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第5話: 動けない腕

 噂というものは、本人よりよほど足が速い。


 ひと晩のうちに公都の端まで駆けていって、勝手に尾ひれまでつけてくる。


 毒卓のことは、翌朝にはもう井戸端の話になっていた。


 二国の戦を、流れの薬師がたった一人で防いだのだ、と。


 ――もっとも。


 噂がどれだけ速く走ったところで、その先の扉をひとつでも開けてくれるわけではないのだけれど。




 それからの数日、調薬室の前には毎朝、人が並んだ。


 咳の止まらない老人。乳の出ない若い母親。指を切った職人。


 みな、毒卓の薬師に診てほしいのだという。


 セレナはそのひとりひとりに、頭を下げて詫びた。


「申し訳ございません。わたくし、まだこの国で薬を商う許しをいただいておりませんの」


 嘘ではなかった。


 セレナはエルデンを追われた身で、カルディアではただの客分にすぎない。


 身分もなければ、薬師の鑑札もない。鑑札というのは、この国で薬を商ってよいという、お上の許しのことだ。


 よその国の女が勝手に薬を売れば、それは立派な罪になる。


 咳の老人には、せめてもと白湯の飲み方だけを教えて、そっと帰した。


 その背中を見送って、セレナは小さく息を吐く。


「……腕だけは、あるんですのにね」


「セレナ様、すごい人気じゃないですか!」


 水を汲んできたリタが、目を輝かせた。


「公都じゅう、セレナ様の話でもちきりですよ。あたしまで鼻が高くって」


「あら、嬉しいこと。……でも、ね、リタ」


 セレナは、人の消えた路地へ目をやった。


「評判だけ立派でも、あの方たちの咳ひとつ、わたくしには止められませんのよ」


「どうしてです? あんなにすごいのに」


「腕の話と、身分の話は、べつものですもの」


 セレナは、指を一本立てた。


「どんなによく切れる包丁でも、台所に立つ許しがなければ、ただの鉄ですわ」


「……あー。なるほど」


 リタが、なんともいえない顔をする。


「世の中って、むずかしいんですね」


「ええ。ほんとうに」




 そんなある日の午後、セレナはジェラルドから公館へ呼ばれた。


 毒卓の後始末について話がある、とのことだった。


 通された一室には、先客がいた。


 でっぷりと肥えた、白髪まじりの貴族だ。名をボルク卿という。


 カルディアでも指折りの古い家柄の人だと、案内の者が小声で教えてくれた。


 ボルク卿はセレナを上から下まで眺めると、ふんと鼻を鳴らした。


「これが、噂の薬師か」


 値踏みするような目だった。


「素性も知れぬ流れ者を、二国の毒見の席に出すとはな。カルディアも地に落ちたものよ」


「ボルク卿」


 部屋の奥から、低い声がした。ジェラルドだ。


「彼女がいなければ、あの席で死人が出ていた」


「ふん。まぐれであろう」


 ボルク卿は、たるんだ顎をしゃくった。


「薬草を煎じるなど、どこの婆でもやることだ。たまたま一度当てたぐらいで、英雄気取りとはな」


 どこの婆でも、やること。


 その言葉を、セレナは前にも聞いたことがあった。


 あのときは、黙って門を出た。


 けれど今日のわたくしは、ほんの少しだけ、機嫌が悪い。きっと、ゆうべよく眠れなかったせいだ。


「おっしゃる通りですわ、ボルク卿」


 セレナは、にっこりと笑った。


「薬草を煎じるなんて、どこの婆さまにもできること。……たとえば、卿のその右のお足。痛みますでしょう?」


 ボルク卿の眉が、ぴくりと跳ねた。


「親指の付け根が、夜ごと焼けるように疼く。脂ののったお肉と甘いお酒がお好きですわね。お顔の赤みと、その歩き方で分かりますの」


「な――」


「ご安心くださいまし。どこの婆さまでも煎じられる、ありふれた草で和らぎますわ」


 セレナは、ことさら優しく続けた。


