第2章 九十六人
ジーンの部屋を出たあと、エリックは祈るより先に書斎へ向かった。
忘れる前に、すべて記録しなければならないと思った。
机の照明をつけ、パソコンのマウスに触れた。
午前二時二十三分。
画面の白い文書に、震える指で入力した。
七日後、アッシュビル時間の午後一時に、最初の幸いが始まる。
人々には清い言語が加えられる。これまで知っていた言語を失う者はいない。すべての国民が、新しい一つの言語を理解する。
その七日後、同じ時刻に、損なわれた知力の働きが回復する。
さらに七日後、同じ時刻に、病と体の障害が除かれる。
打ち終えた文章を読み返すと、ひどく幼稚な空想に見えた。
昨夜、自分たちは十の災厄と十の幸いについて話し合った。その内容が夢に出てきた。それだけのことではないか。
エリックは抗うつ薬の名称を検索欄に入れ、副作用の一覧を開いた。
鮮明な夢。
睡眠障害。
混乱。
どれも可能性として記載されていた。
「ほらな」
小声で言った。
「く、薬のせいだ」
そう結論づけようとした時、パソコンの時計が午前二時二十七分に変わった。
エリックは文書を閉じることができなかった。
夢の中で聞いた言葉は、普通の夢の記憶とは違っていた。
夢は目覚めた途端、輪郭から崩れていく。
だが、あの言葉は崩れなかった。
一語一語が、初めから知っていた聖句のように頭の中に残っていた。
やがてソフィアが起きてきた。
「どうしたの?」
エリックは画面を閉じかけ、手を止めた。
隠す理由はなかった。
むしろ、伝えなければならないと言われた。
だが、最初の一言が出なかった。
「ゆ……」
喉が閉じた。
「ゆ、夢を……み、見た」
妻はエリックの向かいに座った。
眠気の残る目が、少しずつ真剣になった。
エリックは何度も言葉に詰まりながら、夢の内容を話した。
天使。
三つの幸い。
七日ごとの間隔。
そして、自分が最初だと言われたこと。
ソフィアは途中で口を挟まなかった。
それがかえってつらかった。
「何か言ってくれ」
話し終えると、エリックは頼んだ。
妻はパソコン画面を見た。
「あなたは、これをどう思ってるの?」
「わ、分からない」
「本当に天使だったと思う?」
「分からない」
「公表するつもり?」
エリックは首を振った。
「い、今すぐは、無理だ。もし僕の頭がおかしくなっているなら、世界中にそれを知らせる必要はない」
「まず、みんなに相談した方がいいわ」
「みんなに話したら、僕が狂ったと思われる」
ソフィアは少し考えた。
「それでも、七日後に世界へ話してから狂ったと思われるよりはいいんじゃない?」
エリックは彼女を見た。
「すごく正しいことを言った顔をしてる」
「実際、正しいから」
「ハレルヤ」
「それは皮肉で使わない方がいいと思う」
◇ ◇ ◇
午前六時、終末預言研究グループの十二人が緊急のオンライン集会に参加した。
エリックが全員に送った招待状には、ただ一行だけ書かれていた。
昨夜の研究内容に関係する、説明の難しい経験がありました。
画面の中には、寝起きの顔もあれば、すでに出勤の支度を終えた顔もあった。
エリックは昨夜の文書を画面に表示した。
「こ、これは、ぼ、僕が午前二時二十三分に、書いたものです」
最初の一文だけで、喉が締まった。
声が出ない。
エリックは一度マイクを切り、水を飲んだ。
画面の中の仲間たちは待っていた。
学校で発表をさせられた時の記憶が戻ってきた。
教室の前。
教師の時計。
笑いをこらえている生徒たち。
話せ。
早く話せ。
皆を待たせるな。
その記憶を振り払い、マイクを戻した。
「す、すみません。続けます」
エリックは夢の内容を説明した。
自分が天使を見たと断定はしなかった。
啓示を受けたとも言わなかった。
薬の副作用や、昨夜の研究会から生じた夢である可能性も、自分から述べた。
話し終わると、しばらく誰も発言しなかった。
やがて、年長の仲間が慎重に尋ねた。
「エリック。最近、薬の量は変わった?」
「変わっていません」
「睡眠は取れている?」
