第10話: 客分の腕
いちばん怖い毒は、ひと晩で人を殺す毒ではない。
毎日ほんの少しずつ、薬の顔をして飲ませる毒だ。飲ませる方も飲む方も、それが毒だとは思っていない。
セレナがそのことを思い知ったのは、薬師の鑑札を手にして、まだ三日目のことだった。
エルデンを追われてひと月半あまり。季節はもう初夏に入っていた。
鑑札をもらった翌朝から、調薬室の前には人が並んだ。
咳の止まらない仕立て屋。腰を痛めた荷運び。眠れない子守りの娘。セレナはひとりずつ脈を診て、舌の色を見て、暮らしぶりを聞いて薬を包んでいく。
「はい、これを朝晩。苦いので蜂蜜をひと匙どうぞ。……あら、蜂蜜は値が張りますものね。なら白湯でゆっくり」
「ありがとうございます、薬師さま!」
薬師さま、と呼ばれるたびに、セレナの胸がぽっと明るくなる。
助手に収まったリタが、薬包を畳みながら笑った。
「すごい人気ですねえ、セレナ様」
「ふふ。きちんと名前で呼んでいただけるって、いいものですわね」
棚の上ではコハクが、並ぶ患者を珍しそうに見下ろしている。
そんな昼下がりに、リタの顔色を変える知らせが飛び込んできた。
「セレナ様! マレナの奥様が、危ないって!」
「マレナ夫人?」
「織物商会の女将さんです。下町のみんながすごくお世話になってる人で」
リタは息を切らして、それでも早口で続けた。
「あたしがちっちゃいころ、うちの薬種屋が潰れかけたんです。そのとき、あの奥様がこっそり援けてくださって。それが、もう何ヶ月も寝込んでて。今朝から息も絶え絶えだって」
リタの家の恩人。それなら、この慌てようも分かる。
「ご案内して、リタ。急ぎましょう」
セレナは薬箱とコハクを抱えて立ち上がった。
マレナ夫人の屋敷は、初夏の光を弾く立派な石造りだった。
だが通された寝室の空気は重たかった。締め切った窓と汗と薬の匂いが、何ヶ月も澱んだままそこにある。
白髪の上品な婦人が、枕に半ば埋もれるようにして横たわっていた。唇は紫がかり、呼吸のたびに胸が大きく波打っている。
リタが屋敷の女中に何か囁くと、女中はほっとした顔でセレナを奥へ通した。ボーデ家の名は、この家では顔が利くらしい。
そして枕元には、もうひとり先客がいた。
仕立てのいい黒い上着に、銀の握りの杖。いかにも高名な医師という風貌の男だった。
「……なんだ、お前は」
男はセレナを上から下まで眺めた。
「私はドルフ。公都の医師団でも名の知れた者だ。見ない顔だな」
「セレナと申します。薬師ですわ」
「薬師?」
ドルフは鼻で笑った。
「ああ、噂の流れ者か。毒卓で運よく当てたとかいう」
毒卓――二国の縁談をまとめる、あの物騒な外交の宴のことだ。あそこで毒杯を見抜いたひと幕が、いつのまにか公都じゅうの噂になっていた。
「悪いが、ここは遊びではない。素人は引っ込んでいなさい」
リタがむっとして口を開きかける。セレナはそっとその肩を押さえた。
言い返したところで、夫人の息は楽にならない。いまは、それより大事なことがある。
セレナは夫人のそばに膝をつき、手首にそっと指を当てた。
脈が速い。速いのに力がない。糸のように頼りなく、ときどき大きく一拍だけ跳ねる。
この跳ね方には、いやな覚えがあった。セレナは短く息を呑んだ。急がなければ。
「ドルフ先生は、どのような見立てを?」
「老いと、心の臓の衰えだ」ドルフは胸を張った。「歳には勝てん。私は強壮の妙薬を処方し、滋養に努めてきた。それでもこうなのだから、もはや寿命というほかない」
強壮の妙薬。
その言葉に、セレナの目が部屋の隅の小卓へ動いた。小さなガラス瓶がいくつも並んでいる。中の液体は淡い緑がかった色をしていた。
