第11話: 祈りと薬
「聖女ミレーヌ様の御加護の水でございますよ! 万病に効く、本物の奇跡の水!」
市場からの帰り道、その呼び声が、初夏のカルディアの下町の広場に響いていた。
セレナが足を止めたのは、声が気になったからではなかった。腕の中のコハクがぴくりと耳を立て、鼻先をほんの少し背けたからだ。
コハクがそういう仕草をするのは、たいてい、よくない匂いのするときだった。
(ちょっとだけ、ね)
胸の内で言い訳をして、セレナは人垣のあいだをすり抜けた。
輪の中心に、幌をかけた小さな台車があった。台の上に、薄青いガラスの小瓶がずらりと並んでいる。中には白っぽい液体が入っていた。
売り手は、丸顔に人のよさそうな笑みを浮かべた四十がらみの男だった。胸に、聖女ミレーヌの紋様を刺繍した布切れをぶら下げている。
聖女ミレーヌ――エルデンの聖女の名を、ここカルディアの下町で聞くのは妙な心地がした。二国は長いあいだ睨み合っている。それでも、噂と信仰だけは国境を軽々と越えてくるものらしい。
「聖女様がその御手で浄めてくださった水でございます! 腰の痛みも心の臓の乱れも、ひと口飲めばたちどころに!」
隣に来たリタが、ちらりとセレナを見た。
「……セレナ様」
「分かってますわ」
セレナの目は、行商人よりも、人垣の前列に立つ老人へ向いていた。
六十がらみの男で、妻に腕を支えられて立っていた。目の白いところに、うっすらと黄みがかかっている。腹が少し張って見え、足首のあたりがむくんでいる。
(あれは、肝の具合のよくない人の顔だわ)
七年分の覚え書きの中に、何度も記した顔だった。毎朝の脈の変化、体の変わり目、薬の効き目と副作用。その積み重ねが、あの老人の顔をひと目で読ませる。
老人の妻が、財布の紐に手をかけていた。
「少し、待ってくださいな」
セレナは進み出た。妻が振り向く。
「……はい?」
「その水をお買いになる前に、ひとつだけ聞かせてくださいまし。旦那様は、いつ頃からそのような顔色をされていますの?」
老人が、まじまじとセレナを見た。「……半年ほど、ですかね」
「足のむくみは? 食べ物の味が分かりにくくなってはいませんこと?」
「……なんで、あんたに分かるんだ」
行商人が、ここで割り込んできた。
「おや、お嬢さん。人様の商売に口を挟むとは、ずいぶんと」
「薬師ですわ」
セレナは懐から鑑札を取り出した。男の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「これは、これは」男はすぐに笑顔を取り戻した。「でもね、薬師さまに量れるものと聖女様の御加護は別物ですよ。お薬は体に効くかもしれないが、信仰の力はもっと深いところへ届く。それに、聖女ミレーヌ様の御名前をご存じないはずはないでしょう。エルデン王国が誇る、治癒の聖女様だ。その御加護の水がここカルディアにも届いているとあれば――」
「お祈りは、大切ですわ」
セレナは遮らなかった。ただ、静かにそう言った。
「心が温まる。苦しいとき、一人じゃないと思える。それは本物の力ですもの」
行商人が、少し拍子抜けした顔になった。
「……そう、そうですよ。お分かりいただけてよかった。ですから、この水には――」
「ですが」とセレナは続けた。「この方のお体には、お祈りとは別にちゃんとしたお薬が要りますわ。肝の病は、祈りでは良くなりませんもの」
「肝の病!?」妻が、青くなった。
「ええ。まだ初期だと思いますわ。今のうちに手を打てば、十分に立て直せます。でも、放っておくほど難しくなりますの」
セレナは老人の前にしゃがみ込んだ。
「少し脈を診させていただいてよろしいかしら」
老人は、おずおずと手を差し伸べた。爪の生え際が白っぽい。手のひらを返すと、うっすらと赤みが出ている。脈を取ると――緩く、滞るような感触が指に伝わってきた。
