第8話: 早馬
手放したものの値打ちは、手放した本人がいちばん遅れて気づく。
いえ。気づかないまま終わってしまう人も、世の中にはいるのだけれど。
その朝のセレナは、まだ海の向こうでそれが始まっていることを知らなかった。
カルディアの朝は、エルデンより少しだけ潮の匂いがする。
調薬室の窓を開けると、海風がやわらかく薬草の棚を撫でていった。棚の上ではコハクが大あくびをして、丸くなり直す。
セレナは煎じかけの鍋をことことと火にかけながら、ひとりごちた。
「さて。お返事を、どういたしましょうね」
政略結婚の打診。相手は、あのジェラルド本人だ。あの公館で、めずらしく視線を逸らしながら、そう告げられた。
ぶっきらぼうな、隣国の使者。
ただ、ひとつだけ引っかかっていることがある。ただの使者にすぎないあの方が、どうして人に「身分を与える」などという話を持ってこられるのか。そこだけは、いまも分からないままだ。けれど、急いで詮索することもないだろう。
昨夜の言葉が、まだ胸に残っている。
お前に身分をくれてやりたいんじゃない。お前の手でやりたいことを、やれるようにしてやりたいんだ。
ずるい方だと思う。
あんなふうに言われたら、身構えていた心が、すっとほどけてしまうではないか。
「セレナ様。また鍋に話しかけてるんですか」
戸口から、リタが蜂蜜のパンを抱えて入ってきた。
「鍋はお返事をくれませんよ」
「あら。鍋は黙って聞いてくれますもの。どこかの賑やかな娘さんと違って」
「あたしのことですか!?」
セレナはふふっと笑い、匙で薬湯をひと混ぜした。
そこへ、もうひとり。
「やあやあ、いい匂いだ。今日も朝から薬くさいねえ、この部屋は」
軽い足取りで入ってきたのは、テオだった。相変わらず、顔だけは無駄に整っている。
「テオさん。薬くさいんじゃなくて、薬草のいい匂いです」
「リタちゃんは手厳しいなあ。ねえセレナさん、この子もうちょっと優しくならない?」
「テオさんがもうちょっと働けば、リタも優しくなりますわよ」
「うわ、こっちもか」
棚の上で、コハクが不満げに鼻を鳴らした。話し声で昼寝を邪魔されたらしい。
ささやかな、けれど温かい朝だった。
エルデンの王宮では、決して味わえなかった種類の。
セレナは棚から空の薬包をひとつ手に取り、しばらく眺めた。
「ねえ、リタ。わたくし、決めましたの」
「なにをですか?」
「お返事を。……あの政略のお話、お受けしようかと思っていますの」
リタが目を丸くした。
「え! い、いいんですか? だってセレナ様、ずっと迷ってたじゃ」
「迷っていましたわ。また誰かの庇護に収まるのかと思うと、ね」
セレナは薬包をそっと棚に戻した。
「でも、あの方はわたくしを"しまっておく"つもりはないみたいですの。むしろ、わたくしが自分の足で立てるように、足場をくれようとしている。……だったらそれは庇護ではなくて、手を組むということでしょう?」
「手を、組む」
「ええ。わたくしの腕と、あの方の立場で。悪くないお取引だと思いません?」
リタが、ぷっと吹き出した。
「セレナ様、それ、求婚のお返事じゃなくて商談みたいです」
「あら。わたくしにとっては、似たようなものですもの」
テオがやれやれと肩をすくめた。
「色気のない令嬢だなあ。ま、それがセレナさんらしいけど」
窓の外で、海鳥が鳴いた。
その声に混じって、遠くから馬の蹄の音が聞こえた気がした。
けれど、このときのセレナは、まだ気に留めなかった。
同じころ。海を隔てたエルデンの王宮では。
宰相ヴァルター・ゲーレンが、王太子の寝室の扉を後ろ手にそっと閉めた。
扉の向こうからは、荒い息づかいがまだ漏れ聞こえている。
ひと月だ、とヴァルターは思った。
あの薬師が消えて、まだ、ひと月。それだけで、王太子はもう自分の足で寝台を降りられなくなっていた。
