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第12話: 政略の隙間

 政略結婚というものを、セレナはずっと隙間のない箱のようなものだと思っていた。


 誰と誰を、どんな序列で並べるか。書類と署名と作法でびっしり埋めつくして、私情のはいる余地なんて残さない。四角四面の、蓋のきっちり閉まった箱。


 だから公館の一室で朝からその箱の組み立て方を延々と聞かされても、さほど驚きはしなかった。うんざりは、していたけれど。


「よろしいですかな、フェアミル殿。婚礼の席では、必ず三歩さがってお控えください。杯は右の手で、袖は左でおさえる。この順を違えれば両国の面目にかかわりますぞ」


 式部官のロタールは、痩せた指で羊皮紙をなぞっている。もう長いこと、同じ調子で喋り続けていた。カルディア公王家の儀礼をすべて頭に入れているという触れ込みの、糊のきいた老人だ。


 (三歩さがって、杯は右、袖は左……)


 セレナは神妙にうなずいてみせながら、卓の隅の茶菓子にちらりと目をやった。蜂蜜をたっぷり使った、まだ温かそうな焼き菓子だ。こんがりした表面が、蜂蜜の照りでつやつやと光っている。割れ目からは、うっすら湯気。さっきから、いい匂いがこちらへ流れてくる。


 (あれ、ひとつくらいいただいても、よろしいのかしら)


 手が伸びかけたところで、卓の向かいから短い咳払いが飛んできた。


 ジェラルドだった。


「……行儀よくしていろ」


 小さな声だった。叱っているというより、笑いをこらえているような。セレナの隣で、彼はさっきからずっと退屈しきっている。長い脚を、もてあましたままで。


 ロタールは羊皮紙から顔を上げるたび、まずジェラルドの様子をうかがった。フェアミル殿、と口ではセレナに向かって喋りながら、視線の帰る先はいつも彼の方だ。


 (……やっぱり、妙ですわね)


 ただの使者に、公王家の式部官がここまでかしこまる。雨の街道で拾われた日から数えて、これで何度目だろう。懐に光った紋章。武装した衛兵を止めた一声。公王の鑑札。引っかかりは、覚え書きの隅にもう幾つも溜まっている。


 でもセレナは今日もそれを、そっと閉じておくことにした。詮索したところで、目の前の袖の作法が減るわけでもない。


「まあまあ、ロタール殿。作法は追い追い体で覚えますって。それより、そろそろお茶でも」


 壁ぎわからのんびり口を挟んだのは、ジェラルドの供のテオだ。今日はめずらしく、二枚目の顔に神妙な仮面を貼りつけている。……貼りつけそこねて、端からはがれかけているけれど。


「テオさん」とセレナは小声で言った。「その仮面、左の頬から落ちておりましてよ」


「うぐ。……先生、ほんと目ざといな」


 セレナの足元の籠で、こと、と音がした。蓋の隙間から琥珀色の鼻先が突き出して、菓子の匂いにひくひくと動いている。


「公館の御座敷にイタチを連れてくる度胸、俺は嫌いじゃないですよ」


「コハクは毒に鼻が利きますの。念のためですわ。……半分は、寂しがりですけれど」


 茶を運んできたのは、腰の曲がった白髪の老人だった。公王家の家令だという。モーリッツ、とロタールが呼んだ。


 その足取りに、セレナの目がふと止まる。右の膝をかばっている。盆を置く手も小刻みに揺れて、顔には薄く脂汗が浮いていた。


 (……あの方、朝からずっと気を張っておられるのね。膝も、痛みそう)


 声をかけたかった。けれど客分の薬師が、公王家の家令の体をあれこれ言う立場にはない。セレナは湯気の立つ茶碗を受け取りながら、それだけを胸にしまった。




 話が婚礼の献立に移ったころだった。


 盆を抱えて下がろうとしたモーリッツが、ふいに、その場で膝を折った。


「モーリッツ殿?!」


 ロタールの声が裏返る。茶碗が転がり、盆が鈍い音を立てて床に落ちた。老人は胸のあたりを握りしめ、口を半分開けたまま糸の切れた人形のように傾いでいく。


「うわっ、爺さん――!」


 壁ぎわのテオが、貼りかけた仮面ごと腰を浮かせた。


 セレナは考えるより先に、床を蹴っていた。


「モーリッツさん、聞こえますこと? 目を開けてくださいまし」


 揺すっても、返事はない。呼吸が浅い。胸は上下しているのに、空気がちっとも入っていない、あの浅さだ。まぶたを指でそっと押し上げる。黒目が、針の先ほどに縮んでいた。


 (瞳がこんなに小さく。息は浅くて、遅い……)


