いが、至る所から寄せられた。同じ問いは、視覚や聴覚を失った人、手足や脊髄を損傷した人、がんや心臓病を抱える人々から相次いだ。第二の幸いによって精神が明瞭になったからこそ、取り残された身体を以前より鮮明に感じる人もいた。

聴力を失った幼い娘を抱く母親は訴えた。

「うちの子は世界共通の言葉を理解できます。でも一度も音を聞いたことがありません。人類が同じ言葉を話せることに、どんな意味があるのですか」

別の投稿には、一文だけあった。

また私たちは後回しですか。

その言葉は、エリックの胸に突き刺さった。

◇ ◇ ◇

公開Q&Aには、数億人が同時に接続していた。事前に選ばれた質問に答える予定だったが、エリックは車椅子の女性の映像を最初に流すよう求めた。映像が終わった。エリックは、すぐには話さなかった。清い言語なら、言葉は滑らかに出る。それでも、何を言えばいいのか分からなかった。数秒後、彼はカメラを見た。

「分かりません」

配信担当者が顔を上げた。準備された回答にはない言葉だった。

「私自身にも、まだ第三の幸いを待っている身体上の問題があります。でも、私は歩けます。見ることも、聞くこともできます。あなたが経験している痛みを、分かるとは言えません」

コメント欄の流れが少し遅くなった。

「第三の幸いが来ると、私は告げられました。ですが、“あと一週間だから我慢してください”と軽く言う資格は、私にはありません。一週間の間にも、人は苦しみます。亡くなる人もいるかもしれません」

エリックは一度、息を整えた。

「公平に見えないと感じる人を、信仰が足りないとは言いません。怒るのは間違っているとも言いません」

彼は英語に切り替えた。清い言語なら、世界中の人に届く。だが、この部分は、自分の不完全な声で話さなければならないと思った。

「ぼ、僕に、で、できるのは……つ、伝えられたことを、ご、ごまかさずに、伝えることだけです」

最初の音が何度も止まった。首の筋肉が震えた。視聴者は待った。

「つ、次の幸いは、な、七日後です。病気と、し、身体の障害が、い、癒やされます」

エリックは拳を握った。

「そ、それが起きなければ……ぼ、僕たちは、に、逃げません。あ、あなたたちの前で、ま、間違っていたと、認めます」

映像の女性から、数分後に返信が届いた。

分かったとは言いません。でも、分からないと認めたことには感謝します。

その一文が、エリックにはどんな称賛より重かった。


配信が終わると、ノーラから個別の通話が入った。

「私なら、もっと厳しいことを言っていたと思います」

「どんなことを?」


少し間を置いて、ノーラが言った。

「ここまでの経過で、十の幸いには、王国の良い知らせを目に見える形で示すという目的が見えてますよね」

「はい」

「第一の幸いで、言葉の壁が消えて、良い知らせを知ることができるようになった。第二では、損なわれていた知力の働きが回復して、それを理解し、自分で判断できるようになった」

「でも第三は、王国に病気や障害をなくす力があると示すだけなら、世界中の一人残らず癒やす必要まではなかったと思いませんか?」


エリックが答えた。

「イエスも、地上にいた時、イスラエルの病人全員を一人残らず癒やしたわけではありません。それでも、王国の力が何を成し遂げるかは十分に示されました」

「でも、今回は全員だと告げられた」

「そう告げられています」


エリックは続けた。

「十の幸いは、ただ神の力を見せるために起きているんじゃない。王国が間もなく成し遂げることを、先に良い知らせとして見せている。第三の幸いで病や障害が取り除かれることも、その一部だと思います」


全員である必要はなかった。

少なくとも、第三の幸いの目的を果たすためには。


そこまで考えて、エリックは別の言葉を思い出した。

「太陽と雨のことも思い出します」

「マタイ五章?」

エリックはうなずいた。

「第三の幸いが、あの言葉と同じ意味だと言うつもりはありません。ただ、神が良いものを与える時、正しい人だけに太陽を昇らせ、正しい人だけに雨を降らせる方ではない。今回も、人間の側が受ける資格を決めたわけじゃない」


