第9章 触れた手
第八の幸いの日。第三の幸いから五週間。第三の幸いによって、その時点で存在していた病気と病的な身体異常がすべて取り除かれても、人間の生活は続き、新しい傷や病気は生じていた。
診療棟の一室で、二十歳のサミュエルは天井を見ていた。二週間前の交通事故で片脚と頸椎を損傷し、救急医療と手術に命を救われたが、まだ長い固定が必要だった。
「第八が始まったら、治るんでしょうか」
サミュエルが医師に聞いた。
「私に聞かないでくれ」
「先生ですよ」
「だから、分からないことを分からないと言っている」
サミュエルは少し笑った。
「エリックみたいですね」
「最近、その比較をされる医師が増えている」
治療は順調だった。順調だからこそ、回復には時間が必要だった。
◇ ◇ ◇
開始時刻の三十分前。
サミュエルは車椅子で、診療棟の広い処置室へ移された。医師が二人。看護師が三人。家族。地域の神の民数人。そしてエリック。
エリックは部屋へ入るなり言った。
「僕を呼ぶ必要、ありました?」
サミュエルの母親が答えた。
「あなたが最初に説明を受けたでしょう」
「説明を受けたことと、僕にできることがあるのは別です」
「分かっています」
母親は落ち着いていた。
「でも、あの子が、あなたに来てほしいと言ったんです」
サミュエルが手を上げた。
「僕です」
「見れば分かる」
「もし何も起きなくても、怒りません」
「それ、先に言われると余計に緊張するんだけど」
開始十五分前。
医師はエリックにも確認した。
「第八について、分かっていることをもう一度」
エリックは天使から知らされた内容を答えた。
「第三の幸いの後に、新しく生じた病気やけがを癒やす賜物です。神の民の中で、それを正しく用いる人に与えられる」
「あなたに与えられるとは?」
「言われていません」
「触れる必要は?」
「分かりません。接触そのものが条件とは告げられていません」
「死んだ人は?」
エリックは首を振った。
「第八では戻りません」
部屋が少し静かになった。
死は、まだ残っている。
その事実だけは、どの幸いが来ても重かった。
◇ ◇ ◇
開始一分前。
サミュエルの母親が息子の手を握った。エリックは少し離れて立っていた。自分に何かが起きる感じはない。第五の幸いの時もそうだった。第七の時も、誰が権威を与えられるかは人間には分からなかった。
残り十秒。
エリックは祈った。
自分に力をください、とは言わなかった。
サミュエルを助けてください。
それだけだった。
時刻になった。
何も光らなかった。
サミュエルが言った。
「何か感じます?」
「何も」
「僕もです」
「実況しなくていい」
「緊張するので」
二十秒。
三十秒。
エリックは、サミュエルのそばへ行った。
「触れてもいい?」
「もちろん」
固定されていない方の肩へ、手を置いた。
特別な言葉は思い浮かばなかった。
「治ってください」
言ってから、自分でもひどく普通の言葉だと思った。
だが、その瞬間だった。
サミュエルが息を止めた。
「待って」
医師が身を乗り出した。
「どうした?」
「脚が……」
「痛む?」
「逆です」
サミュエルは目を大きくした。
「痛くない」
事故以来、鎮痛薬を使っていても残っていた鈍い痛みが消えていた。次に、首を固定していた装具の中で違和感が消えた。
「首も」
「動かさないで」
医師がすぐ止めた。
その場で装具を外したり、立たせたりはしなかった。まず検査した。脚の画像。
一人の医師が画面を見て、何も言わなくなった。もう一人が画像の患者番号を確認した。
「これ、今撮ったものですね」
「そうです」
事故で複雑に折れていた骨は、正常な位置にあった。単に固定がうまくいっているのではない。骨折線そのものが見えなかった。手術で入れた固定材料だけが、治った骨の周囲に残っていた。
「頸椎も撮る」
画像が表示された。損傷していた部分に、異常は見つからなかった。医師は事故直後の画像と並べた。同じ人間。
同じ骨格。同じ二十歳の身体。ただ、壊れていたところだけが正常になっている。
サミュエルが言った。
「立っていいですか」
「まだです」
「治ってるんですよね」
「だから確認してるんだ」
「先生、慎重ですね」
「私の仕事だ」
さらに感覚、筋力、反射、血流も調べた。異常はなかった。
最後に医師が言った。
「立ってみよう」
サミュエルはベッドの縁に座った。二週間ぶりに、両足を床へ置いた。ゆっくり立った。
母親が泣いた。
サミュエルは二歩歩いた。
三歩目で止まった。
「どうした?」
エリックが聞いた。
「足が……」
医師の顔が変わった。
「痛むのか?」
サミュエルは首を振って笑った。
「違います。疲れただけです。二週間、ほとんど寝たきりだったので」
医師が深く息を吐いた。
「そういう冗談は今やめろ」
処置室に笑いが起きた。
◇ ◇ ◇
映像は公開しなかった。少なくとも、最初の一時間は。事故時から治癒後までの記録と画像を医師たちが照合し、別の病院にも確認を求めた。
「医学的に治癒した、という言葉でいいんですか」
記者が尋ねた。
担当医は答えた。
「結果だけなら、治癒しています」
「説明は?」
「ありません」
「奇跡と認めますか」
医師は少し考えた。
「開始時刻直前の画像では、この骨折は残っていました。それが今は治っている。それだけを確認します」
「エリック・ウィルソンが治した?」
エリックが横から言った。
「違います」
「あなたが触れた直後です」
「だからといって、僕の力にはなりません」
サミュエルが後ろから言った。
「でも、触ったのはエリックです」
「君まで、僕が治したみたいに言うのか」