 鼻を近づけると、汗の匂いに混じってかすかに甘ったるいものが漂う。この匂いは知っている。


 籠から抜け出したコハクが、老人の袖口をひとつ嗅いだ。けれど、トリカブトのときのようには毛を逆立てない。鼻を背けもしない。ただ、ふん、と困ったように鼻を鳴らす。


 毒を盛られたのではない。誰かに、ではなく。


 セレナは老人の帯にはさまった小さな紙包みを断りもせず抜き取った。開くと、乾いた乳白色の粉。舌の先にほんのひとかけら乗せて、すぐに吐き出す。


 苦みの奥に、眠るような甘さ。間違いない。


「ケシですわ」


 その名にぴんとこない顔が、ぐるりと並んでいる。セレナは紙包みをみなに見えるよう掲げた。噛んで含めるように言い足す。


「痛みを眠らせる草ですの。膝の疼きにはよく効きます。……けれど、よく効くぶんだけ量を過ぎれば息まで眠らせてしまいますのよ」


 この方は今日の長丁場にそなえて、いつもより多く飲んだのだ。空きっ腹に、気を張ったまま。効きすぎた薬が、いま呼吸を浅くしている。


「侍医を! 誰か、公王家の侍医を呼べ!」ロタールが喚いた。「そこの女、離れなさい! 客分ふぜいが、家令殿の体に何を――」


「間に合いませんわ」


 セレナは顔も上げずに言った。


「息が浅くなっています。このまま眠り込ませたら、次は呼吸が止まる。侍医を待っている暇はございませんの」


「なにを勝手な。誰がそんな流れ者の言うことを――」


「彼女にやらせろ」


 低い声が、部屋の空気を一息で変えた。


 ジェラルドだった。いつのまにか老人のかたわらに膝をつき、その肩を支えている。


「ロタール。侍医は呼べ。だが、それまでは彼女の指図に従え。……モーリッツを死なせる気か」


 式部官が、口をつぐんだ。喚いていた公王家の者たちも、水を打ったように黙って次々と頭を下げる。ただの使者の、一言で。


 (……ほら、また)


 でも、その引っかかりを味わっている暇は今はなかった。


「ジェラルド様、この方を眠らせてはいけません。起こしてくださいまし。声をかけて頬を叩いて、とにかく目を覚まさせて」


「わかった」


「テオさん、お水を! 冷たいほど良いですわ。それと、いちばん濃く煮出したお茶を苦ければ苦いほど。急いで!」


「はいっ」


 テオが飛び出していく。仮面はもう、どこかへ落ちていた。


 ジェラルドは老人の上体を抱え起こした。糸の切れた体は、見た目より重いらしい。その腕が、ぐっと沈む。骨ばった肩を片腕で支える。空いた大きな手が、垂れた頬を幾度も軽く打った。打たれるたび、老いた頬の薄い皮膚が頼りなく揺れる。半開きの唇から、浅い息がひゅうと漏れた。荒っぽく見えて、その手は力を殺していた。


「モーリッツ。起きろ。目を開けろ、モーリッツ」


 セレナは老人の背をさすった。胸を広げるように腕を持ち上げて、浅い息を少しでも深くさせようとする。テオの運んできた冷たい水を額と首筋にあて、意識のふちへ呼びかけ続けた。


 ジェラルドの声が、掠れてきたころだった。老人のまぶたが、うっすらと痙攣した。


「……わ、か……」


 かすれた声が、ジェラルドの手のなかで漏れた。


「若……これしきのことで、お手を、わずらわせては……」


 ジェラルドの手が、一瞬だけ止まった。


「喋るな。息をしろ。それだけ考えていろ、モーリッツ」


 叱るような、けれどどこか泣くのをこらえるような声だった。


 テオが、ぎくりとこちらを見た。セレナと目が合って、気まずそうに視線を逃がす。


 (若、ですって)