必要だから与えるのではない。善良だから与える。


ノーラはうなずいた。

「全人類にまで与えられること自体、私たちが要求できるものではない」

「そう思います」


少し沈黙があった。

ノーラが言った。

「では、あの女性に『また一週間待つのは不公平だ』と言われて、腹は立ちませんでした?」


エリックは苦笑した。

「立ちました」

「やっぱり」

「でも、正しいことを相手にぶつけても、その人の一週間は短くなりません」


ノーラはしばらく黙った。

「モーセのことを思い出しました」

「またモーセですか」

「ミリアムに非難された後のことです。彼女が病気になった時、モーセは『自業自得だ』とは言いませんでした。神に、どうか彼女を癒やしてください、と願った」

エリックは画面から目をそらした。

「僕をモーセと比べるの、やめてもらえませんか」

「比べていません。今のところは」

「その最後の一言が余計です」

ノーラが笑った。

エリックも、少しだけ笑った。

◇ ◇ ◇

第二の幸いから三日目。世界中から届く問い合わせは、一日数千万件に達した。第四の幸いはあるのか。最後には何が起きるのか。エリックは預言者なのか。

九十五人はQ&Aを拡張し、断定できないことには明確に「分からない」と記した。最も読まれた質問は、

エリック・ウィルソンは預言者ですか

だった。回答は短かった。

本人はそう考えていません。九十五人も、その称号を用いていません。彼は、告げられた情報を代表して伝えています。

それでも人々は彼を預言者と呼び、救世主と呼ぶ者まで現れた。エリックは自分たちのページでその称号を使わないことだけは徹底した。

◇ ◇ ◇

五日目には、社会の緊張が目に見える形で高まった。

身体障害や病気を抱える人々の一部は、第三の幸いを待つため神の民の教育施設へ集まり始めた。そこへ行けば癒やされる根拠はなく、所属も寄付も祈りも条件ではないと繰り返し説明された。それでも、不安な人々はエリックたちの近くにいたがった。

周辺道路には医療車両や家族を乗せた車が並んだ。第二の幸い以降、施設の警備はさらに増強されていた。神の民は敷地そのものを閉ざさず、外周側に休憩場所、食事、水、医療用電源を用意した。ただし、宿泊区画や通信・配信設備のある区域への立ち入りは厳しく制限された。「ここに来れば癒やされる」とは一度も言わなかった。

誰でも助けを求めることはできた。ただし、誰でもエリックに会えるわけではなかった。

エリックは、集まった人たちから直接話を聞きたいと申し出た。

警備責任者は、群衆の中へ出ることだけは認めなかった。

「話を聞くだけです」

「分かっています。あなたに会いたがっている人たちが危険だと言っているんじゃありません。誰でもあなたに近づける、その状況自体が危険なんです」

「この人たちは、僕を傷つけに来たわけではありません」

「一人いれば十分です」

エリックは黙った。自宅の裏庭に残されていた切断されたケーブルと小型の撮影装置が頭に浮かんだ。

「それに、あなたに何かあれば、あなた一人の問題では済みません」

その言葉には反論できなかった。

結局、その日、直接エリックと話すことを許されたのは、事前に選ばれ、身元確認と所持品検査を終えた人たちだけだった。一度に通されたのは数人。施設内の一室が面会用に確保された。豪華な部屋ではなかった。エリック自身が、そんなものは必要ないと言ったからだ。置かれていたのは机と椅子、飲み物、必要最低限の機材だけだった。

だが、部屋へ入るまでの手順は厳しかった。面会時間は決められ、エリックとの距離も保たれ、警備担当者が室内と出入口の両方に配置された。世界中の政府、報道機関、宗教団体、研究者が彼との数分間を求めている今、ここに通されること自体が極めて稀な機会だった。

