第1章 ハレルヤ
父には、二種類の「ハレルヤ」があった。
一つは、日常の中で使う明るい「ハレルヤ!」だった。
雨が降る直前に洗濯物を取り込めた時。
車のエンジンが三度目でかかった時。
庭に植えたトマトが、リスに食べられず赤く実った時。
エリックが学校から持ち帰ったテストで、珍しく平均点を上回った時。
そんな時、父ジョシュア・ウィルソンは大きな手を一度たたき、まるで世界で一番いい知らせを受け取ったかのように言った。
「ハレルヤ!」
大げさだ、と幼いエリックはいつも思っていた。
トマト一個で神を賛美する人間は、ノースカロライナ州でも父くらいではないかと思っていた。
だが、父にはもう一つ、めったに口にしない言い方があった。
「ハレルヤーㇵ」
それは伸ばした「ヤー」の終わりに、喉の奥からごくわずかな息だけを残す。
ヤーㇵ。
最後の音は声というより、吐息に近かった。
エリックが九歳の時、その違いを父に尋ねたことがある。
二人はアッシュビル郊外の家の裏手で、古くなった木製フェンスを直していた。春の風がブルーリッジ山脈から吹き下ろし、切ったばかりの木材と湿った土の匂いを運んでいた。
「ど、どっちも、お、おんなじ言葉じゃないの?」
エリックが尋ねると、父は釘を打つ手を止めた。
当時の吃音は、今よりひどかった。
言葉の最初で音が詰まり、出そうとすればするほど喉が閉じた。特に、d、b、kで始まる言葉が苦手だった。無理に押し出すと、首の筋肉まで震えた。
学校では、それが笑いの種になった。
教師の前では黙っていた生徒たちも、校舎の裏やスクールバスの中では容赦がなかった。
エ、エ、エ、エリック。
壊れたエンジン。
音飛びラジオ。
そう呼ばれていた。
だが父は、エリックが一つの言葉を言い終えるまで、一度も視線をそらさなかった。代わりに言葉を言ってしまうこともなかった。
質問を最後まで聞いてから、父は金づちを工具箱に置いた。
「同じ言葉だよ。ただ、気持ちが違う」
「き、気持ち?」
「普通の『ハレルヤ』は、“神を賛美しよう”という喜びの言葉だ。だけど父さんが『ハレルヤーㇵ』と言う時は、その最後の音まで大事にしている」
父は人差し指を立てた。
「最後の“ヤーㇵ”は、神の名の短い形なんだ」
「か、神の、な、名前?」
「ああ。だから本当に胸がいっぱいになった時は、最後の息まで消さずに言いたくなる」
父は一度、ゆっくり発音してみせた。
「ハレルヤーㇵ」
最後の子音は、喉の奥でかすかにほどけた。
エリックも真似をした。
「ハ、ハレ……ハレル……」
最初の音からつまずいた。
顔が熱くなった。
けれど父は笑わなかった。
「急がなくていい」
エリックは唇を閉じ、息を整え、もう一度試した。
「ハ……レル、ヤーㇵ」
「そうだ」
父は満足そうにうなずいた。
「完璧じゃなくても、誰に向けて言っているかが分かっていればいい」
それ以来、「ハレルヤ」はウィルソン家の家訓のようになった。
マイクが生まれた時、父は病院の廊下で「ハレルヤーㇵ」と叫び、看護師に静かにするよう注意された。
ジーンが生まれた時も同じだった。
後に、ジーンの発達について医師から説明を受けた時も、父は幼い孫を腕に抱き、静かに言った。
「この子がここにいる。それだけで、ハレルヤーㇵだ」
父は、一年前に亡くなった。
最後の数日は、ほとんど言葉を話せなかった。
エリックはベッドのそばに座り、父の乾いた手を握っていた。何か言わなければならないと思った。長い間言えなかった感謝も、十代の頃の反抗も、あの暴行事件の後に父へ浴びせた言葉も、すべて謝りたかった。
だが、いざ口を開くと、音が出なかった。
「と……父さん、ぼ、僕は……」
喉の奥が締まった。
何度も息だけが漏れた。
「ぼ、僕は、あの……」
父は目を閉じたまま、エリックの手を握り返した。
話さなくても分かっている。
そう言われた気がした。
やがて父は、ほんの一瞬だけ目を開いた。
その顔には、痛みよりも穏やかさがあった。
父は息を吸った。
そして、生涯最後の言葉を口にした。
「ハレルヤーㇵ」
最後の子音は、ごく弱い吐息になって消えた。
それから父は眠りに就いた。
意識も、苦しみも、時間の感覚もない眠りだった。
エリックは、父がどこか別の場所から自分たちを見ているとは考えなかった。父は今、何も知らない。何も感じていない。
