表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/11

第6話: 認めない朝

 王宮の朝は、いつも決まった形で巡ってくる。


 日が昇り、湯が運ばれ、王太子は健やかに目を覚ます。


 その「決まった形」を毎朝そっと整えていた者がいたことなど、アロイス・エルデンは考えたこともなかった。


 その朝も、アロイスは寝台の中で目を覚まし、すぐに何かがおかしいと思った。


 体が重い。


 胸の奥で、心の臓がいつもより速く打っている。それも妙に不揃いに。


 指先が、こまかく震えていた。


 喉は、からからに渇いている。


 手の甲で目をこすると、まぶたが鉛のように重い。鏡を見るまでもなかった。目の下に青いくまが浮いているのが分かる。


 ここ数日、ずっとこうだった。


「……寝相が悪かっただけだ」


 アロイスは声に出してそう言った。


 言葉にすれば、そういうことになる気がした。


「殿下、お目覚めでございますか」


 従者が、銀の盆に薬湯を載せて運んでくる。


 湯気の立つ椀を差し出されて、アロイスは半身を起こした。たったそれだけで軽く息が切れた。


「……新しい薬師は」


「は。控えております」


「呼べ」


 ほどなく、若い男が部屋に入ってきた。


 セレナのあとに召し抱えた、新しい宮廷薬師だ。生真面目そうな顔をして、手だけが落ち着きなく動いていた。


 アロイスは椀をひと口すすって、顔をしかめた。


「……苦いな」


「は。古くより滋養を高めるとされる根を、念入りに煎じております」


「効いておらん」


 男の肩が、びくりと跳ねた。


「動悸が止まらん。指の震えも、喉の渇きも、何ひとつだ。お前、本当に薬師か」


「お、恐れながら――」


 男は、青い顔で言葉を探した。


「処方は、すべて医書の通りにございます。滋養の根、気を鎮める葉、血を巡らせる実。どれも定石どおりに。……ただ」


「ただ、なんだ」


「殿下のお体は、ふつうの薬が効かないようでして……」


 アロイスは、椀を盆に叩きつけるように戻した。


「言い訳をするな。下がれ」


 男は、逃げるように退がっていった。


 ひとり残されて、アロイスはぬるくなった薬湯を見下ろした。


 前の薬は、こうではなかった。


 あの女の――セレナの淹れた薬湯は、口に含むと、すっと体の芯に届いた。気づけば動悸は鎮まり、頭は冴えていた。


 もっとも、あんなものは誰が淹れても同じだとアロイスは思っている。


 薬など、しょせんは薬だ。草を煮出した汁にすぎない。


 たまたま新しい薬師の腕が悪いだけだろう。慣れれば、じきに体も馴染む。


 そう、自分に言い聞かせた。


 認めるわけには、いかなかった。


 あの薬屋あがりの女がいなくなったとたん、自分の朝が狂いはじめた――そんなことを認めてたまるか。




 昼前、ミレーヌが部屋を訪れた。


 白い衣に身を包んだ聖女は、アロイスの顔を見るなり形のよい眉をひそめた。


「まあ、殿下。お顔の色がちっともすぐれませんわ」


「……少し、寝足りないだけだ」


「いけませんわ。わたくしが、祈って差し上げます」


 ミレーヌはアロイスの枕元にひざまずくと、両手を胸の前で組んだ。


 長いまつげを伏せ、うっとりとした声で祈りを唱えはじめる。


「慈悲ふかき光よ。どうか、この尊きお方の苦しみを痛みごと溶かしてくださいませ……」


 その声は、たしかに美しかった。


 歌うようで、香のように甘い。


 けれど、どれだけ祈りが続いてもアロイスの動悸はひとつも鎮まらなかった。


 指の震えも、止まらない。


「……ミレーヌ」


「はい、殿下」


「まだか」


「光が降りてくるまでには、少し、時がかかるのです」


 彼女は言い訳のようにそう言って、もう一度目を閉じた。


 祈りが、また始まる。今度のは、さっきより少し早口だった。


 組んだ指の先が、こわばっている。その額にうっすらと汗が浮いているのを、アロイスは見た。


「もうよい」


 アロイスが手を振ると、ミレーヌの肩がぴくりと揺れた。


「……効いておらんではないか」


「そ、そんなはずは」


 彼女の声が、初めてわずかに尖った。


 けれど彼女はすぐにその尖りを呑み込んで、いつもの慈愛の笑みを取りつくろった。


「ご安心くださいまし、殿下。お加減がすぐれないのは、あの薬屋あがりの女が盛った悪い薬の名残ですわ」


「……あの女が?」


「ええ。その毒が、いま抜けていくところ。膿を出しきってしまえば、じきに良くなりますとも。わたくしの祈りが、ちゃんと悪いものを追い出しておりますの」


「……そうか。そうだな」


 その言葉に、アロイスはほっとした。


 そうだ。悪いのは、あの女だ。


 自分でも、おかしいとは思っていた。けれど、こうして誰かが「お前は悪くない」と言ってくれると、それがいちばんしっくりくる。


 アロイスは、ミレーヌの白い手を握った。


「お前がいてくれて、よかった」


「まあ、殿下ったら」


 ミレーヌは、にっこりと笑った。


 けれど、その笑みの下で彼女の指先がまだこわばっていることには――アロイスは、ついぞ気づかなかった。




 夕刻、宰相ヴァルターがひとりで部屋を訪れた。


 白髪を撫でつけた、痩せた老人だ。声を荒げたことのない男だった。


 ヴァルターはアロイスの顔を、長いこと静かに見ていた。