「十分とは言えません」
別の一人が言った。
「医師に相談すべきだと思う」
エリックはうなずいた。
予想していた反応だった。
それでも、胸の奥に小さな痛みが走った。
「僕も、そ、そう思います」
「ただし」
別の女性が言葉を継いだ。
「書いた時刻が記録されているのは大事ね。文書は消さないで。そのまま保存して」
「なぜです?」
「七日後に何も起きなければ、薬の相談をするための記録になる。何かが起きたなら――」
彼女はそこで言葉を切った。
「その時に考えましょう」
集会は四十分ほどで終わった。
誰もエリックを嘲笑しなかった。
誰も信じたとも言わなかった。
それが最も妥当な反応だった。
それでもエリックは、通話終了のボタンを押した後、椅子に深く沈み込んだ。
自分は何をしているのだろう。
三十五歳にもなって、夢で天使を見たと仲間に訴えている。
十七歳の時には暴行で逮捕され、今は薬を飲み、満足に言葉も話せない。
その自分が、世界に何かを伝えるというのか。
「やっぱり、僕じゃない」
誰もいない画面に向かって言った。
「ぜ、絶対に、僕じゃない」
その十分後、エリックのもとへ最初の転送報告が届いた。
◇ ◇ ◇
送信者は、アイルランド西部に住む六十二歳の女性だった。
名前はノーラ・ケリー。
神の民の地域教育施設で、聖書資料の校正をしていた。
彼女は故人である父ジョシュアと面識があったが、エリックとは一度も会ったことがなかった。
報告は、ノーラ本人からエリックへ直接送られたものではなかった。
彼女は目覚めた直後、枕元のタブレットにスタイラスで短い記録を書き、勤務先の地域教育施設の内部窓口へ送信していた。それがアメリカの教育センターへ回り、昨夜の研究会との関連が判明して、エリックへ転送されたものだった。
最初の送信時刻は、アイルランド西部の午前七時二十八分。
今朝、白い衣を着た者から、七日後に清い言語が加えられると告げられました。その七日後には損なわれた知力が回復し、さらに七日後には病と体の障害が除かれるとも告げられました。
エリックは、文面を三度読んだ。
添付されていた記録には、夢から覚めた直後にノーラが手書きした文章と、その作成・送信時刻が残っていた。
誰も、すでに知っている言語を失うことはない。
エリックが書いた文章と、ほとんど同じだった。
第二と第三の幸いについても、彼女はエリックと同じ内容を告げられていた。
違っていたのは、さらに一つの指示が加えられていたことだった。
ノーラには、こう伝えられていた。
「あなた一人に告げられたのではない。最初に告げられた者を支えなさい」
「最初に告げられた者……」
エリックは背中に冷たいものを感じた。
一時間後、二通目が届いた。
フィリピンの小児看護師。
三通目は、ケニアの農業技師。
四通目は、韓国の翻訳者。
五通目は、ブラジルの自動車整備士だった。
全員が神の民だった。
全員が前夜、白い衣を着た人物が現れる夢を見ていた。
そして全員が、七日後に一つの新しい言語が人類に加えられると告げられていた。
報告は、その日のうちに十九件になった。
翌日には四十八件。
三日目の夜、九十六件目が確認された。
九十七件目は来なかった。
◇ ◇ ◇
九十六人に、職業上の共通点はなかった。
聖書研究者だけが選ばれたわけではない。
大学教授もいれば、学校を卒業していない人もいた。
外科医。
路線バスの運転手。
漁師。
ソフトウェア技術者。
美容師。
農場労働者。
清掃員。
退職した教師。
乳児を育てている母親。
戦争で片脚を失った男性。
十代の学生もいれば、八十歳を超えた女性もいた。
国籍も、民族も、母語も異なっていた。
裕福な国に暮らす人もいれば、飲み水を確保することさえ難しい地域に住む人もいた。
だが、九十六人全員が神の民だった。
それは偶然とは思えなかった。
夢の中で告げられた内容は、聖書の複数の教えを前提としていた。
聖書には、諸国の人々が一つになって神に仕えることも、イエスを王とする神の王国によって、人間の心と体が回復されることも、それらの知らせが世に伝えられなければならないことも記されている。