再び呼び起こされる日まで、存在しないのと同じだった。
その理解は、残酷であると同時に慰めでもあった。
父は苦しんでいない。
だが、エリックが父に会いたいと思う夜、その不在はあまりにも完全だった。
◇ ◇ ◇
二〇六X年、春。
アッシュビルの朝は、薄い霧に包まれていた。
ブルーリッジ山脈の稜線は白い靄の向こうに沈み、住宅地のハナミズキが、まだ冷たい空気の中で花を開き始めていた。
エリック・ウィルソンは、台所の流し台の前で薬を飲んだ。
錠剤を一つ。
水を一口。
いつもの抗うつ薬だった。
三十五歳。身長は百七十九センチあったが、体重は二百キロ近かった。
度の強い眼鏡の奥では、目が実際より小さく見えた。頭は毎朝きれいに剃っていた。好みではない。数年前からストレス性の脱毛が何か所にも現れ、残った髪まで剃る方が説明しなくて済んだからだ。
太り始めた理由も一つではなかった。眠れない。気持ちが沈む。食べている間だけ、胸の中が少し静かになる。そして食べたことを後悔し、また沈む。いつからそれが習慣になったのか、もう覚えていなかった。
三十五歳になっても、自分の一日を始めるために薬の助けが必要であることを、エリックは恥じていた。
医師は恥じる必要などないと言った。
妻のソフィアも同じことを言った。
頭では理解していた。
しかし、頭で理解できることと、心がそれを受け入れることは別だった。
「パパ、パン焦げてる」
七歳のマイクが言った。
エリックは振り返った。
トースターから細い煙が上がっていた。
「ハレルヤ」
反射的にそう言ってから、エリックはパンを取り出した。
マイクが眉をひそめる。
「焦げたのに?」
「火事になる前に、き、気づいた」
「それならハレルヤだね」
「そ、そういうこと」
エリックは黒くなった部分をナイフで削った。
削ったパンを口に入れ、もう一枚取った。
腹が減っているわけではなかった。気づけば食べている。最近は、それが珍しくなかった。
父なら、焦げたパンを見ても本気で喜んだだろう。
少なくとも家が燃えなかった、と。
ダイニングテーブルの端では、五歳のジーンが両手で木製パズルのピースを並べていた。
自閉症。言葉による意思表出に大きな障害がある。
それが医師の説明だった。
ジーンはまだ一度も、意味のある言葉を話したことがない。
けれど何も理解していないわけではなかった。
誰かが悲しんでいると、ジーンは誰より早く気づいた。
マイクが膝を擦りむけば、救急箱を持ってきた。母親が疲れてソファに座れば、黙って毛布を掛けた。
そしてエリックが、誰にも見られないよう台所で泣いていた時には、何も言わずに父親の頬を小さな手でたたいた。
大丈夫。
彼にとって、それが言葉だった。
「ジ、ジーン。朝ごはんだぞ」
エリックが呼びかけると、ジーンは顔を上げた。
返事の代わりに、指先でテーブルを二度たたいた。
二回は「分かった」。
三回は「嫌だ」。
いつの間にかできた、二人だけの言語だった。
エリックは焦げていない方のパンをジーンの皿に置いた。
「今日は、パパの集まり?」
マイクが尋ねた。
「夜に少しだけな」
「世界が終わる話をする集まり?」
「そ、そういう言い方は、やめてくれ」
「でも、ママが言ってた」
台所の反対側から、妻が顔を出した。
ソフィアは二十八歳。身長は百六十六センチだった。
初対面なら、多くの人が一度は目を向けるほど魅力的な容姿をしていた。本人も、そのことを知らないわけではない。
だからといって、自信たっぷりに近づいてくる男に弱いわけではなかった。むしろ、自分を魅力的だと思っていること以外に何を大切にしているのか分からない男には、驚くほど興味を示さなかった。
「私は“終末預言の研究”と言ったの」
「同じじゃない?」
「全然違う」
エリックは小さく笑った。
アガペ・カバナント。
略してAC。
アメリカ国内に複数の教育センターを持ち、世界各地で聖書教育を行う大規模な運動だった。特定の聖書翻訳だけを絶対視せず、原文や古代写本を比較し、本文の背景を膨大な脚注に積み重ねていく。
ソフィアがエリックを初めて意識したのも、ACの小さな聖書研究の席だった。
二十歳だった彼女は、外見や自信だけで自分を売り込む男性にはほとんど興味を持たなかった。エリックは、その正反対だった。
その日、誰かが難しい質問をした。エリックは長く考えた末、どもりながら言った。