視力を失った男性が尋ねた。

「最初に見たいものを決めておくべきでしょうか」

エリックは少し考えた。

「決めなくても、目を開けた時に最初にあるものが、最初に見るものになると思います」

男性は笑った。

「では、妻に目の前にいてもらいます」

聴力を失った少女の母親は言った。

「最初に何を聞かせればいいでしょう」

エリックは答えた。

「お母さんの声で、名前を呼んであげてください」

両脚を動かせない青年は尋ねた。

「立つ時に、転びませんか」

「それは僕にも分かりません。誰かにつかまっていた方が安全です」

「奇跡の瞬間にも、安全対策が必要なんですね」

「人間は、奇跡の直後でも転ぶと思います」

青年は声を上げて笑った。周囲にも笑いが広がった。エリックは、わずかな時間だけ空気が軽くなるのを感じた。

◇ ◇ ◇

第三の幸いの前夜、世界中の病院は異様な静けさに包まれていた。

延期できる手術は見送られ、患者も医師も予定時刻を待った。

視覚や聴覚を失った人、長く歩いていない人、がん患者。それぞれのそばで、家族や医療者が待っていた。

製薬会社や医療機器メーカーの経営陣も同じ時刻を見つめていた。

病人の回復を願いながら、自分たちの会社の明日を恐れている者も少なくなかった。

◇ ◇ ◇

予定時刻の三十分前。

九十六人は、一つのオンライン集会にそろった。

エリックのいる教育施設では、敷地内と周辺に集まった人々のため、大型画面が設置されていた。

母マリーは、エリックの妻や子供たちと一緒に隣室にいた。

彼女の体内には、まだ小さな腫瘍が残っていた。

「緊張してる?」

エリックが尋ねると、マリーは肩をすくめた。

「少しね」

「怖い?」

「がんが消えないことより、消えた後にあなたがまた寝なくなることの方が怖いわ」

「今日は寝ます」

「昨日もそう言ったでしょう」

ジーンが言った。

「パパ、嘘ついたの?」

「予定が変わったんだ」

「それを嘘って言うんじゃないの?」

「五歳児が急に理屈で返してくるようになると、親は大変だな」

マイクが笑った。

開始五分前、エリックは配信場所へ移った。画面には、九十五人の顔が並んでいた。さらにその向こうで、世界中の人々が待っていた。

開始一分前。

エリックは清い言語で語った。

「これから起きることは、私たちの力によるものではありません。私たちには、人を癒やす力もありません」

画面の外で、無数の人々が息を潜めた。

「幸いは、神の民だけに与えられるものでもありません。国籍、民族、宗教、富、社会的地位によって区別されないと、私たちは理解しています。聖書には、神は正しい人にも正しくない人にも太陽を昇らせ、雨を降らせるとあります。神が善良な方だからです。今回の幸いが人類全体に与えられることにも、その善良さが表れていると私は思います」