「治った側としては、事実を言っただけです」
エリックは笑って何か返そうとして、最初の音につかえた。
その瞬間、あの聖句が戻ってきた。
「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。……力は弱さの中でこそ十分に発揮される」――コリント第二 12章7,9節。
そしてヤコブ。天使と組み打ちし、祝福を受けた後も、足を引きずって歩いた。
神に用いられることと、すべての弱さを取り去られることは、同じではない。
ヤコブには、足を引きずる歩みが残った。パウロには、とげが残った。
そして自分には――言葉が残った。
目の前では、歩けなかった青年が立っていた。
力は、自分のものではない。
◇ ◇ ◇
エリックだけではなかった。一時間以内に、世界各地から治癒の報告が届いた。骨折、肺炎、頭部外傷、急性疾患。
賜物を与えられた人に、肩書や年齢の共通点はなかった。九十六人である必要もなく、バプテスマを受けた神の民全員に与えられたわけでもない。
誰に与えられるかを、人間側で選ぶことはできなかった。
接触せず、遠く離れた傷病者のために祈った時に癒やされた例もあり、触れること自体が仕組みではないことも分かった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方には、世界中から要請が殺到した。癒やしの賜物を持つ人を派遣してほしい。患者を神の民の施設へ移したい。費用を払う。寄付をする。専属契約を結びたい。
九十六人は、すぐ声明を出した。
第八は、世界の医療制度に代わるものではない。救急車を呼び、医師へ行き、必要な薬や手術を受ける。第八があるからこそ、人間にできる治療を軽く扱わない。サミュエル自身が、その理由だった。第八の日まで、医療が彼の命を守った。
記者が尋ねた。
「敬意をもって頼めば? 寄付は?」
エリックは首を振った。
「それで癒やされる権利が生じるわけではありません」
「では、誰が恩恵を受けるんです?」
エリックは少し考えた。
「第八は、第三と目的が違います。第三は信仰や所属を問わず、人類全体に王国が身体について何を行うかを示しました。第八は主として、その後の神の民の歩みを支えるためのものです」
「神の民だけ?」
「そう単純でもありません」
神の民と共に住宅を造り、食料を運び、地域の生活を支える人々には、バプテスマを受けていない人もいた。すでに、その人たちが第八の恩恵を受けた例もあった。
「でも、神の民と一緒に働いているから対象になる、という単純な話でもありません。仕事の契約で決まるわけでもないし、僕たちが誰を対象にするか決めているわけでもない」
その夜、家族と食事をしていると、マイクがエリックの右手をじっと見ていた。
「その手でサミュエルを治したの?」
「この手で触った。でも、父さんが治したんじゃない」
ジーンが手を取って裏返した。
「普通の手だね」
「普通の手だよ」
ソフィアが皿を差し出した。
「では、その普通の手でこれを運んで」
エリックは黙って受け取った。
◇ ◇ ◇
その言葉の意味は、翌日さらにはっきりした。
新拠点の建設現場で、神の民ではない五十代の土木技師が事故に遭った。第四の警告は、その事故について誰にも与えられなかった。倒れた資材に脚を挟まれた。彼は第四の幸いの直後から現場で働き、神の民が何を信じているのか学んでいたが、まだバプテスマを受ける決心には至っていなかった。事故の直後、そばにいた神の民の女性が彼の肩へ触れた。
負傷は治った。
「彼は神の民ではありません」
報告を受けたエリックが言った。
現場責任者は答えた。
「でも、ずっと私たちと働いています」
同じ日、別の場所では、神の民の施設を見学に来ていた家族の幼い子供が道路事故に巻き込まれた。
家族は神の民ではなかった。共同作業に参加していたわけでもない。近くにいた、癒やしの賜物を持つ女性が駆け寄った。
この子は対象外かもしれない。
そんなことを考えて立ち止まる理由はなかった。
助けようとした。触れた。傷は閉じた。
第八の境界も、ほどなく見えてきた。若返りではない。年齢や個人差は残り、健康を損なう病的な状態だけが回復した。疲労や睡眠の必要も残った。
もう一つ、すぐに明確になった境界があった。
死者は戻らなかった。
心停止直後で、医学的な蘇生が可能な状態にある人については、救命処置とともに回復した例があった。
だが、死が確定した人に第八を用いても、何も起こらなかった。
ある地域で、亡くなった父親の身体に触れてほしいと家族が頼んだ。
賜物を持つ男性は、断ることができなかった。
祈り、触れた。
何も起こらなかった。
家族は泣いた。
男性も泣いた。
第八の幸いは、死をなくしてはいなかった。
その境界だけは、残酷なほど明確だった。
エリックは報告を読んだ時、父ジョシュアを思った。
もし今、父の墓へ行って触れても。
何も起きない。
まだ、その時ではない。
第十について天使が答えなかった理由が、以前より重く感じられた。
その夜、エリックが家族の部屋へ戻ると、ソフィアはまだ起きていた。
「お父さんのこと?」
エリックは足を止めた。
「顔に出てる?」
「少し」
彼はベッド脇の椅子に座った。
「第八で死者まで戻せたらって、一瞬、考えた」
ソフィアはしばらく黙ってから、うなずいた。
「私も」
隣ではマイクとジーンが眠っていた。
「でも、戻らない」
「うん」
少しして、ソフィアが言った。
「お父さんが生き返ったら、最初に何て言うでしょうね」
エリックは小さく笑った。
「それは聞かなくても分かる」




