第34話: 二人の薬
馬車が城の門をくぐったのは、門の前まで三度来てからだった。
一度めは、セレナが頼んで引き返した。二度めに引き返させたのは、ジェラルドのほうだった。門の前まで上がってきても、セレナの数えが終わっていなかったからだ。
城へ来る道でジェラルドは、雨の街道の日のどこでセレナに惹かれたのかを数えてみせた。二周めは、それをセレナの側から数える番だった。
坂を下りながら、セレナはまず、ひとつめを言った。雨の街道で、あなたは自分の外套を脱いで、わたくしの背中にかけた。脱いだばかりで、まだ持ち主の温かさが残っていた。
ふたつめも、雨の街道の話だった。みっつめも、そうだった。
数えても数えても、あの日のうちから出られない。毒卓までたどり着く前に、馬車は坂を上りきってしまった。門の屋根の下に、またロタールの姿が見えた。
ジェラルドは、ひとことも挟まずに聞いていた。窓を少し開けて、外へ言った。
「テオ。三周めだ」
御者台から返ってきたのは、返事ではなく、大きなくしゃみだった。
三周めの坂を上るあいだに、セレナの数えはやっと雨の街道を出た。そこで、三度めの門が見えた。
門の屋根の下では、ロタールがまだ待っていた。
四十年、公王家の式部官を務めてきた白髪の老人である。紙の束を胸に抱えたまま、馬車が門の前まで来ては引き返していくのを、雨の中で二度見送ったことになる。
馬車が止まると、ロタールは自分の手で扉を開けた。
「お待ちしておりました」
「ロタール様。三度もお待たせして、本当に申しわけございません」
「二度でございます。三度めは、こうしてお着きになりましたので」
律儀に数えなおしたロタールの袖口から、雫がぽたりと落ちた。
御者台から、テオが飛び降りてきた。ジェラルドの外套は、肩から裾までぐっしょり色が変わっている。
「三周ですよ、三周! 旦那の外套、もう雑巾ですって」
「三周めは俺が頼んだ」
「どっちが頼んだかは、どうでもいいんです!」
テオは言いながら、またくしゃみをした。
セレナは、テオの唇の色とロタールの指先を順に見た。二人とも、ずいぶん白い。
「ロタール様。お城の厨房に、生姜はございます?」
「ございましょう。厨房のことは、わたくしの受け持ちではございませぬが」
「でしたら、すりおろしてお湯で割って、蜂蜜をひとさじ。テオさんとロタール様に、一杯ずつお願いしたいの」
「わたくしにも、でございますか」
「ええ。三度ぶん、雨に打たれていらしたんですもの」
「二度でございます」
「では、二杯ぶんの蜂蜜で」
ロタールは何か言いかけて、やめた。
ジェラルドが、テオのほうへあごをしゃくった。
「厨房なら、料理番に話が通る。行ってこい」
「旦那、いつから厨房に顔がきくようになったんです」
「最近だ」
テオは首をかしげながら、濡れた外套を引きずって回廊の奥へ走っていった。
式部官の詰め間は、城の西の端にあった。
壁という壁が棚で、棚には紙の束がびっしり差してある。公王家の書付は、どれもここに納めるのだという。百年前の縁組も、六日前の付記の控えも。
ロタールは濡れた袖をまくって、卓に紙を一枚広げた。
「公王家の薬師の席の書付でございます。付記の本紙と、ひとつに綴じます」
紙の上半分には、ロタールのきちんとした字で、席の決まりが並んでいた。処方の紙に名を書くこと。名を書いた紙の誤りは、書いた者が負うこと。
下半分が、空いている。
「こちらに、ご自分の筆で」
セレナは筆を取った。
公王家の薬師 セレナ・フェアミル
書きおえて、筆を置いた。
思っていたより、すんなり書けた。量りの紙に初めて名を書いた日は、名前を書く手前で一度筆が止まったのに。
ロタールが砂をまいて、墨を吸わせた。それから、ジェラルドのほうを見た。
「公太子殿下。お申しつけのものも、出してまいりましょうか」
「頼む」
ロタールが棚から下ろしてきたのは、セレナにも見覚えのある紙の束だった。
縁組の書付だ。二枚めの家名の欄に、公王の硬い字で、カルディア公王家と入っている。
ロタールは、いちばん後ろの一枚を開いた。
横に長い枠が二つ、上下に並んでいた。上の枠の頭に婿、下の枠の頭に嫁と書いてある。中は、どちらも空いていた。
「申し添えの欄でございます。縁組をなさるお二人が、婚礼の前にそれぞれ一行ずつ書き添えることができます」
「何を書きますの?」
「何でも、でございます。ただし、一行まで」
ロタールは、枠の幅を指でなぞってみせた。
「もっとも、たいていは空けたままになさいます」
「どうしてですの。せっかくの欄ですのに」
「婚礼の日に、聖堂で読み上げますので」
ロタールは、まったく声の調子を変えずに続けた。
「伯より上のお家がことごとく並ばれます。三つの国の使いも聞いておられます。たいていの方は、そこで読まれて困らぬことを思いつかれませぬ」
「……それは、空けたくなりますわね」
ジェラルドが、筆を取った。
上の枠に、太くて角ばった字が並んでいく。枠の終わりが近づくと、字がだんだん小さくなった。終わりのほうの字は、枠の端に詰めこむようにして収まった。