それらを、何の背景知識もない人が夢の断片だけから組み立てるのは難しい。
たとえ個人で聖書を読み続けていたとしても、短期間で同じ全体像に到達するとは考えにくかった。
九十六人は、夢によって新しい信条を教えられたのではない。
すでに聖書から学んでいた希望の上に、これから起きる出来事を告げられたのだ。
そのため、互いの説明は最初から一致していた。
それでも、神の民の責任者たちは慎重だった。
九十六人をすぐに同じ通話へ集めることはしなかった。
相互に情報が伝わる前に、一人ずつ別々に聞き取りが行われた。
夢を見た時刻。
人物の姿。
告げられた言葉。
目覚めた後、最初に何をしたか。
事前に十の幸いについて知っていたか。
精神疾患や投薬の履歴があるか。
報告同士が影響し合わないよう、質問項目は統一され、回答は最新の方法で暗号化して保存された。
世界中の九十六人が、同じ数十分ほどの時間帯に、睡眠中・仮眠中・意識を失ったような状態などで夢を見たとみられる。
集計結果は奇妙なほど明確だった。
九十六人のうち、「十の幸い」という表現を以前から使っていたのは、エリックだけだった。
他の九十五人は、夢の中で初めてその言葉を聞いていた。
そして、記録された時刻をUTCに換算すると、エリックの覚醒記録が最も早かった。
二番目のノーラより十一分早かった。
夢の始まった時刻を証明する方法はない。
それでも、エリックが最初の一人であるという告知と、記録は一致していた。
九十六人全員の最初の聞き取りが終わるまで、エリックの報告内容は他の九十五人には伏せられていた。
証言が記録され、互いに影響を受けていないことが確認されてから、初めて情報が共有された。
そこで九十六人は、最初の三つの幸いについて、全員がほぼ同じ内容を告げられていたことを確認した。
違っていたのは、それぞれに加えられた指示だった。
そしてエリックだけが、「あなたが最初である」と告げられていた。
なぜ彼が最初だったのか。その答えは、まだ誰にも分からなかった。
◇ ◇ ◇
最初の全体オンライン集会には、九十六人のうち八十一人しか参加できなかった。
時差の問題だけではなかった。
勤務中の人。
農作業を離れられない人。
インターネット接続が不安定な地域にいる人。
地域当局から通信を監視されている人もいた。
全員を一つの時刻に集めて、毎日話し合うことは現実的ではなかった。
そこでエリックは、一日三回、同じ議題を扱うオンライン集会を開くことにした。
アッシュビル時間で午前七時、午後一時、午後七時の三回。午後一時の回は、告げられた幸いの開始時刻に合わせた。九十六人全員が毎回出席するためではない。世界のどこかでは、必ず無理なく参加できる時間になるようにするためだった。
アジアやオセアニアの人々は主に午前七時。ヨーロッパやアフリカは午後一時。南北アメリカは午後七時。仕事や生活の都合に応じて、別の回に参加することもできた。
各回は録画され、議事録も全員に共有された。重要な決定は一回の集会だけでは行わない。三回すべての意見をまとめてから確定する。
「それで、三回とも誰が司会するんですか?」
最初の集会で、フィリピンの看護師が尋ねた。
エリックは一瞬黙った。
「……僕です」
画面の中で、何人かが同時に首を振った。
「だめです」
「なぜです?」
「朝七時から夜七時まででしょう。その間、問い合わせにも答えるつもりですよね」
「昼寝します」
「何時間?」
エリックは答えなかった。
看護師はうなずいた。
「はい。却下です」
九十五人は、まだエリックを指導者として受け入れたわけではなかった。
そもそも、そのような役職が必要だとは誰も考えていなかった。
だが、最初に告知を受けた者として、彼が最初の公表と調整を担うことは認めていた。
そのため、エリックが三回の集会すべてに出席すること自体は変わらなかった。