三十秒。

「この回復は、神の王国が地上全体で成し遂げることの前兆です。完成ではありません。人間の支配が終わったわけでも、死や老化がなくなったわけでもありません」

十五秒。

エリックは母のいる部屋を見た。

十秒。

世界中の病院で、医師たちが患者の手を握った。

五。

四。

三。

二。

一。

時刻が変わった。

最初に起きたのは、音だった。

教育施設の外から、誰かの叫び声が上がった。

一人ではない。

数百人。

数千人。

喜びと驚きと恐怖が混ざった、巨大な声だった。


その瞬間、エリックの視界がぼやけた。

目に何か起きたのかと思い、反射的に眼鏡を外した。

世界が鮮明になった。

部屋の反対側にある小さな文字まで読める。

「……見える」

声に出した時、もう一つの異変に気づいた。

呼吸が深く入った。

胸にも、腹にも、いつもの圧迫がない。

シャツが身体から大きく離れていた。

袖も肩も、別人の服を借りたように余っている。

エリックは自分の腹部を見た。

二百キロ近かった身体が、そこにはなかった。

痩せ細ったのでもない。年齢と骨格にふさわしい筋肉と体脂肪を備えた、健康な身体だった。

顔に触れると、頬と顎の輪郭まで違っていた。

配信担当者は、急に合わなくなった衣服が映らないよう、カメラを顔の位置へ切り替えた。

エリックは立ち上がろうとした。

これまでと同じつもりで力を込めた瞬間、身体が予想より軽く動き、机へ手をついた。

「危ない」

自分で言ってから、数日前の言葉を思い出した。

人間は、奇跡の直後でも転ぶ。

身体は正常だった。ただ、二百キロ近い身体を動かしてきた感覚まで、一瞬で忘れたわけではなかった。

それでもエリックは、すぐ隣の部屋へ目を向けた。

自分の身体より先に確かめたいことがあった。

隣室では、マリーが息子を見て目を見開いた。

「エリック?」

「僕です」

「ずいぶん減ったわね」

「母さん」

マリーは笑ってから、胸に手を当てた。

「じゃあ、次は私ね」

医療担当者が携帯型の検査装置を当てた。

画面を見た担当者の手が止まった。

マリーも、その画面をのぞき込んだ。


ほぼ同時に、世界各地の病院から報告が流れ込んだ。

腫瘍、心臓病、感染症、失われていた視覚や聴覚、損傷した神経や手足――病と障害が、次々に消えていた。

年齢そのものが若返ったわけではない。九十歳の人は九十歳のまま、年齢に応じた健全な身体を取り戻した。老いが消えたのではない。

病と障害が除かれたのだ。

ノースカロライナ州シャーロットの男性も、病院でその時刻を迎えていた。

酒への渇望は、一週間前に消えていた。その間、一度も飲まなかった。

だが、長年の飲酒で傷んだ肝臓は残っていた。

医師が検査画像を見直した。数秒、何も言わなかった。

「もう一度確認します」

二度目の画像でも同じだった。肝臓の表面にあった凹凸が消え、形も正常に戻っている。肝硬変を示していた所見が見当たらなかった。男性は隣にいる妻を見た。

「これで、全部元通りだ」

言いかけて、首を振った。

「……違うな」

妻も、すぐには笑わなかった。

「うん」

男性は画面から目を離さなかった。

「体は戻った。あとは、俺が戻していく」

借金も、失った仕事も、壊した信頼も消えてはいなかった。

それでも今度は、それらに向き合える体を取り戻していた。

◇ ◇ ◇

車椅子に座っていたあの女性は、自分の指が動くのを見た。最初は右手の小指だった。次に、ほかの指。手首。肘。彼女は何度もまばたきをした。周囲の人が支える中、ゆっくりと上体を起こした。

十年以上、自分の力で座ったことがなかった。

「立ちたい」

彼女は機械を使わず、自分の声で言った。

両脇を支えられ、床に足を置いた。

膝が震えた。

筋肉は完全に回復していたが、立つ感覚への再適応には時間が必要だった。

一歩目でつまずき、支えていた人々に抱き留められた。

彼女は泣きながら笑った。

「エリックが言った通り。奇跡の直後でも転ぶのね」

◇ ◇ ◇

目の見えなかった男性は、妻に正面へ立ってもらっていた。

予定時刻を過ぎた瞬間、彼はまぶしそうに目を細めた。最初に見えたのは、白い光だった。次に、人の輪郭。それから、長年声と手の感触だけで知っていた妻の顔。

男性は、しばらく何も言わなかった。

妻が不安そうに尋ねた。

「見える?」

彼は答えた。

「思っていたより、しわが多い」

妻は泣きながら、夫の肩をたたいた。

「あなたもよ」

◇ ◇ ◇

生まれつき耳の聞こえなかった少女は、突然入ってきた世界の音に驚き、耳を押さえた。

機械の動く音。衣服の擦れる音。自分の呼吸。母親の泣き声。

少女は目を大きく見開いた。

母親が、ゆっくりと名前を呼んだ。

少女はその音を聞いた。

生まれて初めて、自分の名前が空気を震わせるのを聞いた。

「もう一回」

少女は言った。

母親は、何度もその名を呼んだ。

◇ ◇ ◇

世界は、第二の幸いを上回る歓喜に包まれた。教会の鐘を鳴らす者がいた。車の警笛を鳴らす者がいた。広場で踊る者。道路にひざまずく者。ただ泣く者。神を信じていなかった人々も、何が起きたのか説明できず、空を見上げた。