「ただ、どの草をどれだけ煎じるか。それを取り違えると、かえって毒になりますのよ。……どこの婆さまでも、できるかしら?」


 部屋が、しんとなった。


 それから、隅に控えていた若い文官がぷっと吹き出した。


 ボルク卿の顔が、見る間に赤黒くなっていく。


「ぶ、無礼な! 小娘がっ」


「あら、失礼を。つい、職業柄」


 セレナは、しとやかに頭を下げた。


「どうぞ、お大事になさってくださいまし」


 ボルク卿は何か言い返そうとして、けれど言葉が見つからなかったらしい。


 もう一度荒く鼻を鳴らすと、足を引きずるようにして部屋を出ていった。


 その後ろ姿が扉の向こうに消えてから、ジェラルドがぼそりと言った。


「……容赦がないな」


「だって、向こうが先に、わたくしの大事なものを“どこの婆でも”と言ったんですもの」


 セレナは、ふっと笑みを消した。


「……でも、ね、ジェラルドさま」


 窓の外へ、目を向ける。


「ああして一矢報いたところで、わたくしがこの国で薬を出せないことは、何ひとつ変わりませんの」


 ボルク卿のような人は、これからいくらでも現れるだろう。


 素性も知れぬ流れ者。身分のない女。


 その言葉は、機知では拭えない。腕では、どうにもならない。


「だから、呼んだ」


 ジェラルドが、まっすぐにセレナを見た。


「公王が、お前に身分を与えると言っている」


「……身分?」


「毒卓で二国の戦を防いだ薬師を、素性のない客分のままにはしておけん。公王はそう言われた」


 ジェラルドは、一度言葉を切った。


「しかるべき家名と薬師の席を、お前に与える」


 セレナは、思わず目をみはった。


 家名。薬師の席。


 ついさっきボルク卿に「流れ者」と詰られたばかりの自分には、夢のような言葉だった。


 その身分さえあれば。


 あの路地に並んでいた人たちの咳を、堂々と止めてやれる。


「……ただ」


 ジェラルドの声が、ほんの少し硬くなった。


「身分のない女に、いきなり家名は渡せん。形がいる」


「形、とおっしゃいますと?」


「縁づくことだ」


 セレナは、ぱちりと瞬きをした。


「縁づく――つまり、政略結婚、ということですの?」


「そうだ」


「まあ」


 政略結婚で身分を得る。話としては、分かる。


 けれど、とセレナは思う。


 相手によっては、得られる身分など、たかが知れている。


「失礼ですけれど、ジェラルドさま。お相手は、どなたですの?」


 ジェラルドは、すぐには答えなかった。


 めずらしく、視線がふいと逸れる。


「……俺だ」


「……はい?」


 俺だ、と彼は言った。


 目の前のこの、ただの使者が。


 セレナの頭の中で、薬師の理屈がかちりと音を立てた。


 おかしい。


 ただの使者に嫁いだところで、家名も、薬師の席も、手に入るはずがない。


 なのにこの人は、それを「与える」と言う。まるで与える力が、自分の手のうちにあるかのように。


 毒卓でたった一声で衛兵を止めた、あの背中がよみがえる。


 懐に隠れていた、紋章らしき光も。


 ――この方は、本当に、ただの使者なのかしら。


 その問いが、また胸の隅で頭をもたげた。


 けれどセレナは、それをいつものようにそっと押し戻す。


 いまは、踏み込んでいい場所ではない。


「……いやなら、断っていい」


 ジェラルドが、ぼそりと言った。


「政略だ。だが、無理強いはせん。俺は、お前が決めたことを尊重する」


 セレナは、すぐには答えられなかった。


 身分が手に入れば、腕が動く。動けない腕に、足が生える。


 それは、喉から手が出るほど欲しいものだった。


 けれど。


 誰かに身分を授けられて、誰かの妻になる。


 それは結局、また「誰かの薬係」に戻るということではないのか。


 七年つくった一服を「誰でもできる」と切り捨てられた、あの朝のように。


 いいえ、とセレナは思い直す。


 ジェラルドさまは、アロイスさまとはちがう。