代わりに、司会、記録、技術管理、翻訳、法律相談、報道対応を分担するチームが組まれた。
「自分一人ですべてを背負うのはやめてください」
ケニアの農業技師が言った。
「これはあなた一人に与えられた仕事ではありません。あなたが最初だったとしても、九十六人目まで告げられた理由があるはずです」
エリックは反論しようとした。
「でも、ぼ、僕が――」
言葉が詰まった。
最初の音を押し出そうとして、首筋が震えた。
相手は急かさなかった。
画面の向こうの全員が、エリックの言葉を待っているように感じられた。
その沈黙に耐えられなくなり、エリックは視線を下げた。
「ぼ……僕が、最初に聞いたなら、僕が責任を負うべきです」
「最初に聞くことと、一人で背負うことは同じではありません」
ノーラが言った。
「モーセにもアロンがいました」
「僕はモーセではありません」
「分かっています。道に迷うそうですから」
前回の冗談が、いつの間にか共有されていた。
再び笑いが起きた。
エリックは額を手で覆った。
「議事録に、余計なことまで書いた人は誰ですか」
笑いが収まったところで、韓国の翻訳者が口を開いた。
「一つ、最初の幸いについて聞いてもいいですか」
エリックが顔を上げた。
「もちろんです」
「ほかの二つとは、少し性質が違いますよね」
「どういう意味です?」
「知力や体が回復するのは、人に起きている損傷が取り除かれるという話です。でも最初の幸いは、新しいものが全人類に加えられる」
何人かがうなずいた。
フィリピンの看護師が言った。
「私も、一つ気になります」
「何です?」
「脳も体の一部ですよね」
エリックは画面を見た。
「なのに、知力の回復と体の回復は、別々の幸いとして七日ずつ離されている」
誰かが言った。
「単に順番の問題じゃないんでしょうか」
「かもしれません。でも、わざわざ分けて告げられたのは気になります」
エリックも、夢から覚めて以来そこが引っ掛かっていた。
損なわれた知力の働きが回復する。
さらに七日後、同じ時刻に、病と体の障害が除かれる。
脳も体の一部なら、なぜ一度に戻さないのか。
「分かりません」
エリックは答えた。
「ただ、別々に告げられたことを、僕たちの判断で一つの『治癒』にまとめない方がいいと思います」
看護師がうなずいた。
「知力という言葉が、私たちが考えているより広い可能性もありますね」
「それも、まだ推測です」
別の一人が言った。
「清い言語。……バベルの反対みたいだ」
エリックは、少し黙った。
自分も夢から覚めて以来、何度か考えていたことだった。
「僕も、それを考えました」
画面の中の顔が、彼に向いた。
「バベルでは、同じ言葉を話していた人々の言葉が分けられて、互いに通じなくなった。それで人々は散っていった」
エリックは、天使の言葉を記した文書を開いた。
「でも、今回告げられたのは、単純に元へ戻すことじゃない」
「というと?」
「今ある言語は、なくならない」
エリックは一行を読み上げた。
「『これまで知っていた言語を失う者はいない』」
そして画面を見た。
「英語も、韓国語も、スワヒリ語も、そのまま残る。その上で、すべての国民に一つの言語が加えられる」
ノーラが言った。
「違いをなくすのではなく、違っていても通じるようにする」
「そう見えます」
エリックは答えた。
「バベルで言葉が人々を分けるものになったのなら、これは、その壁を越えるものなのかもしれない」
少し沈黙があった。
「それが『清い言語』という意味でしょうか」
誰かが尋ねた。
エリックは首を振った。
「そこまでは分かりません」
そして、少し考えてから続けた。
「天使が言ったことと、僕たちがそこから考えたことは、分けておきましょう。今のバベルの話は、僕の推測です」
記録担当者が言った。
「そこも議事録に入れます」
エリックは眉を上げた。
「今度は入れてください」
◇ ◇ ◇
四日目、九十六人は公表を決めた。
正確には、決めざるを得なかった。
世界中の教育施設には、すでに噂が広がっていた。
九十六人が同じ夢を見た。
