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第9話: 戻らない

 その朝、カルディアの公館に、海を渡ってきた客人がいた。


 エルデンから来た、正式な特使だという。名をベルガー卿といった。仕立てのよい上着に、磨き上げた靴。エルデンの宮廷の匂いを、そっくり持ち込んだような人だった。


 用件は、ひとつきり。セレナを、エルデンへ返せ。


 追い出しておいて、今度は返せという。それも、追い出したときよりずっと堂々と。


 セレナの隣では、ジェラルドが腕を組んで立っている。相変わらず、口数は少ない。


「セレナ・フェアミル殿」


 ベルガー卿は、ひとつ大きく咳払いをした。


「殿下におかれては寛大にも、そなたの帰参をお許しになる。あの婚約破棄は若さゆえの行き違いということでな。宮廷薬師の席も元のとおりに戻してやろうと、こう仰せだ」


 セレナは、ことりと茶杯を置いた。


「まあ。それは、ご丁寧に」


 胸の奥で、ちりっと小さく焦げるものがある。許す、ですって。捨てたのは、そちらなのに。


 けれど、顔には出さない。出したら、相手の思うつぼだ。


「ひとつ、伺ってもよろしいかしら」


「なんなりと」


「殿下は、たしかこうおっしゃいましたの。薬なんて、誰が淹れても同じだ、と」


 ベルガー卿の眉が、わずかに動いた。


「でしたら、わたくしでなくても、よろしいのではなくて? どこの薬師でも、同じはずですもの」


「それは、その」


「それとも、同じではなかった、と。……いまになって、お気づきになったのかしら」


 ベルガー卿は、答えに詰まった。額に、うっすらと汗がにじんでいる。


「……正直に申し上げよう」


 卿は声をひとつ落とした。


「聖女ミレーヌ様の御祈りをもってしても、殿下の御容態は、日に日に悪くなるばかりなのだ。あの方の奇跡は、たしかに人の心を打つ。だが、殿下のお体は、いっこうに」


 やはり、とセレナは胸の内で思う。


 祈りで人の心は慰められても、弱った体までは治せない。当たり前のことだ。それを思い知るのに、エルデンは半月あまりを費やしてしまったらしい。


 セレナには、もう察しがついていた。


 海を渡って正式な特使まで立てるなど、よほどのことだ。王太子の容態は、早馬のときより、さらに悪い。国じゅうの薬師を集めても、誰ひとり手が打てずにいる。だから、こうして頭を下げに来た。「許す」という言葉で、体裁だけ取り繕って。


 気の毒だとは思う。けれど、それと戻ることは別のお話だ。


「ベルガー卿。せっかく海を渡っていらしたのに、申し訳ないのですけれど」


 セレナは、まっすぐに卿を見た。


「わたくし、戻りませんわ」


「な……っ。そなた、王太子殿下のお召しを断ると言うのか。エルデンの貴族でありながら」


「あら。わたくし、もうエルデンの貴族ではございませんもの。追放された身ですわ。そうなさったのは、そちらでしょう?」


 ベルガー卿の顔が、見る間に赤くなった。


「これは、国と国の話であるぞ。一介の薬師の好き嫌いで――」


「特使どの」


 そこで、ジェラルドが低く言葉をはさんだ。


「彼女は、いまカルディアの客分だ。戻る戻らないを決めるのは、本人だ。……お引き取り願おう」


 ぶっきらぼうな、けれど有無を言わせぬ一言だった。


 ベルガー卿は何か言い返そうと口を開きかけたが、ジェラルドの静かな目に気おされて飲み込んだ。


「……この返答、殿下にそのまま伝えるぞ。後悔しても知らぬ」


「ええ。どうぞ、そのまま」


 セレナは、にっこりと笑ってみせた。


「『薬なんて、誰が淹れても同じだ』。あの日のお言葉を、そっくりお返ししますわ、と。そうお伝えくださいまし」


 ベルガー卿はぐっと言葉を詰まらせ、足音も荒く部屋を出ていった。




 同じころ、海を隔てたエルデンの王宮で。


 宰相ヴァルター・ゲーレンは、特使を送り出した港の方角を執務室の窓から眺めていた。


 戻りはすまい、と老宰相は思っていた。


 あの娘を追い出したのは、こちらだ。いまさら「許す」と言ったところで、誇りある者ほど首を縦には振らない。よその国がもう手放すまいと囲い込んでいるなら、なおさらだろう。


 特使は、おそらく手ぶらで帰ってくる。


 ヴァルターは、机の上の一枚の古い名簿に目を落とした。宮廷薬師団の名が並んでいる。その中ほどに、いまはもう線で消された名がひとつ――セレナ・フェアミル。


 あの娘の頭の中には、王太子の体の七年分がそっくり収まっている。朝ごとの脈の沈み方も、効いた薬も効かなかった薬も、何もかもだ。それは王家がもっとも深くに隠してきたものへの、いちばん確かな手がかりにほかならない。