「殿下。お加減は」


「……問題ない。少し、疲れているだけだ」


 ヴァルターは、すぐには何も言わなかった。


 ただ、アロイスの手元へちらりと目をやる。


 その視線を追って、アロイスは初めて気づいた。自分の指が、無意識に爪の生え際を擦っていることに。


 あわてて手を止める。けれど、ヴァルターはもうそれを見てしまっていた。


「殿下。ひとつ、お尋ねしても」


「なんだ」


「夜は、お眠りになれておりますか。喉の渇きは。胸の高鳴りは」


 ひとつひとつ、確かめるような問いだった。


 アロイスは、思わず黙った。まるで症状を、先に全部言い当てられたようだった。


「……なぜ、それを」


「いえ」


 ヴァルターは、それ以上は言わなかった。


 ただ、その目の奥がほんの少し暗くなった気がした。


「殿下。しばらく、表の務めはお控えください。お体を、お休めになるのがよろしいかと」


「私は、病ではないぞ。寝足りないだけだと――」


「ええ。病では、ございません」


 ヴァルターはおだやかに、けれど有無を言わせぬ調子でそう繰り返した。


「病では、ない。ですから、なおのこと、表にはお出になりませんよう」


 アロイスには、その言葉の意味がよく分からなかった。


 病でないなら、なぜ表に出てはいけないのか。


「ヴァルター。はっきり言え。私の体は、どうなっている」


「殿下が、お気になさることではございません」


 老宰相の声は、あくまで静かだった。


「これは、エルデンの王家が代々抱えてきたことです。歴代の陛下が、そうしてこられたように。殿下も、ただ私にお任せくだされば、よろしいのです」


「……代々?」


「ええ」


 ヴァルターは、それきり口を閉ざした。


 その横顔は、いつもより、ずっと疲れて見えた。長く重いものを、ひとりきりで背負ってきた者の顔だった。


 けれどアロイスには、その意味を問う言葉が、うまく見つからなかった。代々、とは何だ。私の体に、王家に、何があるというのだ。


 それでも、ヴァルターがそう言うのならそういうものなのだろう。昔から、この宰相の言うことに間違いはなかった。


「……分かった。国のため、だな」


「ええ。国のためです」


 ヴァルターは、ふかぶかと頭を下げた。


 退がりぎわ、ヴァルターは扉のところで足を止めた。


 そうして振り向かぬまま、ひとりごとのようにぽつりと言った。


「……あの薬師は、いま、どこにおりましたかな」


 その声は、いつもの宰相のものよりわずかに低かった。


 アロイスはその背に、なぜか冷たいものを感じた。


 それが何なのかを考えるより先に、ヴァルターは静かに扉を閉めて去っていった。


 ひとり残されたアロイスは、また指が爪を擦っているのに気づいてあわてて手を止めた。




 同じ夜。


 海をへだてたカルディアで、セレナは調薬室の机に向かっていた。


 ひらいているのは、古い覚え書きだ。


 政略結婚の返事を、そろそろ出さなければならない。


 筆を手にしたまま、セレナはふと手を止めた。


 なぜだろう。今夜は、やけに筆が乗らない。


 ふと、エルデンの王宮のことが、頭をよぎった。


 あの方は、いまごろ、どうしているかしら。


 毎朝の一服を、ちゃんと誰かが――。


 そこまで考えて、セレナは小さく首を振った。


「……いけない。もう、わたくしには関わりのないこと」


 あの王宮の朝は、もう自分の手を離れた。誰が淹れようと、それはあちらの問題だ。


 セレナは、覚え書きをそっと閉じた。


 これから自分がどう生きるのか。それを決めるのは、海のこちら側でのことだ。


 そう思って、筆を置く。


 ――けれど。


 セレナは、知らなかった。


 いまこの夜、海の向こうで、ひとりの老宰相が彼女の名を口にしたことを。


 そして、その名を追うように、一頭の早馬がまもなく海を渡ってこようとしていることを。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。相川ことねです。


第六話「認めない朝」、いかがでしたか。今回は趣を変えて、セレナを捨てた側――エルデンの王宮をのぞいてみました。


第一話でセレナが言い残した、あの予言を覚えておいででしょうか。「明日の朝は、ご自分で淹れてごらんになって」。あれが、いま、静かに当たりはじめています。アロイスの朝は崩れ、新しい薬師の薬も、聖女ミレーヌの祈りも、何ひとつ癒さない。なのに、本人だけがそれを認めない。読者の皆さまだけが、その理由をご存じというわけです。


そして宰相ヴァルター。彼は、ただ意地の悪い悪役ではありません。彼には彼の守りたいものがあり、誰よりも早く、アロイスの不調の「本当の意味」に気づいています。最後にぽつりとこぼした一言――「あの薬師は、いま、どこに」。この一言が、次の話を動かします。


海のこちら側のセレナは、まだ何も知りません。けれど、一頭の早馬が、もう、海を渡ろうとしています。


次回はいよいよ第一アークの結び、「早馬」。捨てた側が、ひと月もたずに縋ってくる――その報せが、カルディアのセレナのもとへ届きます。どうぞ、続けてお付き合いくださいませ。


☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、次話を書く励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