「わ、分かりません。調べて、来週でもいいですか」
それから一週間、彼はその問いを放さなかった。
複数の翻訳を比べ、原語を調べ、前後の章を読み、同じ考えが出てくる別の記述を探した。
だが、彼が最も長く考えたのは単語の意味ではなかった。
この記述で、神は何を見ているのか。
自分たちなら、何を見るのか。
その二つが違うなら、なぜ違うのか。
エリックが長く考え込むのは、意味の分からない箇所より、分かったつもりなのに何かが噛み合わない箇所だった。違和感を例外として片づけず、むしろ自分の前提を疑う手掛かりにした。
一週間後、彼は調べた資料を持ってきた。そして最初に言った。
「先週、ぼ、僕が考えていた答えは、少し違っていました」
ソフィアが惹かれたのは、答えをたくさん知っていたからではなかった。
自分の答えより、書かれていることの方を大切にできる人だったからだ。
だが、エリックたちは団体名を誇ることを好まなかった。
父ジョシュアは、生前よく言っていた。
「神の民は、名前や建物で見分けられるんじゃない。愛によって見分けられる。アガペ・カバナントという名は、そのことを忘れないためにある」
それでエリックも、普段は「ACの一員」とは言わず、「神の民の一人」と言った。
もっとも、自分がその呼び名にふさわしいかどうかは、今でも自信がなかった。
神の民。
その言葉を聞くたび、エリックの脳裏には、十七歳の自分が別の少年の顔を殴っている光景が浮かんだ。
床に倒れた相手。
周囲の叫び声。
血の付いた拳。
警察官に腕をねじ上げられ、冷たい手錠を掛けられた感触。
実際には、何人もの少年に囲まれ、ひどい暴行を受けていた生徒を助けようとしたのだった。
だが、止めに入ったという言葉だけでは説明できないほど、エリックは相手を殴り続けた。
怒りが止まらなかった。
自分が十年以上受けてきた嘲笑や暴力を、目の前の相手一人にすべて返すように。
過剰防衛。
最終的にはそう扱われた。
だがエリックにとっては、もっと単純だった。
自分の中に、制御できない何かがある。
それを知ってしまった日だった。
父は彼を見捨てなかった。
それでもエリックは、自分自身を完全には許していなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、終末預言研究グループのオンライン集会には、十二人が参加した。
神の民全体から見れば、存在さえほとんど知られていない小さな研究会だった。
彼らが扱うのは、王国、キリストの再来、世界的な証言、出エジプト記と啓示の類似点などだった。
本部から正式に認められた特別な機関ではない。
自分たちだけが真実を知っている、と主張する集団でもない。
少なくともエリックは、そうならないよう常に気を付けていた。
エリックが「十の幸い」という仮説にたどり着いたのも、同じ読み方の延長だった。
十の災厄を災害の一覧として眺めるのではなく、そこで何が奪われ、何が暴かれ、神が何を区別して見ていたのかを考えた。王国についての聖句を読む時も、人間なら何を重要だと見るかと、本文が何を重要だと扱っているかの違いを追った。
説明の大部分がきれいに収まっても、一節だけ噛み合わなければ、その一節を例外として捨てなかった。むしろ、自分の理解の方がずれている可能性を疑った。
だから今夜の仮説も、正しいと証明するために持ち出したのではない。どこが噛み合わないのかを、仲間に見つけてもらうためだった。
画面の向こうで、仲間の一人が言った。
「エリック、先週の資料だけど、十の災厄に対応する十の幸いという考えは面白い。ただ、根拠としてはまだ弱いと思う」
「ぼ、僕も、そう思います」
エリックは答えた。
最初の「ぼ」が三度出かけて、二度詰まった。
「ぼ……ぼ、僕も、こ、これは教えだとは、お、思っていません。あくまで、ひ、比較のための、か、仮説です」
画面に映る自分の首筋が強くこわばっているのが分かった。
話す前に考えていた文章は、もっと滑らかだった。
頭の中では、いつでも流暢に話せる。
だが口に出そうとすると、言葉は細い出口に殺到し、互いに詰まった。
「十の災厄が偽りの神々の無力さを示したなら、逆に、十の幸いが王国の福音の力を示すこともあり得る。そういう意味です」
最後の一文は、ほとんど詰まらずに言えた。