 頭を下げて連れ戻すのが、無理ならば。


 ヴァルターは、名簿をそっと閉じた。


「……いま一度、洗い直すか。あの娘が、何を書き残していったかを」


 声は、誰にも届かぬほど低かった。




 カルディアへ戻る馬車の中で、セレナはようやく肩の力を抜いた。


「ふう。お行儀よく断るのって、案外くたびれますのね」


「よく言う」


 手綱を握るジェラルドが、横目でちらりと見た。


「ずいぶん楽しそうだったぞ」


「あら、ばれてました?」


 セレナはふふっと笑った。たしかに、少しだけ胸がすいた。捨てた言葉を、そっくりそのまま持ち主に返せたのだから。


 調薬室に戻ると、ジェラルドが懐から一枚の紙を取り出した。蝋で封じられ、カルディアの印が押されている。


「公王陛下からだ。受け取れ」


「……これは?」


「薬師の鑑札だ。今日から、お前はカルディアで正式に薬を出せる。客分としてな」


 セレナは、そっと封を切った。


 厚みのある上等な紙に、丁寧な字でこう記されていた。


 ――薬師、セレナ。


 それだけだった。けれど、セレナの指はしばらくそこから動かなかった。


 誰かの婚約者でもない。誰かの薬係でもない。フェアミルの娘、という但し書きすらない。


 エルデンで紙に書かれる自分の名は、いつも何かの添え物だった。『王太子付きの薬師係』か、『フェアミル家の娘』か。セレナという名が、それひとつで立っていたことは一度もなかった。


 ただ、薬師セレナ。


 生まれて初めて、自分の名前が自分の仕事と一緒に紙に記されていた。


「……ありがとう、ございます」


 令嬢らしい言い回しが、ふいにほどけた。


 ジェラルドはばつが悪そうに視線を逸らした。


「礼を言う相手は、俺じゃない。お前の腕だ。毒卓でバルト殿を救っただろう。あれを公王が忘れていなかった。それだけだ」


「ふふ。それでも、お礼を申し上げますわ」


 そこへ、リタが蜂蜜の壺を抱えて飛び込んできた。


「セレナ様! 鑑札、いただけたんですか!?」


「ええ。これで、堂々と患者さんを診られますわ」


「やったあ! あたし、お店のみんなに言ってきます! 下町に並んでた人たち、ずっと待ってたんですよ!」


「待って、リタ。まだ薬棚の支度が」


 言い終わらぬうちに、リタはもう戸口の外だった。


 入れ替わりに、のんびりとテオが入ってくる。


「お、なんだか騒がしいねえ。いいことでもあった?」


「テオさん。わたくし、今日からカルディアの薬師ですのよ」


「へえ。そりゃめでたい。……ってことは、これからは薬代をきっちり取るわけだ。俺の肩の湿布も、有料かい?」


「あら。テオさんの分は、働きに応じて割り引いて差し上げますわ。……いまのところ、割り引くほどの働きが見当たりませんけれど」


「手厳しいなあ、ほんと」


 棚の上で、コハクが大きく伸びをしてこちらを見下ろした。鑑札の紙のにおいが珍しいのか、ひくひくと鼻を動かしている。


「コハク。これはお薬じゃありませんのよ。食べてはだめ」


 コハクは、つまらなそうに鼻を鳴らして、また丸くなった。


 温かい、明るい昼だった。


 セレナは鑑札をそっと薬棚の見えるところに立てかけ、その前で大きく伸びをした。


 放り出されたあの日、自分の名前は誰の口にも上らなかった。淹れていたのが「セレナ」だと、誰ひとり気に留めなかった。


 それが、いま。


 ここでは、ちゃんと名前で呼ばれる。名前で、必要とされる。


 さて。次は、どんなお薬をつくりましょうか――と薬研に手を伸ばす。


 その手が、ふと止まった。


 ベルガー卿の捨て台詞が、耳の奥でよみがえる。後悔しても知らぬ。


 国じゅうの薬師が、誰ひとり手を打てない衰弱。あれは、本当にただ「わたくしがいなくなったせい」だけなのだろうか。


 ……いいえ。考えるのは、よしましょう。


 セレナは小さく首を振り、薬研をことりと鳴らした。


 いまは、目の前に患者がいる。名前で呼んでくれる人が、ちゃんといる。海の向こうの王宮が何を抱えていようと、こちら側で薬研を回すことのほうがよほど大事だ。


 薬棚に立てかけた鑑札が、窓の光をやわらかく弾いている。


 薬師セレナ。


 その名前は、もう誰の陰にも隠れていない。

第九話「戻らない」をお読みいただき、ありがとうございました。相川ことねです。


第二アーク「隣国の毒卓」のはじまりです。第一アークが「捨てられて、立ち直る」お話だったとすれば、ここからは「自分の名前で、世界とやり合っていく」お話になります。


捨てた側が、今度は堂々と「返せ」と言ってくる。しかも「許してやる」という言い方で。セレナがいちばん腹を立てそうなのは、こういう種類の厚かましさだと思うのです。でも彼女は、泣くでも喚くでもなく、相手の言葉をそっくり包んでお返ししてしまう。そういうところが、書いていてとても気持ちがいい。


そして彼女は、生まれて初めて「薬師セレナ」と紙に記されました。誰かの婚約者でも、薬係でもなく。この一枚の鑑札が、これからの彼女の戦いの足場になります。


一方で、海の向こうの宰相ヴァルターは、頭を下げる道をあきらめました。彼が次に狙うのは――セレナが書き残した、七年分の覚え書き。静かな悪役の、静かな一手が動きはじめます。


次回、セレナはいよいよ薬師として本格的に立ちます。どうぞ、お付き合いくださいませ。


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