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第3.5話: コハク、調薬室に来る

 拾われた者には、恩の返し方が二つあるらしい。


 一つは、黙って出ていくこと。


 もう一つは、居着いて、誰かの役に立つことだ。


 セレナ・フェアミルは迷わず後者を選んでいた。


 拾われて、まだ数日。それでも彼女はもう、この国の客分の薬師として働き始めている。


 そして今朝、そのセレナのところへも、もう一人――いや、もう一匹の、小さな拾われ客がやってきた。


 ボーデ家の薬種屋は、奥に小さな一室を構えていた。


 いまはそこが、セレナの調薬室になっている。


 腕で借りを返すと決めた彼女に、リタの家が貸してくれた仕事場だ。


 乳鉢と天秤、煎じ鍋。天井から吊るした、乾いた薬草の束。


 まだ物の少ない部屋だが、セレナにはもう、立派なお城に思えた。


 そのお城の戸が勢いよく開いたのは、朝の調薬の途中だった。


「先生! 先生、いますか!」


 飛び込んできたのは、案の定テオだった。


 両手で何かを大事そうに抱えている。


「あら、テオさん。朝から元気がよろしいこと」


「元気どころじゃないんですよ。これ、ちょっと見てもらえません?」


 テオが抱えていたものをそっと卓に置いた。


 古い布にくるまれた、小さなかたまり。


 布の隙間から、ふるりと震える琥珀色の毛が覗いた。


「……あら」


 セレナの手から、乳棒がぽとりと落ちた。


 布の中にいたのは、手のひらに乗るほどの小さな獣だった。


 細い体に、長い尾。先のとがった鼻が、ひくひくと動いている。


 毛は日に透けた蜂蜜のような、淡い琥珀色をしていた。


「イタチ……いえ、テンの仲間かしら。まあ、なんて可愛らしい」


「でしょう? 街の裏路地で、ぐったりしてたんですよ」


 テオが得意げに鼻をうごめかせた。


「鳴き声がか細くてね。ほっとけなくて拾ってきたんですけど、俺じゃ手当ての仕方がわからなくて」


「それで、わたくしのところへ」


「先生、薬師でしょ。それに……こいつ、なんでか先生の店の匂いを嗅いだ途端におとなしくなったんですよ」


 言われてみればたしかにそうだった。


 獣は布の中でしきりに鼻をひくつかせている。


 乾いた薬草の、青くさい匂い。


 その匂いのもとを探すように、小さな鼻先がセレナのほうへ向いた。


「……お腹が、すいているのね」


 セレナはふっと表情をやわらげた。


 弱った体は、まず温めて、少しずつ力を入れてやらねばならない。


 それは人も獣も、変わらないことだ。


 セレナは棚から小さな壺を取り出した。


 中身は蜂蜜だ。


 指の先にほんの少しすくって、獣の鼻先へ近づけてやる。


 とたん、琥珀色の鼻がぴくりと持ち上がった。


 次の瞬間、小さな舌がちろりと指先を舐めた。


「あら。お気に召したようですわね」


「うわ、現金なやつ。さっきまで死にそうな顔してたのに」


 獣は夢中になってセレナの指を舐めている。


 蜂蜜がよほど気に入ったらしい。


 舐め終えると、今度はもっとよこせとばかりに前足でちょいちょいと指をつついた。


「ふふ。甘えん坊さんですこと」


 セレナの胸の奥で、何かがふわりとほどけた。


 誰かに必要とされる。


 たとえそれが蜂蜜目当ての小さな獣であっても、悪い気はしないものだ。




 昼前になって、リタが調薬室を覗きにきた。


 手には、布をかけた小さな籠。


 例によって甘いものの差し入れである。


「あ、セレナ様」


 リタはもう、「お姉さん」とは呼ばなかった。


 昨日のうちに名前を聞いて、ちゃんと呼ぶことにしたらしい。


「お茶にしません? 干し杏を持って……って、あれ?」


 リタの足が、戸口でぴたりと止まった。


 卓の上で、琥珀色の獣が丸くなって眠っている。


「……えっ、なんですかその子! 可愛い!」


「テオさんの拾いものですの。弱っていたから、預かりましたのよ」


「テオさんが? へえ……あの人、ああ見えて、そういうとこあるんですよね」


 リタがそっと籠を置いて、獣を覗き込んだ。


 眠っていた獣が、薄目を開ける。


 黒くてまんまるな瞳がじっとリタを見上げた。


「うわ、目がまんまるです。……ねえセレナ様、この子、名前は?」


「まだですわ。さて、どういたしましょう」


 セレナは眠そうな獣の背を指先でそっと撫でた。


