第8章 見えない支配からの解放
第七の幸いまで、あと二日。
ルシア・メンドーサは、三晩ほとんど眠っていなかった。
四十二歳。
南米で長く霊媒として活動していた。
彼女自身の説明では、その仕事の大部分は超自然的なものではなかった。
相手の表情を見る。
言葉を選ぶ。
曖昧な質問を重ねる。
相手が自分から話した情報を、後から言い当てたように返す。
それで成立する相談も多かった。
だが、すべてではなかった。
知らないはずの名前。
誰にも話していない出来事。
閉じた部屋でしか語られなかった言葉。
そうした情報を、声が教えるようになった。
最初、ルシアはそれを能力だと思った。
次に、助けだと思った。
最後には、やめたくてもやめられなくなった。
声は相談者がいない時にも話した。
眠ろうとすると起こした。
従わなければ家族に害が及ぶと言った。
第二の幸いで、彼女の脳の働きは正常になった。
第三の幸いで、身体の病気もなくなった。
医師たちは、神経疾患、薬物、睡眠障害など、考えられる原因を改めて調べた。
それでも声は残った。
第六の幸いで、水も空気も清められた。
それでも残った。
「今夜は眠らせない、と言っています」
ルシアは画面越しに言った。
目の下に濃い影があった。
エリックは尋ねた。
「今も聞こえますか」
「はい」
「何と?」
ルシアはしばらく黙った。
「あなたは、五十四人を救えなかった、と」
エリックの背中が固まった。
レーニア山。
四十三人の死亡。
十一人の行方不明。
「それから、お父さんのことを言っています」
「何を」
「あなたが最後に言ったことを、今でも後悔している、と」
それ以上聞く必要はなかった。
胸の奥にしまっていた言葉だった。
エリックは椅子から立った。
「やめろ」
自分でも誰へ言ったのか分からなかった。
ルシアの顔が変わった。
彼女自身の表情ではなかった。
口元だけが笑った。
低い声が、端末のスピーカーから聞こえた。
「おまえには、まだできない」
エリックは息を止めた。
「彼女を苦しめるな。出て行け」
笑い声。
「まだ、その時ではない」
通信が切れた。
エリックは立ったまま動けなかった。
第四の警告。
第五の実る手。
第六の地の回復。
どれも、自分の意思で好きな時に使える力ではなかった。
今、もう一度同じことを教えられた。
第七も、自分の力ではない。
◇ ◇ ◇
その日の九十五人との集会では、ルシアの件だけでなく、世界中から集まった類似例が検討された。
最初に確認したのは、何をしてはいけないかだった。
奇妙な声が聞こえるからといって、悪霊と決めつけない。
精神疾患を悪霊扱いしない。
神経疾患を悪霊扱いしない。
薬物作用を悪霊扱いしない。
睡眠不足による症状を悪霊扱いしない。
可能な医療上の確認は続ける。
人を殴らない。
縛らない。
食事を断たない。
恐怖を与えて追い出そうとしない。
金を取らない。
見世物にしない。
特別な道具も、決まった呪文も、秘密の儀式も作らない。
ノーラが言った。
「もし実際に悪霊が関係していなければ?」
エリックは、天使から知らされた内容を読み返した。
「何も起きないはずです」
「つまり、人間側が診断して成立させる力ではない」
「そう理解しています」
「本人が拒否したら?」
そこで議論が止まった。
ルシアのように、本人が苦しみ、助けを求めている場合は難しくない。
だが、本人が悪霊からの声を能力だと信じている場合はどうするのか。
エリックは使徒パウロについての記録を開いた。
占いの霊に取りつかれた奴隷の少女。
パウロが霊を追い出した後、少女を利用して利益を得ていた主人たちは、自分たちの稼ぎが失われたことに怒った。
「本人の苦しみを止める必要があると、その場で明らかに判断できるなら、権利を主張されることを恐れて何もしない、ということでもないと思います」
「では、誰でも勝手に?」
「それも違います」
第七の権威は、神の民であるという名札を持てば自動的に使えるものではない。
神の民の中で、その権威を正しく用いる者に与えられる。
誰に与えられるかを、九十六人が認定することもできない。
「天使は『神の民の中で』と言いました」
エリックは言った。
「僕たちは、バプテスマによって神の民の一員になっている人たちの中から、という意味だと理解しています。でも、バプテスマを受けた人全員が同じ賜物を持つ、という意味ではありません」
◇ ◇ ◇
同じ日の午後、エリックは施設の診療棟へ行った。
二十歳のサミュエルが入院していた。
第六の幸いが始まった日、大きな交通事故に遭った。
第四の幸いが始まっていても、事故そのものが世界から消えたわけではない。