「長いあいだ、重いものを担いで働いてこられたのでしょう?」
「……荷運びの手伝いを、ここ二年ほど。食う分を稼ぐには、それしかなくてな」
セレナはゆっくりと立ち上がった。
「お体が怠けているのではありませんわ。ただ、ずっと無理をさせてきた分が出てきているだけですの。今度は、休ませて差し上げる番ですわ」
老人の目に、じわっと何かが滲んだ。
「……治る、のか」
「きちんとお薬を使って、食事を整えていただければ。急には治りませんわ。でも、確実に楽になっていきます」
行商人が、咳払いした。
「……薬師さまのご意見も、ひとつの見方ではありますがね。聖女様の御加護は、薬師さまには測れないところにもございますので」
「では、ひとつ教えてくださいまし」とセレナは言った。「このお水には、何を溶かしてありますの? それが分かれば、わたくしも安心して見送れますわ」
行商人は、笑みのまま、何も答えなかった。
「そのお水を聖女ミレーヌ様がお認めになった証しは、ございますの? 文書でも署名でも、構いませんわ」
答えは、なかった。
広場が、しんと静まった。
コハクが、腕の中でふんと鼻を鳴らした。まるで「やっぱりね」とでも言うように。
老人の妻が、財布の紐をゆっくりと締め直した。
「……薬師様に、お世話になります」
行商人は、そそくさと幌を下ろし、台車の柄に手をかけた。そうして人垣の隙間を縫うように、逃げるみたいに広場を出ていく。その背中を、「よその聖女様の名を使って商売とはねえ」という声が、いくつも追いかけていった。
セレナは、その背を追わなかった。老人の妻の財布がもう狙われずに済むと分かれば、それで十分だった。
「ヨナス爺さんですよね?」とリタが老人に声をかけた。「お薬はうちの調薬室で出せますよ。ご案内しますね」
老人は、ぼそりと「ありがとよ」と言った。
調薬室に戻ったのは、昼をとうに過ぎたころだった。
ヨナス爺は薬を受け取るとき、セレナの手を小さく握った。「あんた、ありがとうよ」と、それだけ言った。妻が隣で深く頭を下げた。
それで、十分だった。
リタが薬棚を整理しながら言った。
「あの行商人、逃げていっちゃいましたね」
「行商人がどうなったかは、二の次ですわ」
「え?」
「広場の皆さんが、ちゃんと見ていましたもの。ヨナス爺がお薬を選んだところを」
リタが少し考えて、ふんわりと笑った。
「……たしかに。それが一番でしたね」
「あたし、ちょっとだけ気になったんですけど」とリタが続けた。「セレナ様、お祈りを否定しませんでしたよね。聖女様のお水なんて、どうせ嘘っぱちなのに」
「嘘かどうかは、まだ分からないわ」
セレナは薬棚の引き出しを開けながら言った。
「あの行商人が聖女様の御名を騙っているのか、それとも本気で信じているのか。……どちらにしても、ヨナス爺には届かないお水でしたけれど」
「でも、お祈りは本物だって言ってましたよね?」
「心が安らぐのは、本当のことですもの。苦しいときに一人じゃないと思える。それだけで、人は本当に助かることがありますのよ」
リタがぽかんとした顔で、コハクを見た。コハクが薬棚の上で、面倒くさそうに前脚で顔をひと撫でした。
「……でも、肝の病には効かないですよね」
「ええ。だから、お薬が要りますの。両方あっていい――でも、順番を間違えてはいけませんわ」
リタは少し黙ってから、「セレナ様って、すごいなあ」と言った。「あたし、あの行商人にもっとひどい言い方をしてやりたかったです」
セレナは思わず笑った。
「リタのそういうところ、わたくしは好きですわよ」
コハクが薬棚の上からふたりを見下ろし、ゆっくりと目を細めた。