七日後に何かが起きる。
アメリカ人の男が最初らしい。
情報を伏せ続ければ、不正確な内容が先に広まる。
発表文は、九十六人全員の確認を経て作成された。
寄付を求めない。
政治的な要求をしない。
特定の国家や民族を非難しない。
九十六人を特別な階級として扱わない。
夢を信じるよう強制しない。
七日後に何も起きなければ、誤りを明確に認める。
そして、最初の三つの幸いについてだけを伝える。
発表の代表には、エリックが選ばれた。
彼は三度断った。
三度目には、かなり真剣に逃亡を検討した。
「僕は、カメラの前では、ふ、普通以上に、どもります」
「知っています」
「編集で言葉をつなぐと、に、偽物に見えます」
「編集しません」
「では、見る人が途中で飽きます」
「字幕を付けます」
「僕には逮捕歴があります」
「質問されたら、事実を説明します」
「抗うつ薬を飲んでいます」
「それも隠しません」
エリックは画面を見回した。
誰一人、彼の弱点を否定しなかった。
誰も「そんなことは問題ではない」と軽く扱わなかった。
問題になり得ることを理解した上で、それでも彼に話すよう求めていた。
「なぜ、僕なんです?」
ノーラが答えた。
「あなたが最初だから、というだけではありません」
「では?」
「あなたは、自分が最初だと告げられた。でも、それを利用して偉くなりたいと思っていないからです」
エリックは沈黙した。
やがて、ゆっくりと言った。
「最初だと言われただけで、何が特別なんですか?」
録画担当者が、静かに記録を開始した。
「僕が知っていることは、いずれ、ほかの人も知る。なら、僕は特別ではありません。ただ、たまたま最初に聞いた人間です」
途中で何度も詰まった。
言葉を言い直した。
長い沈黙もあった。
それでも、誰も止めなかった。
「僕は、神が伝えたいことを伝える、ど、道具にすぎません。道具が、自分の方が職人より重要だと考え始めたら、使い物にならないでしょう」
その言葉が、公開映像の中心になった。
画面に映っていたエリックは、百七十九センチの身長に二百キロ近い体重、度の強い眼鏡、きれいに剃った頭という姿だった。
言葉は何度も止まり、そのたびに首の筋肉が震えた。
後に世界中で比較されることになる、「最初のエリック」の映像だった。
◇ ◇ ◇
映像は、世界中の神の民の公式情報網から公開された。
その数時間後には、一般の動画サイトや報道機関にも転載された。
反応の大部分は冷淡だった。
大規模宗教団体による新たな終末予告。
抗うつ薬を服用する男性、天使から啓示を受けたと主張。
九十六人の集団幻覚か。
世界共通言語が一週間後に出現?
エリックの吃音を切り取った短い動画も作られた。
同じ音節を繰り返す部分だけが編集され、音楽に合わせて再生された。
壊れたエンジン。
音飛びラジオ。
子供の頃に呼ばれた言葉が、何十年もたって別の形で戻ってきた。
エリックは最初の二つを見た後、コメント欄を閉じた。
好意的な反応も、わずかにあった。
九十六人の証言が事前に別々に記録されていたことに注目する研究者。
何も起きなかった場合に誤りを認めると明言した点を評価する記者。
清い言語とバベルの出来事の対称性について論じる聖書学者。
だが、世間の大勢は決まっていた。
七日後、世界は何も変わらない。
九十六人は恥をかく。
そして人々は、次の話題へ移る。
エリック自身も、そうなる可能性を何度も考えた。
何も起きなかったら、仕事を失うかもしれない。
子供たちは学校で嘲笑される。
妻も家族も、終末予告をした男の家族として見られる。
神の民全体にも迷惑をかける。
夜になると、胸の奥が圧迫され、呼吸が浅くなった。
薬を飲んでも、眠れなかった。
それでも一日三回の集会を続けた。
九十五人も、それぞれの生活を続けながら参加した。
病院の休憩室から接続する人。
畑の端に端末を立てる人。
夜勤前の駐車場から参加する人。
通信状態が悪く、音声だけで加わる人。
皆が同じ質問を抱えていた。
本当に起きるのか。
