第4話: 毒卓
毒は、いちばん豪華な皿に隠れたがる。
飾りの多い皿ほど客は喜んで手を伸ばす。怪しむ者も少ない。格好の隠れ家なのだ。
そういう皿が今夜はずらりと卓に並んでいた。
金の燭台。湯気を立てる肉。水菓子の山。どれもため息が出るほど美しい。
カルディアとエルデン。長く睨み合ってきた二つの国がひとつの卓を囲んでいる。両国の縁談をまとめるための、外交の宴だった。
人はこの席を毒卓と呼ぶ。
セレナ・フェアミルはその卓のいちばん端に控えていた。
客ではない。今夜の役目は毒見役だ。
どの皿に毒が眠っているか、誰にも分からない。だから客より先に、毒見役がすべてを舌で検める。
卓を囲む誰もが、笑っていた。
笑みの下で、向かいの国の手元を、目の端で数えながら。
杯の触れ合う音さえ、今夜はどこか硬かった。
セレナの席はジェラルドのすぐ後ろにあった。
卓にはカルディアお抱えの毒見役がもう一人いる。白髭の老人で名をバルトといった。儀礼にのっとり皿のひとつひとつを先に検める役だ。
セレナはその補佐ということになっている。
ほんとうのところは少しちがう。
ジェラルドがわざわざ拾った薬師を自分の後ろに置いた。それだけのことだ。
「ただの使者にしては、ずいぶんと厚遇だこと」
胸の内でそう呟いて、セレナはすぐにその考えを脇へどけた。いまは卓のことだけ考えればいい。
襟の合わせがほんのり温かい。
そこにコハクが丸まっている。
毒見役が獣を懐に忍ばせるなど、本来は行儀の悪い話だ。
けれどこの子の鼻は人のそれより早く危ないものを嗅ぎ当てる。連れてこない手はなかった。
もっとも本人は宴のいい匂いに釣られてついてきただけ、という顔をしているのだけれど。
「いい子にしておいでなさい。お肉はあとで」
囁くと、襟の中の小さな鼻がふんと一度だけ鳴った。
宴が始まった。
ジェラルドの斜め後ろにはテオも控えていた。
主人が無口なぶん、こういう席ではこの男が口を回す。今日ばかりは神妙な顔をしていたが。
「先生」
テオが声をひそめた。
「正直、俺はこういう堅っ苦しい席が大の苦手でして」
「あら。顔に書いてありますわ。さっきから笑顔が貼りついて、剥がれそうですもの」
「うわ、ばれてる」
テオが口の端だけで笑った。
「先生は平気なんですか。二国のお偉いさんが、ずらっと睨み合ってるんですよ」
「平気ですわ。だって、わたくしの見るところは人ではなくお皿ですもの」
「……ああ、なるほど。職人ってのは強いな」
その軽口ひとつで張りつめた肩からほんの少し力が抜けた。
料理が次々と運ばれてくる。
そのたびに老毒見役のバルトが進み出た。皿からほんの一口。杯からほんの一滴。
舌の上で転がし、目を閉じて待つ。それからひとつ頷く。
「――滞りなく」
低い声が告げるたび卓の張りがわずかにゆるんだ。
「あの爺さん、すごいでしょう」
テオがまた囁いた。
「カルディア一の毒見役って評判で。三十年、一度も毒を見落としたことがないとか」
「まあ。それは大したものですわね」
セレナは素直にそう言った。本心だった。
「でもね、テオさん」
彼女はほんの少し声を落とした。
「舌は、いちばん遅いんですのよ」
「遅い?」
「ええ。毒はね、舌に届く前にいくつも兆しを残していきますの。匂い。色。器の曇り。口にした人の、ほんのわずかな顔いろ」
セレナの視線が卓の上をゆっくりとなぞる。
「それを全部拾ってこそ毒見役。舌だけに頼るのはいちばん最後ですわ」
「……先生、やっぱりちょっとこわいです」
「あら、ひどい」
ふふ、と笑って、ふと卓の隅へ目をやる。
「それより、あちらの蜂蜜をかけたお菓子。あれ、毒見が済んだら一ついただけないかしら」
「先生。いま、命がけの席ですよ?」
「だって、いい匂いがするんですもの。コハクも、さっきからそわそわしておりますし」
