第7話: 自分の手で
腕のいい薬師なら、いくらでもいる。
けれど、「あなたに診てほしい」と名指しされる薬師は多くない。
その違いがどこにあるのか、このときのセレナはまだ知らなかった。
その朝も、セレナはいつものように店の薬草を検めていた。
売ることは、できない。
身分も鑑札もない客分の身では、薬を商うことはいまも罪のままだ。
それでも、毎朝こうして薬草に触れていると心が落ち着いた。乾いた葉の匂いと、根の手ざわり。これだけは、誰にも取り上げられない。
そこへ、戸が勢いよく開いた。
「セレナ様っ!」
リタだった。息を切らして、髪も乱れている。
「お願いします、来てください! ご近所の、パン屋のミナちゃんが――熱が、もう三日も下がらなくて」
「三日」
セレナの手が、止まった。
「町のお医者さまには?」
「診てもらいました。でも、薬を飲ませてもちっとも下がらないんです。それで、お母さんが思い詰めて、今朝とうとう拝み屋まで呼んで」
「拝み屋」
「お札を貼って、お経みたいなのを唱えて……でも、熱は上がる一方で。あたし、見ていられなくて」
リタの目が、潤んでいた。
セレナは、薬草を置いた。
助けに行きたい。けれど。
「リタ。わたくし、この国で薬を出すことは、許されておりませんのよ」
「……そう、でした」
リタの肩が、しゅんと落ちる。
売れば、罪になる。客分の身で勝手をすれば、世話になっているジェラルドにも迷惑がかかる。
頭では、分かっている。
けれど、とセレナは思う。
三日も熱を出して苦しんでいる子が、すぐそこにいる。それを、許しがないからと見捨てるのが薬師の務めだろうか。
ちがう。
セレナは、腰の薬包をきゅっと締め直した。
「行きましょう、リタ」
「で、でも、お薬は」
「売らなければ、よろしいのでしょう?」
セレナは、にっこりと笑った。
「ただの近所の娘が、心配で様子を見に行くだけ。……お代は、一銭もいただきませんわ。それなら、誰にも文句は言わせません」
リタの顔が、ぱっと明るくなった。
「セレナ様……っ」
「さ、案内なさい。急ぎますわよ」
パン屋の奥の小部屋は、むっとした熱気がこもっていた。
寝かされた女の子は、頬を真っ赤にして苦しそうに息をしている。枕元には、拝み屋の貼ったお札が何枚も並んでいた。
母親が、すがるように顔を上げる。
「あなたは……?」
「ご近所のセレナと申します。薬を少しかじっておりますの」
セレナは、そっと女の子の額に手を当てた。
熱い。けれど、それだけではない。
頬の赤みに、左右で差がある。右の頬のほうが、ずっと火照っていた。
「ミナちゃん。ちょっと、お口を見せてくださる?」
ぐったりした子の口の中をのぞき、首すじをそっと指でたどる。右の耳の下が、ぷくりと腫れていた。
セレナの中で、覚え書きの頁がめくれていく。
三日下がらぬ熱。片側だけの火照り。耳の下の腫れ。
「お母さま。この子、近ごろ耳を痛がってはいませんでした?」
「……あ。そういえば、四、五日前に、耳が痛いと」
「やっぱり」
セレナは、ほっと息をついた。
「呪いでも、たちの悪い熱病でもございませんわ。耳の奥に膿がたまって、それが熱を出させているんですの。お医者さまのお薬が効かなかったのは、熱だけ診て膿を診ていなかったからですわ」
「な、治るんですか、それ」
「ええ。膿を散らして熱を引かせれば」
セレナは、腰の薬包をひらいた。
まずは、熱で乾いた体に水を含ませる。それから、腫れを冷やすための湿らせた布。
「リタ、お湯を。ぬるめのをたっぷり」
「はいっ」
セレナは、煎じた薬湯を少しずつ子の唇に運んだ。
炎症を鎮める柳の皮。膿を散らす、苦い根。どれも、七年のあいだに何度も舌で確かめた草だ。
四半刻。
子の息は、まだ荒いままだった。
母親の顔が、また曇る。
「……やっぱり、だめなんでしょうか」
「いいえ」
セレナは、もう一度子の耳の下に触れた。
腫れが、さっきより硬い。冷やすだけでは、追いつかない。
「冷やすだけでは、足りませんわね」
セレナは、薬包から別の包みを取り出した。
「温めて散らします。冷やしてから、温める。順番をまちがえてはいけませんけれど」
温めた布を、慎重に耳の下へ当てる。
それを、根気よく何度も繰り返した。
やがて。
硬かった腫れが、少しずつやわらかくなっていく。
子の荒い息が、ゆっくりと深いものに変わっていった。真っ赤だった頬の色が、すうっと引いていく。
「……ねつが」
母親が、震える手で子の額に触れた。
「熱が、下がってる……!」
「ええ。山は越えましたわ」
セレナは、汗をぬぐってにっこりと笑った。
「あとは、よく寝てよく食べれば。明日にはきっと、パンをおねだりいたしますわ」
母親が、わっと泣き出した。
ぐったりしていた女の子が、うっすらと目を開けて母を見上げる。それから枕元のセレナを見て、小さな声で言った。
「……おねえちゃん、だあれ?」
「ふふ。お薬屋さんよ」
「おくすりやさん……」
女の子は、舌っ足らずにそう繰り返して、こてんと寝入ってしまった。
その安らかな寝息を聞いていると、ここまで張りつめていたものが、すうっとほどけていくようだった。
セレナは、その小さな手をそっと握った。
帰り道。
夕暮れの町を、セレナとリタが並んで歩いていた。