 陽の差す窓辺で、その毛がとろりと金色に光る。


 まるで、瓶の中の蜂蜜みたいだ。


「……コハク、なんていかが」


「コハク?」


「ええ。この子の毛、琥珀の色ですもの。それに――」


 セレナはいたずらっぽく笑った。


「蜂蜜の色でもありますわ。この子、蜂蜜に目がありませんから」


「ふふっ、ぴったり。コハク。いい名前です」


 名を呼ばれたのがわかったように、獣が――コハクがぴょこんと顔を上げた。


 そうして、とことこと卓の上を歩いてセレナの袖口にもぐり込もうとする。


「あらあら。気が早いこと」


「すっかり懐いてますね。さすが薬草の匂い」


 コハクはしばらくセレナの袖の中でおとなしくしていた。


 が、急にもぞもぞと這い出すと、棚のほうへ駆けていった。


「あら、どこへ」


 コハクはいちばん下の棚の前でぴたりと止まった。


 そうして、前足で床をかりかりと掻き始める。


「こら、コハク。お行儀が悪くてよ」


 セレナは止めようとして、ふと手を止めた。


 コハクが掘っているのは棚板の隙間だった。


 その細い前足が奥から何かを器用に掻き出す。


 ころん、と転がり出たのは、干からびた一本の根だった。


「……まあ。こんなところに」


 セレナはその根をつまみ上げた。


 いつか棚の奥に落ちたまま、忘れられていた薬草の根らしい。


「リタ、これ。落としたままになっていましたわよ」


「あ、ほんとだ。前にこぼしたやつかも。よく見つけましたね、その子」


「見つけた、というより……掘り当てた、というほうが近いかしら」


 セレナの目が薬師の目に変わった。


 イタチやテンの仲間は、土を掘って、木の根や虫をさがして食べる。


 地面の下の匂いを嗅ぎ当てる鋭い鼻を持っているのだ。


「この子、根を掘るのが得意なのね。薬草採りには、もってこいの才ですわ」


「えっ、薬草掘りの獣? そんなの聞いたことないですけど」


「ふふ。これからは、ありますわよ」




 午後になって、セレナは棚の薬草をひとつひとつ検めていた。


 近く控えた“毒卓”――二国の縁談をまとめる外交の宴。


 その毒見役を頼まれた以上、この店にどんな薬草と毒草があるのか、頭に入れておきたかった。


「セレナ様、まだやってるんですか。根を詰めすぎですよ」


「これも仕事のうちですわ。それに、楽しいんですもの」


 棚の薬草を手に取っては、匂いを嗅ぎ、色を検め、また戻す。


 コハクはその間ずっとセレナの肩に乗っていた。


 ときどき、薬包の紙をかりかりとかじろうとする。


「こら。それは食べ物ではありませんわよ」


 セレナが、束ねた根の包みをひとつ卓に広げたときだった。


 肩の上のコハクが、ふいにびくりと体を強張らせた。


「……コハク?」


 次の瞬間。


 コハクがふしゅっと小さなくしゃみをした。


 そして、ぷいと鼻をそむける。


 全身の毛が、つんと逆立っていた。


 コハクはセレナの肩から飛び降りると、卓の包みから後ずさりするように離れた。


「どうしたんでしょう、その子。急に」


 リタが不思議そうに首をかしげた。


「気まぐれ……ではなさそうですわね」


 セレナは笑みを引っ込めた。


 卓に広げた根を、もう一度じっと見つめる。


 ありふれた薬草の根。そう思って広げた包みだった。


 けれど、その中に。


 ほんの一本だけ、毛色の違う根が混じっている。


「……あら、あなた。お行儀が悪いこと」


 セレナはその一本を布越しにそっとつまみ上げた。


 素手では、触らない。


 節くれだった、白っぽい根。


 その断面にわずかに紫がかった筋が走っていた。


「これ、トリカブトですわ」


「トリ……?」


「トリカブト。猛毒の草の、根ですの」


 セレナは静かに言った。


「ほんの少し口にしただけで、痺れて動けなくなって……ひどいときには命を落としますわ。暗殺によく使われる、危ない草」


 リタの顔から、すっと血の気が引いた。


「えっ、そんなのが、なんでうちの薬草に……!」


「仕入れのときに、紛れ込んだのでしょうね。葉を落とした根だけだと、ふつうの薬草の根とよく似ていますもの」


 セレナはその根を、空いた瓶へ丁寧に移した。


 しっかりと栓をして、棚のいちばん高いところへ置く。


 子どもの手も、コハクの鼻も届かない場所だ。


「リタ。コハクが、教えてくれましたのよ」