「……あんたら、ほんとにいい度胸してますね」
セレナは杯の並ぶ卓へ、視線を戻した。
やがて宴がひとつの山を迎えた。
両国の友好を誓う、献杯の時だ。
給仕たちが銀の水差しを捧げ持って卓を回る。深い赤の酒が客人たちの杯へ満たされていく。
ジェラルドの前にも杯が置かれた。
バルトが進み出る。いつものように、客人の杯をひとつずつ先に検めていった。
老人はジェラルドの杯にも口をつけた。
ほんの一滴。舌で転がし、目を閉じる。しばらくして頷いた。
「――滞りなく」
杯がジェラルドの手元へ戻される。
その時だった。
セレナの襟の中で、コハクがびくりと体を強張らせた。
次の瞬間、小さな鼻が酒のほうへ向きかけて――ぷいと背けられた。
全身の毛がつんと逆立つのが布越しに伝わってくる。
あの仕草だ。
調薬室で棚に紛れたトリカブトを嗅ぎ当てた、あの時とまったく同じ。
セレナの中で薬師の頭がかちりと回り始めた。
コハクが教えてくれるのはここまで。危ない匂いがする、というところまでだ。
その先で毒の正体を見極めるのは、七年分の覚え書きの仕事だった。
セレナはジェラルドの杯に目を凝らした。
深紅の酒。表面が妙に静かだ。
よく見れば、ふちにうっすらと脂のような膜が浮いている。
匂いを探る。葡萄の甘さの底に、ごく薄く土くさい苦みが沈んでいた。
バルトの舌はこれを拾えなかった。
無理もない。一滴では、苦みはまだ目を覚ましていない。
けれど満たされた一杯を飲み干せば――。
卓の上座でカルディアの宴主が立ち上がった。
「では、両国の末永き友好を願って――献杯」
杯がいっせいに掲げられる。
ジェラルドの手も杯へ伸びた。
考えるより先に、セレナの体が動いていた。
「いけません!」
短く叫んで、ジェラルドの手元へ手を伸ばす。
ぱしりと杯を払い落とした。
深紅の酒が宙に弧を描く。
その雫のいくつかがセレナの頬と唇にぴしりと散った。
卓が凍りついた。
次の刹那、ざわりと殺気が膨れ上がる。
「曲者!」「賓客の杯を――!」
控えていた衛兵が、抜きかけた剣を手にいっせいにセレナへ詰め寄った。
その腕がセレナの肩に届くより早く。
ジェラルドが動いた。
彼女の腕を強く引き、自分の背へ庇う。もう一方の手は衛兵たちの前にすっと突き出されていた。
「待て」
たった一言だった。
けれど、その声に抜きかけた剣がぴたりと止まった。
ただの使者の一声で、武装した衛兵が止まる。
そんなはずはない。
けれど、いまそれを考えている暇はなかった。
「な、なんという無礼を!」
卓の向こうで、エルデンの使者が顔を真っ赤にして立ち上がった。
「カルディアは、賓客の献杯を女の手で叩き落とすのか! これが――これが友好の作法か!」
ジェラルドの背の陰で、セレナはそっと唇の雫を舌に乗せた。
葡萄の甘さ。その後ろから、苦みがゆっくりと這い上がってくる。
遅い。
鈴蘭なら、苦みはもっと早く鋭く来る。これはちがう。
セレナの視線が老毒見役のバルトへ走った。
老人は卓の端で片手を喉に当ててふらりとよろめいていた。
顔いろが土気いろに沈んでいる。卓についた手の爪の生え際が、うっすらと青みがかっていた。
間に合わなかったのはこの人だ。
さっき、一滴を舐めた。一滴でも時が経てば、毒は目を覚ます。
セレナはジェラルドの背からすっと前へ出た。
もう、迷いはなかった。
「あら。……これ、苦みの引きが遅いんですのね」
まるで出されたお茶の味でも言うような調子だった。
「鈴蘭ではありませんわ。爪の色と、この季節」
ひとつ、息を継ぐ。
「痺れ草――トリカブトの根ですわ」
卓の誰もが言葉を失っていた。
「三年前に同じものを舐めましたもの。よく覚えてますわ」
舐めて覚えなさい。苦みの引き、痺れの順、爪の色を。
舌と指で覚えたものは、けっして裏切らない。