 この人は、わたくしの腕を「どうでもいい」とは、言わなかった。


 それでも――。


「少し、考えさせてくださいまし」


 そう言うのが、精いっぱいだった。


「これは、わたくしのこれから全部にかかわることですもの。一晩で決めるには、ちょっと大きすぎますわ」


「ああ。急ぐ話ではない」


 ジェラルドは、頷いた。


「ゆっくり、決めろ」




 公館からの帰り道は、来たときよりずっと足が重かった。


 調薬室に帰ると、リタが甘い匂いのするものを焼いて待っていた。


 セレナは、椅子に腰を下ろすなり、机にぱたりと突っ伏した。


「……リタぁ」


「うわ、めずらしい。どうしたんですか、そのお声」


「世の中って、どうしてこう、ままならないのかしら」


「はいはい。とりあえず、これでも召し上がってください」


 リタが、焼きたての蜂蜜のお菓子を、ことりと置いた。


 セレナは突っ伏したまま、横目でそれを見る。


「……二ついただいても?」


「ぜんぶ食べていいですよ」


「リタ。あなた、いい子ね」


 むくりと起き上がって、お菓子をひとつ口に放り込む。


 甘さがじんわりと胃の底に広がっていった。


 不思議なもので、それだけで絡まっていたものが少しほどける。


「身分をあげる、って言われたの。代わりに、お嫁にいきなさい、って」


「えっ、けっこんっ?!」


 リタが、汲んだばかりの水をこぼしかけた。


「だ、誰とですか、誰と!」


「それは、ね……まだ、内緒」


「ええー、気になるじゃないですか!」


「ふふ。じつは、わたくしも気になっておりますの」


 セレナは、お菓子のかけらを指でつまんだ。


「あの人が、本当は何者なのか」


 膝の上に、いつのまにかコハクがよじ登ってきていた。


 お菓子のかけらを狙って、小さな鼻をひくひくさせている。


「あなたは、いいわねえ。身分も政略も、何ひとつ関わりがなくて」


 セレナは、その琥珀色の背をそっと撫でた。


 腕はある。


 けれど、その腕を振るう場所が、ない。


 動けない腕に足を生やす道が、いま、目の前に差し出されている。


 ただ、その道の先で、自分が何になるのか。


 それだけが、まだ、見えなかった。


 窓の外では、公都の灯りがひとつ、またひとつと灯りはじめている。


 その灯りのどこかで、今夜も誰かが咳をしているのだろう。


 いつか、堂々とあの人たちの前に立てる日が来るのなら。


 その日のわたくしは誰の薬係でもなく、わたくしの名前で薬を淹れていたい。


 セレナは、ひとつ小さく頷いた。


 決断は、まだ。


 けれど、譲れないものだけははっきりと分かった気がした。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。相川ことねです。


第五話「動けない腕」、いかがでしたか。前回の毒卓で、セレナは一気に公都の有名人になりました。けれど、有名になることと、自由に動けることは、べつもの。腕はあるのに、身分がないせいで、目の前の患者ひとり堂々と診られない――今回は、その「ままならなさ」を書きたかった回です。


ボルク卿への一矢、すっとしていただけたら嬉しいです。ただ、セレナがどれだけ機知で勝っても、立場の壁そのものは、言葉では崩れません。そこへ差し出された「政略結婚」という出口。身分が手に入れば、腕は動く。でもそれは、彼女がずっと逃れたかった「誰かの薬係」に、また戻ることでもあって。


そしてお相手の、あの煮え切らない態度。「ただの使者」が、なぜ身分を「与えられる」のか。賢いセレナは、ちゃんと引っかかっています。詮索しないだけで。


次回は趣を変えて、海の向こう――エルデンの王宮をのぞいてみます。セレナのいなくなった朝が、いま、どうなっているのか。どうぞ、続けてお付き合いくださいませ。


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