「コハクが?」


「ええ。さっき鼻をそむけて、毛を逆立てたでしょう。あれは、嫌な匂いを嗅いだ獣の仕草ですわ」


 セレナは卓の下で縮こまっているコハクを、そっと抱き上げた。


 小さな体が、まだかすかに震えている。


「森の獣は、毒のあるものを匂いで嗅ぎ分けますの。食べたら危ないものを、本能で避けるのね」


「じゃあ、この子……毒が、わかるんですか?」


「ええ。たぶん、わたくしの鼻よりも、ずっと早く」


 セレナはコハクの背を、なだめるように撫でた。


 震えが、少しずつおさまっていく。


「でも、ね」


 彼女は、ふっと笑った。


「教えてくれるのは、ここまで。“嫌な匂いがする”まで、ですの」


「……というと?」


「それが何の毒で、どれくらい危ないか。どう打ち消せばいいか。そこから先は――」


 セレナは自分の胸に、とんと手を当てた。


「わたくしの、七年分の覚え書きの出番ですわ」


 その言葉に、嘘も、気負いもなかった。


 コハクの鼻が、危ないものの在りかを教える。


 その先で、毒の正体を見極め、人を救うのは薬師の仕事だ。


 二つがそろって、はじめて一人前。


「いい相棒が、できましたわね」


 セレナは腕の中のコハクに、そっと囁いた。




 夕方、テオがふたたび顔を出した。


「先生、チビの具合はどうです……って、うわ、すっかり元気じゃないですか」


 コハクはもう、セレナの肩の上で、我が物顔に毛づくろいをしている。


「おかげさまで。コハク、というお名前もつきましたのよ」


「コハク? へえ、いい名前。……って、俺が拾ったのに、名付けは先生ですか」


「あら。ご不満がおありなら、お返しいたしましょうか?」


「いやいやいや、めっそうもない」


 テオが大げさに両手を振った。


 その拍子に、コハクがぴゃっとセレナの髪へ潜り込む。


「あはは。完全に先生の子ですね、そりゃ」


 リタが横でけらけら笑った。


 調薬室に、夕日が差し込んでいる。


 乳鉢も天秤も、棚の薬草も、みんな金色に染まっていた。


 その金色のなかで、いちばん金色なのが、セレナの髪から覗くコハクの鼻先だった。


 ふと、セレナは棚のいちばん上に目をやった。


 栓をした瓶のなかで、トリカブトの根が静かに眠っている。


 近く控えた、毒卓。


 二つの国の運命がかかった、張り詰めた卓。


 あの席にも、こんなふうに、ありふれた顔をして毒が紛れているのかもしれない。


 けれど、もう一人ではない。


 鼻のきく、小さな相棒がいる。


「コハク。あなた、しっかり働いてもらいますわよ。覚悟なさいまし」


 髪のなかのコハクが、きゅう、と甘えるように鳴いた。


 まるで、望むところだとでも言うように。


 その夜、セレナは覚え書きの帳面を開いた。


 七年分の、薬と毒の記録。


 その新しい頁の隅に、彼女は一行、こう書き足した。


 ――コハク。鼻のきく、よき相棒。蜂蜜に弱し。


 ふふ、と小さく笑って、帳面を閉じる。


 明日からは、調薬室に、もう一人ぶんの小さな足音が増える。


 そう思うと、ひとりきりだった胸の中が、少しだけ賑やかになった。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。相川ことねです。


今回は本編のあいだに挟む幕間――第三話と第四話のあいだの、ちょっとした息抜きの一日でした。重たい外交の席が近づいてくる前に、セレナの調薬室に、新しい住人を迎えておきたかったのです。


その新入りが、マスコットのコハク。テオが拾ってきた、蜂蜜色の小さなイタチの仲間です。食いしん坊で、甘えん坊で、人の髪にもぐり込むのが大好き。けれど、ただの可愛いだけの子ではありません。鼻がとても利いて、薬草の根を掘り当てたり、毒のあるものに鼻を背けたり――薬師のセレナにとっては、これ以上ない相棒なのです。


でも、覚えておいてくださいね。コハクが教えてくれるのは「あぶない匂いがする」ところまで。それが何の毒で、どう打ち消すのかを決めるのは、いつだってセレナの七年分の覚え書きです。鼻のきく相棒と、積み上げた腕。その二つがそろうと、どうなるのか。


それは、次回の本編「毒卓」で。二つの国の運命がかかった張り詰めた席で、コハクとセレナの初仕事がいよいよ火を噴きます。どうぞ、お楽しみに。


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