警告によって防がれた事故は多かったが、神がすべての危険を必ず知らせると約束されたわけでもなかった。
サミュエルは一命を取り留めた。
通常の救急医療のおかげだった。
だが、片脚は複雑な骨折を負っていた。
首の頚椎も損傷していた。
手術は終わっていた。
長い固定とリハビリが必要になる。
後遺症が残る可能性もある。
「痛い?」
エリックが尋ねた。
「薬が効いてる時は、まあ」
「効いてない時は?」
「聞かないでください」
サミュエルは笑おうとして、顔をしかめた。
第三の幸いなら、事故の前に終わっている。
第七は悪霊に関する幸いだ。
だから今は、医師が治療するしかない。
エリックはそれを不満には思わなかった。
人間の医療が彼の命を守った。
ただ、天使が告げた第八の幸いを思い出した。
その時は、まだ口にしなかった。
◇ ◇ ◇
第七の幸いが始まる一時間前。
ルシアの部屋には、医師と看護師のほかに二人の女性がいた。
一人は七十三歳。
長く聖書を教えてきた女性。
もう一人は二十八歳。
学校の食堂で働いていた。
二人ともバプテスマを受けた神の民だった。
九十六人ではない。
責任者でもない。
ルシアが、一人にしないでほしいと頼んだため、交代でそばにいた人たちだった。
開始十分前。
ルシアは耳を塞いだ。
「うるさい」
「何と言っていますか」
「今日が終わる前に、私を殺すって」
七十三歳の女性が答えた。
「あなたを一人にはしません」
「あなたたちには何もできないって」
「それは半分正しいですね」
ルシアが顔を上げた。
「え?」
「私たち自身には、何もできません」
開始時刻になった。
光はなかった。
天使も現れなかった。
数秒後、二十八歳の女性がルシアを見た。
後に本人は、声を聞いたわけではないと説明した。
ただ、今言うべきだと分かった。
彼女は立った。
「ルシアを苦しめている者へ言います。もう彼女を支配することはできません。出て行きなさい」
ルシアの身体が硬くなった。
口から声が出た。
「おまえに、そんな力はない」
女性は答えた。
「ありません」
一瞬、部屋が静かになった。
「私はただの人間です。でも、私が頼る方にはあります」
ルシアが大きく息を吸った。
肩から力が抜けた。
十秒。
二十秒。
彼女は耳を押さえていた手を下ろした。
「聞こえない」
誰も動かなかった。
「何も……聞こえない」
涙が出た。
「静かです」
それが、第七の幸いについて世界へ最初に広く伝えられた証言になった。
声ではなかった。
沈黙だった。
◇ ◇ ◇
ほぼ同時に、世界各地で同じ種類の報告が始まった。
長年霊媒として活動していた人。
亡くなった家族を名乗る声に支配されていた人。
祈ろうとすると激しい威圧を受けていた人。
自分の意思に反して言葉を発していた人。
神の民の誰かが権威を用いる。
実際に悪霊が関係していれば、干渉は止まった。
関係していなければ、何も起きなかった。
そのため、第七の幸いは精神医学を不要にしなかった。
むしろ区別を明確にした。
病気なら、医療で扱う。
悪霊なら、第七の権威が働く。
どちらか分からない時に、人間が勝手に断定する必要はなかった。
また、癒やされたのは過去の記憶ではない。
何年も恐怖の中で暮らした人には、恐怖の記憶が残った。
家族関係が壊れていれば、話し合いが必要だった。
生活を失っていれば、立て直す時間が必要だった。
悪霊が去ったからといって、それまでの人生まで書き換えられたわけではない。
解放は、回復の始まりだった。
◇ ◇ ◇
問題は、すぐに別の場所で起きた。
一部の霊媒団体は、第七の幸いを宗教迫害だと非難した。
相談者の前で声が出なくなった。
予言ができなくなった。
霊的存在から情報を受けていた者が、その情報を失った。
収入も失った。
特に反発したのは、本人より周囲の者たちだった。
管理者。
資金提供者。
相談業を運営する会社。
本人が「静かになった」と喜んでいるのに、周囲が「能力を奪われた」と抗議する例まであった。
エリックは配信で言った。
「人を苦しめ、本人の意思を支配していたものを止めることを、私たちは権利侵害とは呼びません」
記者が尋ねた。
「本人が追い出してほしくないと言った場合は?」
「その人が自由に選んでいることと、支配されて選ばされていることを、人間が簡単に見分けられるとは思いません」
「ではどうする?」
「その場で苦しみが明らかで、助ける必要があると判断するなら、助けます。ただし、暴力や拘束で従わせることはしません」
「訴えられたら?」
エリックは少し黙った。
「それは、その後に向き合います」
◇ ◇ ◇
第七の幸いから二日目。
神の民の内部でも、別の危険が見え始めた。