エリックは画面の前で立ち尽くしていた。

九十五人の仲間も、笑い、泣き、家族を抱きしめていた。

母マリーが部屋に入ってきた。

「消えたわ」

彼女は言った。

「全部」

エリックは母を抱いた。ジーンとマイクも、その腰にしがみついた。ソフィアも身を寄せ、家族の輪に加わった。

挿絵(By みてみん)

抱擁がほどけると、ソフィアは一歩下がり、夫の顔をしばらく見た。

眼鏡はない。頬と顎を覆っていた脂肪もなく、首から肩へ続く輪郭まで、彼女が知っているエリックとは違って見えた。

「何?」

「……不思議」

「何が?」

「初めて見る顔なのに、ちゃんとあなたなの」

エリックは返事に困った。

ソフィアはもう一度、夫の顔を見た。

「かなり格好いい」

「かなり?」

「そこで自信を持ちすぎたら減点する」

エリックは笑った。その笑い方は、昨日までと同じだった。

誰かの肘がエリックの腹に当たった。

誰のものかは分からなかった。

「痛い」

エリックが言うと、ジーンが顔を上げた。

「病気はなくなったのに?」

「家族に押しつぶされたら痛い」

「第三の幸いでも?」

「それは対象外らしい」

マリーが笑った。

その笑い声を聞きながら、エリックは家族写真の中の父を見た。

「ハレルヤーㇵ」

今度は、声が震えなかった。

吃音が消えたわけではない。普段の英語では、言葉はまだ同じ場所で引っ掛かった。

ただ、この一語だけはまっすぐ出た。

数時間もしないうちに、世界中の報道番組が二つの映像を並べた。

最初の告知をした時の、二百キロ近い身体に度の強い眼鏡、剃り上げた頭のエリック。

そして今、眼鏡を外し、健康な体格で立つエリック。

別人のように見えても、笑った時の目元と、英語で言葉に詰まる声だけは変わらなかった。

◇ ◇ ◇

だが、歓喜は世界の一面にすぎなかった。

第三の幸いから二十四時間以内に、病院や介護施設の多くは需要を大きく失った。

薬局、製薬会社、医療機器メーカー、その周辺産業まで影響は一気に広がった。

医師や看護師、介護士の多くは、人々が回復したことを心から喜んだ。

だが翌日には、患者がいない、仕事がない、設備費や住宅ローンは残っている、という別の現実に直面した。

人類は病から解放された。同時に、病が存在することを前提に組み立てられていた社会が揺れ始めた。

◇ ◇ ◇

第三の幸いから二日目。

教育施設の外では、二つの集団が向かい合っていた。

一方は、癒やされた人々だった。彼らは感謝を伝えるために集まり、清い言語で歌を歌っていた。

もう一方は、突然職を失った人々だった。

看護師。介護士。製薬工場の従業員。医療機器会社の技術者。

彼らは病気が戻ることを望んでいたわけではない。

だが、住宅ローンも、家賃も、子供の学費も消えてはいなかった。

手にした看板には、こう書かれていた。

私たちの生活は誰が癒やすのか。奇跡では家賃を払えない。患者が救われ、職員が捨てられた。

一部の報道機関は、対立を単純化した。

奇跡を喜ぶ信仰者と、利益を失って怒る医療業界。

しかし現実は、そんなに単純ではなかった。

職を失った看護師の中には、前日まで回復した患者と抱き合って泣いていた人もいた。

癒やされた人の中には、自分を長年支えてくれた介護士が解雇されたことに怒っている人もいた。

喜びと不安が、同じ人の胸の中に同居していた。

エリックは、施設の窓から二つの集団を見た。

「僕たちは、人々に幸いが来ると伝えた」

画面の向こうで、ノーラが答えた。

「実際に来ました」

「でも、幸いを受けた結果、生活を失った人がいる」

「それをあなたの責任にするつもりですか」

「僕が代表して伝えた」

「あなたが病院職員を解雇したわけではありません」

「でも、何か言わなければならない」

ノーラはため息をついた。

「また世界中の問題を一人で解決するつもりですか」

「解決はできない。ただ、黙っていることもできない」

その日の配信で、エリックは職を失った人々に向けて語った。

「病気が消えたのだから喜ぶべきだ、と言うだけでは十分ではありません。皆さんが、病気や障害による苦しみが続いてほしかったわけではないことを、私たちは理解しています」