「セレナ様。あの、ありがとうございました」
リタが、ぽつりと言った。
「あたし、ほんとに、どうしようかと思って。セレナ様が来てくれなかったら、ミナちゃん……」
「もう、大丈夫ですわ」
「……あの子のお母さん、ずっと言ってました。『セレナ様、セレナ様』って。きっと、明日には町じゅうに広まりますよ。『下町に、すごい薬師がいる』って」
セレナの足が、ふと止まった。
セレナ様。
その名で、呼ばれた。
ふと、エルデンにいた頃のことを思い出す。
あの王宮で、自分は七年ものあいだ毎朝薬を淹れていた。けれど、誰も自分の名前を知らなかった。王太子の薬係。ただの、それだけ。淹れているのが「セレナ」だということなど、誰も気に留めなかった。
なのに、いま。
身分も鑑札も、何ひとつないのに。
ひとりの母親が、わが子のために、「セレナ」という名前を必死に呼んでくれた。
ああ、そうかとセレナは思った。
わたくしがずっとほしかったのは、これだったのね。
立派な家名でも、宮廷の席でもない。
ただ、自分の手で、自分の名前で、誰かに必要とされること。
「……リタ」
「はい?」
「わたくし、いまとってもいい気持ちですの」
セレナは、夕暮れの空を見上げて、笑った。
その笑顔を見て、リタもつられて笑った。
その晩、ジェラルドが調薬室を訪れた。
めずらしく、供も連れずひとりだった。
「聞いた」
彼は、いつものぶっきらぼうな調子で言った。
「下町で、子どもの熱を診たそうだな」
「あら。もう、お耳に入りましたの」
セレナは、ことさら涼しい顔をしてみせた。
「お代は、一銭もいただいておりませんわ。ただのご近所づきあい。鑑札には、触れておりませんでしょう?」
「……揚げ足を取るな」
ジェラルドは、少し呆れたように息をついた。
けれど、その口元はわずかにゆるんでいた。
「無茶をするなと言いたいところだが」
彼は、棚に置かれた薬包をちらりと見た。
「……お前は、ああいうとき、迷わないんだな」
「迷いましたわ。ちゃんと」
セレナは、肩をすくめた。
「許しがないのに、いいのかしらって。……でも、目の前で苦しんでいる子を許しがないからと見捨てる。それは、わたくしの知る薬師の務めではございませんわ」
ジェラルドは、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「政略の話だが」
セレナの胸が、とくん、と鳴った。
「急かすつもりは、ない。お前が自分で決めればいい」
彼は、まっすぐにセレナを見た。
「だが、ひとつだけ言っておく。俺は、お前に身分をくれてやりたいんじゃない。……お前が、お前の手でやりたいことをやれるようにしてやりたいんだ」
セレナは、言葉に詰まった。
身分を、くれてやる。そう言われると、身構えてしまう。また、誰かの庇護のもとに収まるのかと。
けれど、この人はそうは言わなかった。
お前の手でやりたいことを、やれるように。
それは――今日、自分が下町でつかんだものとまっすぐにつながっていた。
「……ずるい方ですわね」
セレナは、思わず、そう呟いた。
「なんだと」
「いいえ、なんでも」
頬が、また熱くなりそうだったので、セレナはくるりと背を向けた。
棚の上では、コハクが丸くなって寝息を立てている。
その小さな背を撫でながら、セレナはそっと息を吐いた。
自分の手で、自分の名前で、生きていく。
その道が、ほんの少しだけ見えた気がした。
だから、もう迷わない。
政略のお返事も、近いうちに、自分の言葉でいたしましょう。誰かに身分を授けられるためではなく、自分の足で立つために。
そう胸の内で決めると、つかえていたものが、すっと軽くなった。
背を向けたまま、セレナは小さく笑った。
今日はじめて、自分の名前で誰かに必要とされた、その温かさを思い出しながら。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。相川ことねです。
第七話「自分の手で」、いかがでしたか。前回はエルデンの暗い王宮でしたので、今回はまた、カルディアのセレナのもとへ戻ってまいりました。
身分も鑑札もないセレナは、本当なら、薬を出してはいけません。けれど、目の前で子どもが苦しんでいたら? 「許しがないから」と見捨てるのが、薬師でしょうか。セレナの答えは、迷ったうえでの「ノー」でした。
そしてこの回で、セレナは初めて、自分の「名前」で呼ばれます。王宮で七年、彼女はただの「薬係」でした。誰も、淹れているのが「セレナ」だなんて、気にも留めなかった。だからこそ、ひとりの母親が必死に「セレナ様」と呼んだあの瞬間が、彼女には、何よりの宝物だったのです。
ジェラルドの「身分をくれてやりたいんじゃない、お前の手でやりたいことをやれるようにしてやりたい」――この不器用な一言も、よかったら覚えておいてください。
さて、いよいよ次回、第八話「早馬」。第一アークの結びです。自分の手で生きると決めたセレナのもとへ、捨てたはずのエルデンから、思いがけない報せが届きます。どうぞ、続けてお付き合いくださいませ。
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