賜物を持つことを、地位だと思う人が現れた。
自分の配信チャンネルで解放の場面を中継しようとする者。
自分だけが特別に強いと語る者。
九十六人は、すぐに注意を出した。
力を使えることは、その人が他の神の民より忠実だという証明ではない。
また、力を自分の所有物のように扱えば、与えられた役割そのものを失い得る。
エリックはモーセについて話した。
岩から水が出た時、モーセは自分とアロンを前に出すような言い方をした。
神の力を、自分たちの力であるかのように扱うことは小さな問題ではなかった。
「少しでも誇らしい気持ちになったら、すぐ力が消えるという意味ではありません」
エリックは言った。
「僕たちは不完全です。でも、“私がやった”“私に従えばできる”と、神から与えられたものを自分の権威へ変え始めるなら、それは別です」
第七の幸いは、悪霊を支配するために人間へ権力を与えたのではない。
人を支配から自由にするためのものだった。
◇ ◇ ◇
同じころ、第四の幸いも働き続けていた。
神の民に敵対する複数の霊媒団体や資金提供者の間で、連絡が急増した。
第七によって、彼らが利用してきたものの一部が使えなくなった。
そこで、人間の手段へ切り替える者がいた。
ノースカロライナの施設へ、コール・ハリスという三十八歳の男が作業員として入った。
農業機械の修理経験があり、申請した技能そのものは本物だった。
目的だけが違った。
夜間、彼は家族宿泊棟の非常口と警備位置を確認しようとした。
エリックを混乱の中で施設外へ誘い出し、連れ去る計画の一部だった。
だが、その夜。
家族宿泊棟の警備担当者に、第四の警告が与えられた。
二階のサービス通路。
今すぐ確認する。
理由は分からなかった。
彼女は応援を呼び、一人では行かなかった。
廊下では、寝間着姿のジーンがコールと話していた。
「その子から離れてください」
警備員が言った。
コールは逃げようとしたが、非常口を出たところで取り押さえられた。
仮宿泊棟からは、発火に使うための器具と家族宿泊棟の見取り図が見つかった。
第四の幸いは、彼が何を考えているかを教えなかった。
警備員に必要な行動だけを知らせた。
残りは警察が調べた。
◇ ◇ ◇
エリックがジーンを抱きしめた時、最初に出たのは安堵ではなく怒鳴り声だった。
「一人で部屋を出たら駄目だって言っただろ!」
ジーンの身体が縮こまった。
ソフィアが言った。
「エリック。ジーンを見て」
息子の目に涙が浮かんでいた。
エリックは声を落とした。
「ごめん。怒ってるんじゃない。怖かったんだ」
「同じに聞こえた」
「そうだな」
反論できなかった。
少しして、ジーンが尋ねた。
「僕、悪かった?」
エリックは考えた。
「一人で出たのは、よくなかった。変だと思った人に近づくのも危ない」
「うん」
「でも、変だと思ったことをちゃんと言ったのは正しい」
「次は?」
「近づかない。部屋へ戻るか、安全なところから警備の人を呼ぶ」
「パパは?」
「パパも呼んでくれ。安全なところから」
ジーンは少し考えた。
「警備の人が先?」
「できれば」
「なんで?」
「警備の人は、こういう時の訓練を受けてる。父さんは受けてない」
ジーンが少し笑った。
ソフィアが横から言った。
「そこはもう少し、頼れる父親らしい答えがないの?」
「安全な場所から呼んでくれれば、全力で頼られる」
「全力で警備の人にも頼るのね」
ジーンがもう一度笑った。
エリックは息子を抱いた。
第四の幸いがあっても、警備は必要だった。
第七の幸いがあっても、人間の悪意が消えたわけではなかった。
幸いは、人間が何もしなくてよくなるためのものではない。
◇ ◇ ◇
第七の幸いから五日目。
エリックは出エジプト記を読み返していた。
第三の災厄。
最初の二つの災厄では、エジプトの魔術師たちも似た現象を見せた。
だが、ぶよを生じさせようとした時、彼らにはできなかった。
そこで初めて、彼ら自身が神の力を認めざるを得なくなった。
今度の幸いは、ぶよと悪霊が似ているという話ではない。
もっと根本のところが反転していた。
神に対抗するかのように見えていた超自然的な力には、越えられない境界がある。
第七では、その境界が人の目の前で明らかになった。
ルシアから短いメッセージが届いた。
昨夜、八時間眠れました。
それだけだった。
エリックは読み返した。
八時間。
どんな予言より、その数字の方が第七の幸いをよく表している気がした。
その時、診療棟から別の連絡が入った。
サミュエルの状態は安定している。
だが、脚の固定は続いていた。
頚椎の回復にも時間が必要だった。
第八の幸いまで、あと二日。