「あれが、その妙薬かしら」
「そうだ。私が信を置く行商から取り寄せた、評判の品だ」
セレナは瓶を一本手に取り、栓を抜いて鼻先に近づけた。
甘ったるい匂いの奥に、かすかに青くさい土のような香りが隠れている。
覚えのある匂いだった。三年前、覚え書きに記した草。微量なら心の臓を励まし、過ぎれば心の臓を止める草――。
見つけた、と思った。同時に、まさか、とも思った。
いえ、まさかではない。日に三度、何ヶ月も。それは、そういう毒だ。
「夫人は、これを毎日?」
「ああ。日に三度、欠かさずな」
セレナの腕の中で、コハクがびくりと身を硬くした。瓶へ向けた鼻先をふい、と背ける。毛がうっすら逆立っていた。
いつかトリカブトの根を嗅いだときと同じ、危ないものを避ける仕草だ。
ああ、やっぱり。セレナは静かに息を吐いた。
「ドルフ先生。この妙薬、お飲みになったことは?」
「医者が薬を飲んでどうする。馬鹿らしい」
「では、味も匂いもご存じないのですわね」
「何が言いたい」
セレナは立ち上がり、まっすぐにドルフを見た。
「先生。夫人を弱らせていたのは、老いでも寿命でもございません。この強壮の妙薬ですわ」
部屋がしんと静まった。
「……なんだと?」
「この中には、鈴蘭の搾り汁が入っております」
鈴蘭、と言ってセレナは一拍おいた。知らない者を置いていかないように。
「春の終わりから初夏、庭先で白い鈴のような花をつけるあの可愛らしい草ですわ。ご存じの方も多いでしょう。……けれど、あんなに愛らしい顔をして花も葉も根もまるごと毒を隠しておりますの」
「でたらめを言うな! 評判の妙薬だぞ!」
「ほんのひとつまみなら、弱った心の臓を励ます立派なお薬になります。けれど量を過ぎれば逆に働くのです。心の臓を弱らせて、しまいには止めてしまう」
セレナは、夫人の紫がかった唇と糸のような脈を、そっと指し示した。
「評判だからこそ、毎日三度も何ヶ月も飲み続けてしまわれた。この唇の色も、力のない跳ねる脈も、むくんだ足も、どれも鈴蘭を過ぎて摂った方に出る兆しですわ」
「……馬鹿な」
「お疑いなら、瓶を一滴だけ舌の先にのせてごらんなさいまし。独特の鋭い苦みがすぐにまいります。……ほんの一滴なら、お命にはかかわりませんもの」
ドルフは、瓶とセレナの顔を何度も見比べた。
その手がわずかに震えている。さすがに、長く医者をやってきた目だ。
「私が……毒を、処方していたと」
「ご存じなかったのですもの。お気づきになれなかっただけですわ」
セレナは努めて静かに言った。相手の面目を、これ以上つぶす必要はない。
「いまは、夫人を助けるのが先です。手をお貸しくださいまし、先生」
それからの半日を、セレナは夫人につきっきりで過ごした。
まず妙薬を断つ。胃に残った分を吐かせ、炭を含ませて毒を吸わせる。心の臓の負担を減らすため、上体を起こして息を楽にさせる。塩を控えた重湯を少しずつ含ませた。
ドルフははじめ戸惑っていた。だが途中からは黙ってセレナの手元を見つめ、言われるまま炭を運んで盥の湯を替えた。高名な医師が、流れ者の薬屋の言うとおりに無言で湯を運んでいる。
昼がすぎ、夕がすぎた。
一度、脈がふっと乱れた。跳ね方が大きくなり、指の下で心の臓が暴れ出す。
「――いけない」
セレナの背に冷たいものが走った。
落ち着いて。慌てれば、この手が夫人を殺す。
セレナは重湯の匙を置いた。夫人の足をさすって血を巡らせ、なだめるように名を呼び続ける。効くはず。七年、この目で確かめてきた手当てだ。効かないはずがない。
どれほどそうしていただろう。やがて暴れていた脈が、また細い糸へと戻っていく。