エリックは小さく息を吐いた。
一人が冗談めかして尋ねた。
「その時は、君がモーセ役?」
エリックは顔をしかめた。
「そ、それだけは、絶対にありません」
画面の向こうで笑いが起きた。
悪意のない笑いだった。
エリックも笑った。
「僕がモーセなら、皆さんは早めに別の荒野を探した方がいい。た、多分、道に迷います」
今度は先ほどより大きな笑いが起きた。
人を笑わせる時だけは、吃音が少し軽くなることがあった。
自分では理由が分からなかった。
笑いが収まった後、エリックは静かに続けた。
「人を導く人間には、そ、それにふさわしい強さが必要です。僕にはありません」
誰かが何か言おうとした。
しかしエリックは、話題を次の資料へ移した。
◇ ◇ ◇
その夜、ジーンを寝室まで抱いて運んだ。
五歳児としては少し重くなっていたが、ジーンは眠る前に抱き上げられるのを好んだ。
部屋までは短い廊下だった。それでも着く頃には、エリックの呼吸の方が少し速くなっていた。
エリックはベッドに息子を寝かせ、毛布を胸まで掛けた。
「お、おやすみ、ジーン」
ジーンは手を伸ばし、父親の頬を二度、軽くたたいた。
いつもの返事だった。
「おやすみ、パパ」
エリックは、その動作をそう翻訳していた。
部屋の灯りを消し、廊下に出た。
その夜、エリックは夢を見た。
いや、後になって何度思い返しても、それを普通の夢と呼ぶことはできなかった。
彼は広大な平原に立っていた。
空には太陽も月も星もなかった。
それでも周囲は明るかった。
遠くから、一人の人物が近づいてきた。
白い衣を着ていた。
表情ははっきり見え、その背後から淡い光が広がっていた。
恐ろしいはずなのに、逃げたいとは思わなかった。
その人物が口を開いた。
声は耳から聞こえたのではない。
言葉そのものが、直接エリックの内側に置かれた。
――七日後、最初の幸いが始まる。
その言葉と同時に、日だけではなく、時刻まで分かった。
アッシュビル時間、午後一時。
エリックは息をのみ込んだ。
――人々には、清い言語が加えられる。誰も、それまで知っていた言葉を失うことはない。だが、すべての国民が、新しい一つの言語を理解する。
「ま、待ってください」
夢の中でも、エリックはどもった。
「な、なぜ、僕に?」
その人物は答えず、続けた。
――その七日後、同じ時刻に第二の幸いがある。損なわれた知力の働きが回復する。
ジーンの顔が浮かんだ。
エリックの胸が激しく鳴った。
――さらに七日後、同じ時刻に第三の幸いがある。病と体の障害が除かれる。
「信じられません」
エリックは首を振った。
「ぼ、僕には、そんなことを伝える資格はありません。ひ、人を間違った期待で――」
――あなたは伝えなければならない。
その言葉は厳しかった。
しかし、怒りは含まれていなかった。
――あなた一人に告げられるのではない。だが、あなたが最初である。
「なぜですか」
今度は、詰まらずに言えた。
背後の光が、わずかに強くなった。
――あなたは、自分を高めない。
その瞬間、エリックは目を覚ました。
暗い寝室。
隣で眠る妻の呼吸。
窓の外で枝を揺らす春の風。
エリックのシャツは、汗で背中に張り付いていた。
時計は午前二時十七分を示していた。
夢だ。
そう思おうとした。
薬の影響かもしれない。
研究会で話した内容が、そのまま夢になっただけだ。
エリックはベッドから降り、水を飲むため台所へ向かった。
廊下を通る途中、ジーンの部屋の扉が少し開いているのに気づいた。
中をのぞくと、息子は静かに眠っていた。
エリックはベッドの横の椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
五年間、一度も言葉を話したことのない、小さな息子。
もし、あの告知が本当なら。
あと十四日で。
「そんなはずない」
声に出すと、最初の音は震えた。
「そ、そんな……はず、ない」
ジーンは眠ったまま、わずかに手を動かした。
その指が、偶然エリックの頬に触れた。
エリックは目を閉じた。
頭の中に、父の声がよみがえった。
完璧じゃなくても、誰に向けて言っているかが分かっていればいい。
エリックは、喉の奥に引っ掛かる息をゆっくり吐いた。
そして、ほとんど聞こえない声で言った。
「ハレルヤーㇵ」
最初の幸いまで、あと七日だった。