医師たちは、口を揃えて「原因がわからぬ」と言う。
当たり前だ、と老宰相は胸の内で吐き捨てた。
これは、医術の病ではない。
王家の血を引く者が生まれながらに背負った、決して表沙汰にしてはならぬ事情。それを、長い年月たったひとりで御していたのが、あの追放された小娘だったとは。
誰も気づかぬうちに。あの薬師は、王家のもっとも深い秘密のちょうど真ん中に立っていた。
ヴァルターは奥歯を噛んだ。
追放など、させるべきではなかった。あの婚約破棄を止められたのは、自分だけだったのに。
だが、もう遅い。
彼は机に向かい、短い文をしたためた。封蝋を落とし、家紋の印を押す。書いたのはただ一行。
原因不明の御不例につき、かの薬師を至急返されたし――。
病の正体は、書かなかった。書けるはずもない。
「早馬を」
控えの者に、低く命じる。
「隣国カルディアへ。……あの薬師を、何としても連れ戻せ」
使者が、夜の闇へ駆けていった。
蹄の音が石畳に高く響いて、やがて潮騒の向こうへ消えていった。
それから、数日後。
ジェラルドが調薬室を訪れたのは、よく晴れた昼下がりのことだった。
めずらしく、その顔がいつになく硬い。
「セレナ。エルデンから、正式な使者が来た」
セレナの手が薬研の上で止まった。
「あら。ずいぶんと遠くから、わざわざ」
「お前を、返せと言っている」
しん、と調薬室が静まった。
火にかけた鍋が、ことこと、と小さな音を立てている。
「王太子が、床に伏したそうだ。原因のわからぬ衰弱で、もう自分では起き上がれぬと。国じゅうの薬師を集めても、誰ひとり手の打ちようがない。……だから、お前を呼び戻せと」
セレナはしばらく黙っていた。
それから、ふっと口元をほころばせた。
「まあ」
明るい、けれど、どこか遠くを見るような声だった。
「ひと月、もちませんでしたのね。……存じておりましたわ」
ジェラルドが眉を寄せる。
「知っていたのか」
「ええ。あの方がわたくしを追い出したあの日、申し上げたんですの。"明日の朝は、ご自分でお淹れになって"と」
セレナは薬研の柄をそっと撫でた。
「七年、毎朝お淹れしていれば、嫌でもわかります。あの一服が途絶えれば、あの方はひと月ともたない、と」
「お前は、それを黙って出てきたのか」
「だって、殿下がおっしゃったんですもの。薬なんて、誰が淹れても同じだ、と」
セレナはいたずらっぽく首をかしげてみせた。
「同じだとおっしゃる方に、"いいえ違います"と食い下がるのは野暮でしょう? ご自分でお淹れになれば、いずれおわかりになることですし」
ジェラルドが、呆れたように、けれど少しおかしそうに息をついた。
「……たちが悪いな、お前」
「あら。捨てたものの値打ちを、捨てたご本人にじっくり味わっていただくだけですわ」
セレナはことさら涼しい顔をしてみせた。
胸の奥で、しゃくな気持ちがほんの少しだけ疼く。
けれど、それはもう湿った悲しみではない。からりと乾いた、ちょっとした意趣返しの心地よさだ。
あの大広間で、自分は泣かなかった。喚きもしなかった。ただにっこり笑って、予言を置いて去った。
その予言がいま、海の向こうで当たっている。
それだけで、十分だった。
ジェラルドがまっすぐにセレナを見た。
「で。お前は、どうしたい」
「どう、とは?」
「戻るのか。エルデンに」
セレナは薬研の柄から手を離した。
戻れば、どうなるかは目に見えている。
また、あの薄暗い調薬室で、名もなく毎朝の一服を淹れる日々。王太子の"普通"を陰から支える見えない歯車に戻るだけ。淹れているのが「セレナ」だと、誰ひとり気に留めない日々に。
いいえ。
セレナは顔を上げた。
「戻りませんわ」
きっぱりと、けれど、声を荒げることもなく。