その時、自分たちは何をすべきなのか。
◇ ◇ ◇
七日目。
最初の幸いが始まると告げられた時刻の一時間前、九十六人全員が一つのオンライン集会にそろった。
定期集会では不可能だったが、この日だけは別だった。
仕事を休んだ人もいた。
上司に事情を話し、勤務を交代してもらった人もいた。
真夜中の地域では、家族を起こさないよう暗い部屋から参加していた。
夜明け前の地域では、毛布にくるまっている人もいた。
午後の地域では、背後から子供たちの声が聞こえた。
接続欄には、九十六の名前が並んだ。
公開配信も行われていた。
視聴者数は、開始時点で二百万人を超えていた。
信じて待っている人より、失敗を見届けようとする人の方が多かった。
エリックは自宅の書斎にいた。
妻のソフィア、息子のマイクとジーンは、すぐ隣の部屋で配信を見ていた。
画面の横には、父ジョシュアと映った家族の写真が置かれていた。
開始十分前。
誰も話さなくなった。
開始五分前。
エリックの手が震え始めた。
開始一分前。
画面上に、UTCに合わせた時計が表示された。
五十九秒。
五十八秒。
五十七秒。
エリックは、自分の心臓の音を聞いていた。
何も起きない。
その考えが頭をよぎった。
何も起きなければ、すべて自分の責任だ。
三十秒。
人々に誤った希望を与えたことになる。
二十秒。
父なら、何と言うだろう。
十秒。
九。
八。
七。
六。
五。
四。
三。
二。
一。
時計が予定時刻を示した。
何も起きなかった。
画面は変わらない。
部屋も変わらない。
エリックは、自分の呼吸音だけを聞いた。
五秒。
十秒。
十五秒。
コメント欄に、嘲笑の言葉が流れ始めた。
エリックは目を閉じた。
「申し訳――」
そう言おうとした。
だが、口から出た言葉は、英語ではなかった。
それまで一度も聞いたことのない言葉だった。
発音の仕方も、語順も知らない。
それなのに、何を言っているのか、自分には完全に分かった。
「恐れてはならない。最初の幸いは始まった」
画面の中で、九十五人が顔を上げた。
ノーラが、同じ未知の言語で答えた。
「聞こえました。意味が分かります」
フィリピンの看護師が口元を押さえた。
「私も話せます」
ケニアの農業技師が笑い出した。
韓国の翻訳者は、涙を流しながら何度も首を振った。
自動字幕は、音声を認識できず、意味のない記号を表示していた。
しかし、配信のコメント欄では異変が起きていた。
今、何語を話した?
なぜ意味が分かった?
私はフランス語しか話せない。なのに理解できた。
中国から見ている。全部分かった。
ブラジルです。翻訳は使っていません。
この言語を知っている。いや、今まで知らなかった。でも知っている。
コメントは、あらゆる既存の言語で書き込まれていた。
だが、その内容は一つだった。
世界中の人々が、エリックの語った未知の言葉を理解していた。
エリック自身も、その言語を知っていた。
単語を覚えた記憶はない。
文法を学んだ記憶もない。
それは、立つことや、息をすることや、空腹を感じることと同じだった。
知らないはずなのに、初めから自分の中にあった。
ジーンが父の頬を二度たたく意味を、エリックが自然に理解していたのと同じだった。
エリックは、もう一度その言語で話した。
今度は意識して言葉を選んだ。
「これは、特定の国の言葉ではありません」
喉は詰まらなかった。
音は途切れなかった。
吃音が治ったわけではない。
英語で話そうとすれば、以前と同じように言葉は引っ掛かった。
しかし、この新しい言語では、言葉が水のように流れた。
「これは誰かの所有物ではありません。神の民だけに与えられたものでもありません。すべての人に加えられた言語です」
二百万人を超える視聴者が、その意味を理解した。
国籍も、民族も、宗教も関係なかった。
エリックは画面の横にある父の写真を見た。
そして、未知の言語ではなく、父から教えられた言葉を口にした。
「ハレルヤーㇵ」
世界を分断していた最初の壁が、崩れ始めた。