そう仕込んだ師はもういない。けれど、その教えはこうしてセレナの舌の上に残っている。
「毒だ」
ジェラルドが低く言い放った。
「この席に毒が盛られていた。彼女がいなければ、いま倒れていたのは俺だ」
その一言でエルデンの使者の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「……お、お待ちを。では、その杯に本当に」
「お疑いなら、そこの毒見役をご覧くださいまし」
セレナはもう動き出していた。
「あの方、いま毒に呑まれかけておりますわ。儀礼の一滴が、ようやく牙を剥いたんですの」
言い終えるより早くセレナはバルトのそばへ駆け寄っていた。
腰の薬包を解く。毒見役の役には、いつも一式を提げている。
「お爺さま、しっかりなさって。まだ間に合いますわ」
「テオさん!」
振り向きざま、鋭く呼んだ。
「お湯を。それと、なるべく濃い乳を。急いで!」
「は、はいっ」
いつものふざけた顔はどこへやら、テオが弾かれたように駆け出した。
セレナは老人の口を開かせ、指を喉の奥へ入れて、飲んだものを吐かせる。
それから水で溶いた黒い粉を含ませた。
「これは炭ですの。悪いものを吸い取ってくれますわ。……そう、ゆっくりでよろしいのよ」
吐かせて、炭を含ませ、運ばれた温かい乳で胃をなだめる。
手首をとって脈を確かめる。手足をさすって血を巡らせる。
「お爺さま、聞こえまして? 痺れているのは指先だけ。心の臓は、まだちゃんと打っておりますわ。大丈夫」
「……あ、あんた、いったい」
「ただの、薬屋あがりですわ」
セレナはふっと笑った。
やがて土気いろだったバルトの頬に、わずかな赤みが戻ってきた。荒かった息が少しずつ深くなっていく。
「……た、助かった、のか」
「ええ。じきに痺れも引きますわ。今夜は温かくして、お休みなさいまし」
卓を、長い沈黙が満たした。
誰も、もう、無礼だとは言わなかった。
叩き落とされた杯が、もし口に運ばれていたら。満たされた一杯を、ジェラルドが飲み干していたら。
その先に何が待っていたかを、誰もがようやく思い至った。
重い沈黙を破ったのはテオだった。
「……いやー、まいった」
胸を撫でおろすように、大きく息を吐く。
「先生。毒見役ってのは、口で毒を見るもんでしょう。手で叩き落とすのは、俺も初めて見ましたよ」
「あら。行儀が悪かったかしら」
「最高に行儀が悪かったです。……おかげで、命拾いしましたけどね」
その軽口に張りつめた広間の空気がようやくほどけた。
あちこちで、詰めていた息を吐く音がする。
誰かが小さく笑い、それが伝わって強張った顔がひとつずつやわらいでいった。
あとで分かったことだが、酒を注いで回った給仕の一人が、いつのまにか姿を消していた。
誰が、何のために、ジェラルドの杯を狙ったのか。それは、その夜には分からなかった。
宴は取りやめになった。
ざわめきが引いて、人のまばらになった広間でジェラルドがセレナのそばへ来た。
「……怪我は」
「ございませんわ。ほんの数滴、頬にかかっただけ。きちんと拭きましたもの、ご心配なく」
ジェラルドはそれでも彼女の頬をじっと見た。雫の散った跡を確かめるように。
「お前は」
彼がぼそりと言った。
「自分の杯でもないのに、人のためにまっさきに手を出した」
「だって、飲んだら危のうございますもの。薬師として、見過ごせませんわ」
「……腕のことは、知らん」
ジェラルドの声が、いつもより少し低かった。
「腕のことは知らん。お前が、無事かどうかだ」
セレナは一瞬、言葉を失った。
腕を褒められたのではない。助けたことに礼を言われたのでもない。
ただ、無事か、と。
それだけのことが、なぜだか、献杯のどんな美酒よりも、すとんと胸に落ちた。
「……まあ。ご使者さまにご心配いただけるなんて、わたくし出世いたしましたわね」