指先が強張っていることに、セレナはそこでようやく気づいた。
窓の外では傾いた日が屋根を赤く染め、やがて藍色の夜へと変わっていく。
夜半をすぎて、ようやく夫人の呼吸が深く穏やかになった。紫だった唇に、うっすらと血の色が戻ってくる。
「……あなた、は」
マレナ夫人が、薄く目を開けた。
「セレナと申します。薬師ですわ、奥様」
「セレナ、さん」
夫人はかすれた声で、その名を繰り返した。
「あなたが、わたくしを助けてくださったのね」
「いいえ。奥様ご自身の、生きようとするお力ですわ。わたくしは邪魔をしていた毒をどけただけですわ」
夫人の目に、じわりと涙がにじんだ。その手がセレナの手を弱く握る。
その温もりが、疲れきった指先までゆっくりと染みてきた。ここでは、自分の名前も腕も、ちゃんと誰かに届いている。
ドルフ医師は部屋の隅で、ずっと黙って立ち尽くしていた。
帰りぎわ、彼はセレナを呼び止めた。
「……薬師どの」
さっきまでの居丈高さは、すっかり消えていた。
「若い時分は私も自分で薬を煎じ、舌で確かめたものだ。……だが名が売れるほど、人に任せるようになってな。手を動かさなくなった。舌で確かめることも、いつからかしなくなっていた」
ドルフは自嘲するように笑った。
「皮肉なものだ。名医と呼ばれるほど、いちばん大事なことから遠ざかっていた。……あんたの腕は本物だ。流れ者などと言って、すまなかった」
「先生」
セレナはふっと表情をやわらげた。
「お薬を、ご自分の舌で確かめる。それだけのことですわ」
それだけのことを七年。舐めて覚えなさい、と亡くなった師はいつも言っていた。舌と指で覚えたものはけっして裏切らない、と。
「わたくしは、それを続けてきただけ。……才能では、ございませんの」
外に出ると、夜風が頬に冷たかった。
空には細い月がかかり、寝静まった通りに遠くの犬の声だけが響いている。
その門の前に、なぜかジェラルドが立っていた。
「あら。どうなさったの、こんな時間に」
「……いや」
ジェラルドは気まずそうに目を伏せた。
「お前が、まだ帰らんと聞いた。難しい患者だと。それで、その」
「心配して、迎えに来てくださったの?」
「……夜道は、物騒だからな」
セレナは思わず笑ってしまった。この方は、まっすぐに優しいことをまっすぐには言えない人だ。
「ありがとうございます。おかげで、ひとついいお薬がつくれましたわ」
「薬?」
「ええ。今日いちばんよく効いたのは、たぶん――」
セレナは細い月を見上げた。
「『あんたの腕は本物だ』という、あの先生のひと言。あれが、わたくしにはいちばんの滋養でしたの」
ジェラルドは何も言わず、ただ少しだけ歩く速さを彼女に合わせた。
その夜、セレナは覚え書きに新しい一行を書き足した。
鈴蘭、過量。妙薬の名で、毎日少しずつ。
いちばん怖い毒は、毒の顔をしていない。薬の顔をして、毎日当たり前のように飲まれている。
そこまで書いて、セレナの筆がふと止まった。
毎日、当たり前のように。誰も毒だとは思わずに。
あるはずのない考えがふいに頭をよぎった。王家の方々のお薬は、いったい誰が調合して、誰が確かめているのだろう。
――どこかで、同じことが起きてはいないかしら。たとえば、もっとずっと、大きな場所で。
海の向こうの、あの王宮で。
いつもなら、こんな思いつきはすぐに脇へ押しやってしまう。……けれど今夜は、なぜだかそうしなかった。
セレナは覚え書きを開いたまま、窓の外の夜へ目をやった。灯りの届かぬずっと先に海がある。その向こうに、かつて自分がいた王宮がある。
書きつけたばかりの一行のインクは、いつまでも乾かないようにそこに残っていた。