「わたくし、もう"誰かの薬係"はやめましたの」
窓から差す光が、棚の薬草を金色に縁取っている。
「これからは、わたくしの名前で淹れますわ。誰かの陰でこっそりとではなく。……『セレナ』という薬師の、薬として」
ジェラルドは、しばらくセレナを見つめていた。
それから、ふっと口の端を上げた。
「いい返事だ」
「あら。それ、政略のお返事も兼ねておりますのよ。お聞き逃しなく」
「……は?」
「あなたと手を組むと、申し上げましたの」
ジェラルドが、めずらしく言葉に詰まった。
その耳が、ほんの少しだけ赤い。
まあ、とセレナは胸の内で思う。可愛いところも、おありなのね。
けれど、それを顔に出すのも癪なので、見なかったふりをして薬研に向き直った。頬がまた熱くなりそうだったので、なおさらせっせと薬草を刻むことにする。
「では、エルデンへの返答は」
ジェラルドが、こほん、と咳払いをして、いつもの調子を取り戻した。
「丁重にお断りする。……それでいいな」
「ええ。お願いいたしますわ」
けれど、とセレナは刻む手をふと止めた。
ひとつだけ、心に引っかかっていることがある。
原因のわからぬ衰弱。国じゅうの薬師が、誰ひとり手を打てない。
あれは本当に、ただ「わたくしの一服が途絶えた」だけのことだろうか。
七年、毎朝あの方の脈を診てきて、薄々感じていたことがある。
あの方の脈は、朝いちばん、ふつうの人より一拍ぶんだけ深く沈んでいた。あの一服を含む前と、含んだ後とで、決まってそれが変わったのだ。
だからきっと、あれはただの滋養の薬ではなかった。王家の方々の体には、どこか、ふつうとはちがう仕組みがある。……そんな気が、ずっとしていた。
もしそうなら。
わたくしが戻らなければ、あの方は――。
そこまで考えて、セレナは小さく頭を振った。
「……今は、よしましょう」
ぽつりとつぶやき、また薬草に手を伸ばす。
自分の名前で生きると決めたばかりだ。過ぎたことを、いまさら背負い込むつもりはない。
けれど、心の隅で灯ったひとつの問いだけは、ふっと消えてくれなかった。
あの王宮は、いったい、何を隠しているのだろう。
窓の外で、また海鳥が鳴いた。
エルデンへ帰る早馬は、空の答えを抱えたまま来た道を引き返していくのだろう。
その背を見送るように、セレナは窓辺で大きく伸びをした。
さて。次は、どんな薬をつくりましょうか。……わたくしの名前で。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。相川ことねです。
第八話「早馬」、いかがでしたか。これにて、第一アーク「捨てられた一服」の結びとなります。
第一話でセレナは、去り際に「ひと月もたない」と予言を置いていきました。あの予言が、ここで的中します。捨てた側が、ひと月もたずに「薬師を返せ」と早馬を寄越してくる――この皮肉を、セレナは泣くでも怒るでもなく、からりと笑って受け止めます。彼女のそういうところを、わたしはとても気に入っています。
そして彼女は、戻りませんでした。「わたくし、もう誰かの薬係はやめましたの」。この一言を、いつか彼女に言わせたくて、ここまで書いてきたようなものです。
けれど物語は、これで終わりではありません。セレナがふと気づいてしまった、王家の「ふつうでないところ」。あの一服は、本当に、ただの滋養の薬だったのか。第二アークから、その秘密が少しずつ姿を現します。
宰相ヴァルターが何を隠しているのか。ジェラルドの正体は。そして、セレナ自身の薬師としての戦いは。どうぞ、続けてお付き合いくださいませ。
☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、次のアークを書く励みになります。