わざと、おどけて言った。
そうでもしないと、頬のあたりが妙に熱くなりそうだったから。
「すまなかったな」
ジェラルドがふいと顔をそむけて言う。
「お前を、危ない席に出した」
「あら、とんでもない。久しぶりに腕が鳴って、楽しゅうございましたわ」
「……お前は、変わった女だな」
「よく言われますの」
ジェラルドの耳が、ほんの少し赤い気がしたのは――きっと、燭台の灯りのせいだろう。
それにしても、とセレナは思う。
なぜ、よりにもよって、ジェラルドの杯だったのか。
ただの使者の命を、ここまでして狙う者がいるだろうか。
さっき、杯が宙を飛んだ、あの一瞬。
いつも軽口ばかりのテオが、蒼ざめた顔で椅子から腰を浮かせ、卓に手をついたまま固まっていた。
ただの主人の危機に、あれほど取り乱す側仕えがいるだろうか。
考えても、答えは出ない。いまの自分が踏み込んでいい場所でもない。
セレナはその問いを覚え書きの隅に、そっとしまっておくことにした。
けれど、ひとつだけ、しまっておけないものがあった。
今夜この広間にいた者は皆、見てしまったのだ。
よその国から流れてきた薬師の女が、毒見役も見抜けぬ毒を、お茶の味でも言うように当ててのけた、その手を。
腕を、見られた。
それは、薬師にとって何よりの誉れのはずだった。
なのにセレナの胸には、かすかな、けれど拭えない不安が残った。
追われた身の、よその国の女が、二国の運命のかかった卓で、これほど目立ってしまった。
目立つということは、時に、危うい。
襟の中で、コハクがもぞりと身じろぎした。
今夜の手柄など、ちっとも分かっていない顔で、宴のいい匂いのするほうへ、しきりに鼻を伸ばしている。
「……あなたは、本当にいい鼻をしておりますわね」
セレナはその小さな頭を指先で撫でた。
「おかげで、大事な人をひとり死なせずにすみましたわ」
言ってから、大事な人、という言葉が、自分でも少し意外で。
セレナはこっそり、頬を膨らませた。
その夜のことは、翌朝にはもう、公都じゅうに広まっていた。
毒卓で二国の戦を防いだ、流れの薬師。
そして数日のうちに、その薬師のもとへ、思いもよらぬ話が舞い込むことになる。
――身分のない女を、これからも卓につかせるわけにはいかない。ならば、しかるべき身分を。
それがどういう形でやってくるのか。このときのセレナは、まだ知らなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。相川ことねです。
第四話「毒卓」、いかがでしたか。第一アークの、いちばんの山場として書いた回です。二つの国の運命がかかった張り詰めた席で、セレナとコハクの初仕事が、いよいよ火を噴きました。
毒を当てる場面で、ぜひ覚えておいてほしいことがあります。コハクが教えてくれたのは「危ない匂いがする」ところまで。それが何の毒で、どう打ち消すのかを決めたのは、セレナの七年分の覚え書きです。鼻のきく相棒と、舐めて覚えた腕。その二つがそろって、はじめて一人前。前回の幕間でお約束した「初仕事」が、こういう形になりました。
そしてもうひとつ。とっさに杯を払ったセレナと、とっさに彼女を庇ったジェラルド。二人はまだ、おたがいが何者なのかを知りません。腕も、身分も知らないまま、ただ「無事か」と案じ合う――この二人の距離が、これからどう縮まっていくのか。じれったく見守っていただけたら嬉しいです。
次回は「動けない腕」。毒卓で目立ってしまったセレナのもとに、思いもよらない話が舞い込みます。腕を見られるということは、誉れであると同時に、少しだけ危ういことでもあって。どうぞ、続けてお付き合いくださいませ。
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