 その一言が、覚え書きの隅にまたひとつ増えた。……けれど、やっぱり今はそれどころではない。


「お茶をひと匙ずつ。むせないように、ゆっくり」


 濃く苦い茶が、老人の乾いた唇を湿らせる。セレナは脈をとった。遅くて、頼りない。指の下でその脈が一度、ふっと遠ざかった。眠りの底へ手を引かれるみたいに。


 (――行かせない)


 セレナは老人の名を大きく呼んだ。眠りへ傾ぐ体を、声と手と苦い茶で引き戻す。何度でも、こちら側へ。まだ間に合う。息さえ止めさせなければ、この草はいつか諦める。眠りの底から、この人を連れ帰る。それだけを信じて、繰り返した。


 やがて。


 老人の呼吸が、ひとつ、深く鳴った。胸が、今度こそちゃんと空気で膨らむ。針の先ほどだった黒目に、少しずつ光の加減が戻ってくる。


「……ここ、は」


「公館のお座敷ですわ。少しお薬が効きすぎただけ。もう、大丈夫」


 モーリッツは、乾いた唇をわずかに動かした。


「……今日は、大事な日と聞いて。膝が、粗相をせぬようにと……いつもより、多く……」


「そうでしたのね。お気持ちは立派ですけれど、お薬は量が命ですのよ」


 セレナは、ようやく詰めていた息を吐いた。張りつめていた肩から、すとんと力が抜けていく。




 モーリッツは別間に運ばれ、あたたかくして休ませることになった。次に薬を飲むときは必ず量を守ること、空きっ腹で飲まないこと。セレナは付き添いの者に、何度もそれを言い含めた。


 式部官のロタールは、さっきまでの居丈高さがすっかり抜け落ちていた。羊皮紙を抱えて立ち上がる。セレナの前で、いちど足を止めた。


「……先ほどは、失礼を申した。作法の続きは、日をあらためましょう」


 言うだけ言うと、決まり悪そうに目を伏せる。そのまま背を向けて下がっていく。糊のきいた背中が、心なしか丸まって見えた。


 ――婚礼の袖の作法は、結局、半分も進まなかった。


「……疲れただろう」


 人のいなくなった座敷で、ジェラルドがぽつりと言った。自分の座っていた椅子を、無言でセレナの方へ押してよこす。


「あら。ジェラルド様が、女に椅子を譲るものではなくてよ」


「……いいから座れ。手当てのあいだ、ずっとしゃがんでいただろう」


 ぶっきらぼうな言い方だった。それでも椅子はちゃんと、彼女の膝のうしろにそっと寄せられている。セレナは笑って、そこへ腰を下ろした。


「ジェラルド様も、ああいうのはお嫌いなのね。三歩さがって、袖は左」


「……得意な顔に見えたか」


「ぜんぜん。長いお脚を、もてあましておいででしたわ」


 彼は、ばつが悪そうに横を向いた。耳が、うっすら赤い。


「柄じゃないんだ、ああいうのは。序列だ格式だと並べられると、どうにも尻がむずむずする」


「ふふ。わたくしもですわ」


 セレナは、卓に残っていた焼き菓子をひとつ手に取った。コハクが、待ってましたとばかりに膝によじ登ってくる。


「令嬢のくせに、厨より調薬室が好きなんですの。書類より乳鉢のほうが、ずっと手に馴染みますわ。……たぶん、わたくしたち似た者同士。こうして誰かの手当てをしているときのほうが、よっぽど息がしやすいんですもの」


 ジェラルドは答えず、ただ別間へ続く戸の方を見ていた。モーリッツの寝ている部屋だ。


「あの家令とは、長いのですの?」


「……ガキのころからだ」その声が、少しだけ和らいだ。「木登りで落ちて、膝をぱっくり割ったことがある。血だらけで泣いてたら、あいつが飛んできてな。節くれだった指で青くさい草の薬を塗り込んだ。やたら沁みるやつだ。手つきはぶきっちょで、いつも半分は的を外していた。……その傷跡は、今も膝に残ってる。立場だの家柄だの、あいつには関係ない。俺にとっては、膝の薬をくれる爺さんだ。それだけだ」