セレナは調合台に向かった。乳鉢に指をかけたところで、ふと手が止まる。
口先の奇跡と、本物の薬。ふたつが同じ場所に並んだとき、人はどちらを選ぶのだろう。今日のヨナス爺は、薬を選んでくれた。
けれど、いつもそうとは限らない。
先日のマレナ夫人は、薬の顔をした毒を何ヶ月も疑わずに飲み続けていた。今日のヨナス爺は、あやうく口先だけのお水に手を伸ばしかけた。どちらも、見えていない人が見えないまま選び続けている。
その考えの先には、決まって同じ人がいた。もう二度と戻らないと決めた、遠い国のあの方だ。
口先の何かに縋って、本物の薬を遠ざけてはいないだろうか。昨夜、覚え書きの上で芽吹いたその問いは、一晩ではしぼまなかった。今日また、こうして戻ってくる。二日続けて振り払えずにいるのは、初めてのことだった。
乳鉢の底が、指の腹にひやりと冷たかった。
「セレナ様? どうかしましたか」
リタが顔をのぞき込んできた。
「いいえ。なんでもありませんわ」とセレナは言った。「今夜のヨナス爺のお薬を、先に仕上げてしまいませんとね」
コハクが鳴いた。
「分かってますわよ。今から始めますわ」
海の向こうでは、同じ朝が明けていた。
エルデンの王宮で、アロイスは脈の跳ねる感覚とともに目を覚ました。
胸の奥がしつこく騒ぎ出し、口の中に苦みが広がる。喉が渇き、やがて両手の先が自分の意志とは関わりなく細かく震え始めた。毎朝、決まって同じ順番だった。
ミレーヌが、枕元に座って目を閉じていた。白い唇が、かすかに動いている。祈りの言葉を、小さく繰り返しながら。
アロイスは、その横顔を見つめた。美しい人だ、と思う。あの地味な薬師などより、ずっと。
だが、胸の騒ぎは、いっこうに収まらなかった。
「……ミレーヌ。今朝は、いつもより悪い気がする」
アロイスがそう漏らすと、ミレーヌの祈りが、ほんの一瞬だけ途切れた。
膝の上で組まれた白い指先が、こわばっている。よく見れば、その指もまた祈りのあいだじゅう小さく震えていた。額には、うっすらと汗が浮いている。
「殿下」
目を開けたミレーヌの声は、けれどすぐに、いつもの甘やかな調子を取り戻していた。
「お苦しいのは、あの薬屋あがりの女が置いていった悪いお薬の名残のせいですわ。わたくしの祈りが、それを少しずつ追い出しております。もう少しのご辛抱ですのよ」
そうかもしれない。そうであってほしい。
ミレーヌの白い手が、アロイスの手にそっと重なった。温かく、柔らかかった。
なのに、震えは、止まらなかった。
指先の揺れは、さっきよりも幅を増して握った拳の中でもはっきり分かるほどになっていた。これが何なのか、アロイスには分からない。医師たちも、分からないと言う。いや、正確には――分からないのではなく、言えないのかもしれないと、近ごろぼんやり思い始めていた。
しかし、それ以上考えることが、できなかった。胸の騒ぎが邪魔をする。口の中の苦みが、集中を奪っていく。
侍医が、部屋の隅で誰かに低くつぶやくのが、遠くに聞こえた。
「……新しい処方も、また体に馴染まぬ。こういう体質は、めったにあるものではないのだが」
アロイスは、聞こえないふりをした。
体質、という言葉が、耳の奥にひっかかった。病ではなく、体質。治す、のではなく、馴染む。
(何に、馴染むというのだ)
その問いが浮かんだ途端、また胸が大きく騒いで、アロイスは考えるのをやめた。
ミレーヌが、また目を閉じて、祈りを再開した。白い唇が、声もなく動いている。
その声にならない祈りの形を、アロイスはぼんやりと目で追った。
枕元の燭台では、夜通し灯っていた蝋燭の芯が、朝の光の中でまだ細く煙をあげていた。その心もとない一筋の煙よりも、なお頼りなく――握った拳の中で、アロイスの指先だけが、いつまでも小さく揺れ続けていた。