彼は、医療従事者たちの看板を画面に映した。

「人を助けるために働いてきた皆さんが、助ける相手が健康になったために生活を失う。その仕組み自体に問題があります」

エリックは一度言葉を止めた。

「ですが、私たちは政府でも企業でもありません。雇用や経済の仕組みそのものを作り替える力はありません。できる範囲で、食料や住居、仕事を得るための支援はします。しかし、これから起きる社会全体の変化まで止めることはできません」

コメント欄には、感謝と非難が同時に流れた。

無責任だ。正直に言っている。奇跡を予告したなら、その後まで考えておくべきだった。人間に世界経済の準備ができるはずがない。次に何が起きる。

最後の質問に、エリックは答えられなかった。第一から第三の幸いについては告げられていた。

しかし第四以降の具体的な内容を、彼はまだ知らなかった。

第三の幸い以前から始まっていた混乱は、やがて食卓にも届き始めた。

畑に作物がないわけではなかった。

倉庫にも穀物はあった。

だが、急激な需要の変化で配送計画が崩れ、決済や通関の処理も滞った。

一部の国は国内供給を優先し、食料の輸出を一時的に制限した。

港には行き先を失ったコンテナが積み上がり、その一方で都市の棚から小麦粉や乳児用食品が消えた。世界はまだ食料を作っていた。

ただ、それを必要な場所へ届ける仕組みが混乱し始めていた。

◇ ◇ ◇


午前一時過ぎ。

エリックは客室で一人、世界中から届いた報告を読んでいた。

妻と子供たちは別室で眠っていた。

机の上には、飲みかけのコーヒー。

その横には、もう必要のない度の強い眼鏡が置かれていた。

第一の幸いから剃らずにいた髪は、全体を短く刈りそろえていた。

第三の幸いまで脱毛していた場所にも、ごく短い毛がそろい始めていた。

その横には、自宅から持ってきた六人の家族写真。

画面には、職を失った介護士からの文章が表示されていた。

私は奇跡を憎みたくありません。でも、明日から子供に何を食べさせればいいのでしょう。

エリックは返信欄に指を置いた。

何を書いても足りない。何も書かなければ、見捨てることになる。目を閉じ、額を押さえた。

「僕に、どうしろっていうんだ」

その時、部屋の灯りが消えた。パソコン画面も暗くなった。

同じ瞬間、施設内の監視カメラの映像が一斉に白一色になった。

十一秒後、映像は何事もなかったように戻った。

だが、エリックの部屋で起きていることは終わっていなかった。

停電ではなかった。

窓の外には、施設の照明がついている。エリックは椅子から立ち上がった。

室内が、淡い光に満たされ始めた。

照明器具からではない。

壁からでも、窓からでもない。

光そのものが、部屋の中央に集まっていく。

エリックの呼吸が止まった。

最初の夢で見た光だった。

だが、今度は眠っていなかった。

白い衣を着た人物が、机の向こうに立っていた。

表情ははっきり見え、その背後から淡い光が広がっていた。

エリックは後ずさり、椅子にぶつかった。

「ま、待ってください」

夢の中と同じ言葉が出た。

だが今回は、足の震えも、冷たい床の感触も現実だった。

――これから、第四から第九の幸いについて告げる。

「そ、それは僕では駄目です。もっと適切な人がいます。お断りします」

――あなたが断ることも知られていた。

エリックの喉が鳴った。

――出エジプト記四章十節から十三節を読みなさい。

机の上には、一冊の聖書が置かれていた。

聖書はすぐそばにあった。


第一から第三の幸いを題材にしたイメージ曲

「取り戻す朝」を公開しました。


本話までの内容を含むハートフルなバラードです。

曲へのリンクは活動報告に掲載しています。

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