 セレナは、菓子を割る手を止めた。


 さっき、この人は身分も忘れて床に膝をつき、一介の家令の頬を必死に叩いていた。若、と呼ばれて、泣くのをこらえるような声を出した。


「ジェラルド様は、あのお爺さまを本当に大事になさっているのね」


 ジェラルドは、ふいをつかれたように口をつぐんだ。それから、ふん、と短く鼻を鳴らす。


「……爺さんが倒れたら、寝覚めが悪いだけだ」


「ふふ。そういうことにしておきますわ」


 毒卓で杯を払ったときも、そうだった。この人が案じたのは、セレナの腕ではなくその無事だった。腕も家柄も、たぶんこの人の目にはたいして映っていない。


 膝の上のコハクが、菓子をねだって琥珀色の鼻先をつんと持ち上げる。


 だから、と思う。この人が本当は誰なのか——それを、いまはまだ知らなくていい。


 膝のコハクに菓子のかけらをちぎってやりながら、そっと顔を上げる。別間の戸を見るジェラルドの横顔。眉の間の、生真面目そうな皺。それを見ているだけで、なんだか口元がゆるんでしまう。


 (知らないままのこの人を、もうずいぶん近くに感じているのだもの)


「……なにを、にやにやしている」


「いいえ? べつに」


「気味が悪いぞ」


「まあ、ひどい」


 膝の上でコハクが、菓子のかけらをくわえて満足げに丸くなった。ジェラルドが、その琥珀色の背をぎこちない手つきでひと撫でする。……こういう不器用なところも。そう胸の内でつぶやいて、セレナは慌てて続きを飲み込んだ。




 しばらくして、ジェラルドが思い出したように口を開いた。


「……ひとつ、頼みがある」


「あら、なんですの。あらたまって」


「近いうちに、エルデンとの席が持たれる」彼の声から、さっきまでの和らぎが消えた。「小さな会談だが、両国の使節が卓を囲む。……前の毒卓のような席だ。お前に、また毒見を頼むかもしれん」


 毒卓、という言葉に、セレナの背が少しだけ伸びた。


「ええ。喜んで。……といっては物騒ですけれど」


「無理はさせない。危ういと思えば、いつでも退いていい」


「大丈夫ですわ。わたくし、そういうのは得意ですもの」


 軽くそう返しながら、けれどセレナの頭の隅で別のことが小さく灯っていた。


 ――今日のケシの薬。よく効くからと、毎日、当たり前のように飲まれる薬。効きすぎていることに、誰も気づかないまま。


 マレナ夫人の妙薬。ヨナス爺の奇跡の水。そして海の向こうのあの王宮で、いま誰かの手にゆだねられているはずの王家の薬。


 (……どなたが、確かめていらっしゃるのかしら)


 その考えは今夜また、覚え書きのところまでついてくるのだろう。けれど今は、とセレナは首を小さく振って、膝のコハクを撫でた。


 政略結婚は、隙間のない箱だと思っていた。書類と作法でびっしり埋まって、私情のはいる余地なんて、どこにもないはずの箱。


 でも今日、その堅苦しい箱の隙間から思いがけないものがこぼれ落ちてきた。膝の薬をくれる爺さんを案じる、無口な人の横顔。譲られた椅子の、ぎこちない優しさ。


 ――隙間は、あった。ちゃんと、あったのだ。


 セレナは、割った焼き菓子の片方をジェラルドの方へ差し出した。


「ジェラルド様も、ひとつどうぞ。今日いちばんの働きは、あなたの『彼女にやらせろ』でしたもの。……あの一言がなければ、わたくしあの座敷から追い出されておりましたわ」


 ジェラルドは少しためらってから、大きな手でそれを受け取った。菓子のかけらが、ずいぶん小さく見える。


 政略で結ばれるはずの二人が、公館の座敷の隅でひとつの菓子を半分こにして齧っている。


 その、あまりに締まらない光景を、コハクだけが、蜂蜜のついた鼻先で満足げに見上げていた。

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