ジェラルドは、筆を持ったまま紙をセレナのほうへ向けた。
この者を、公王家の杯の番として迎えるのではない。
セレナは、その一行を読んだ。
杯の番。
公王の書斎で、その話は出た。跡継ぎの杯を見張れる者だから、縁組を決めたのだと。
セレナは、顔を上げた。
「……陛下は、杯の番をお買いになったのではございませんでした?」
「買った」
「では、これは」
「父には、ゆうべ言った」
「何とおっしゃいましたの」
「損だ、と」
「それは、そうですわね。お代を払って、品物を返されるんですもの」
「だから、損をしてくれと頼んだ」
ロタールの手から、砂の小壺がことりと卓に落ちた。
「……陛下に、でございますか」
「利は、ほかで取ればいい。父はそういうのが得意だ」
ジェラルドは、それで話は済んだという顔をしていた。
セレナは、もう一度一行に目を戻した。
婚礼の日、この一行は聖堂で読まれる。伯より上のお家が並び、三つの国の使いが聞く。
七年やってきた朝の仕事を、誰でもできることだと言われた日。あの言葉を聞いたのは、エルデンの王宮の大広間にいた人たちだけだった。
今度の一行は、三つの国が聞く。
セレナは、その一行から目を離せなかった。うれしいと思うより先に、なぜだか笑えてきた。
「あら。困りましたわ」
「何がだ」
「わたくし、杯を払い落とすのはやめませんわよ。あなたのお杯に何か入っていたら、また払いますもの」
「払うのはいい」
「よろしいの?」
「舐めるな」
毒卓の日、払い落とした杯の雫が頬と唇に散った。何の毒かを確かめるために、セレナはその雫を舐めたのだ。ジェラルドの背の陰で、誰にも見えないように。
「……ご覧になっていましたの?」
「苦みの引きが遅い、とお前は言った。舐めなければ分からんことだ」
セレナは、言葉に詰まった。
「だから書いた」
「では、何として迎えてくださいますの。杯の番でないのなら」
ジェラルドは、紙の束を指先で一枚めまでめくり戻した。
一枚めのいちばん上に、ロタールの字が並んでいた。二枚めの欄が埋まった日に書き直したのだろう、インクがまだ新しい。公太子ジェラルドの妻として、セレナ・フェアミルを迎える。
「ここに書いてある」
「……ずいぶん遠回りですこと」
「一行しかない。書いてあることを、もう一度書いてもしかたがない」
セレナは、一枚めの字を見た。
妻として。
政略で決まった縁組の、いちばん上の行だ。これまでは二枚めばかり見せられてきた紙で、一枚めをちゃんと読んだのは今日が初めてだった。
壁ぎわで、ロタールが棚のほうを向いた。
セレナは、その背から目を戻して、隣を向いた。
「ジェラルド様」
「なんだ」
「ひとつだけ、伺ってもよろしくて?」
「言え」
「舌が利かない日も、腕がうまく動かない日もございますわよ。何の役にも立たない日も」
「あるだろうな」
「そういう日も、ここに座っていてよろしいの?」
「座ってろ」
即答だった。
ジェラルドは、それ以上何も足さなかった。
役に立たない日も座っていていいと、この人はたった一言で決めてしまった。
セレナは、椅子の背にすとんと背中を預けた。
「では、遠慮なく。役に立たない日は、お昼寝いたしますわ」
「好きにしろ」
「お昼のあとに、ですけれど」
「……食うのか」
「食べますわよ。お昼寝の前のお昼は、いちばんおいしいんですもの」
セレナは、ジェラルドの手から筆を取った。
「わたくしの番ですわね。下の枠、いただきます」
ロタールが、棚のほうを向いたままぴくりと動いた。
「フェアミル殿。申し上げましたとおり、聖堂で読み上げますので」
「ええ。伺いましたわ」
セレナは、下の枠に筆を下ろした。
ジェラルドの字のように詰めこまなくても、一行に収まった。
妃は、公太子をジェラルド様と呼び、寝不足の顔には寝不足と申し上げること。
ロタールが振り向いて、紙をのぞきこんだ。
しばらく、何も言わなかった。
「……書付に寝不足、でございますか」
「ええ。はっきりお読みになってくださいましね。三つの国の方にも聞こえるように」
「わたくしは、四十年この役を務めてまいりましたが」
「初めてでございましょう?」
「申し添えに体の具合が書かれたのは、初めてでございます」
ロタールは、それきり黙った。黙ったまま、砂の小壺を拾い上げた。
ジェラルドが、紙の上の一行から目を上げて、セレナの顔を見た。
「それは、腕じゃないのか」
「いいえ。口の利き方のほうですわ」
ジェラルドが、動かなくなった。
身分を伏せていたわけを話した日に、この人は白状したのだ。公太子だと知れたら、お前はもう寝不足だなんて言わなくなる。それが嫌だったのだと。
その翌朝、セレナは調薬室で言った。ジェラルド様は、しばらくジェラルド様のままにいたしますわ、と。
「しばらく、と申しましたでしょう。あれを、書付で直しておきましたの」
「……何にだ」
「ずっと、に」
ジェラルドは、腰を椅子に戻した。
短く、咳払いをした。話を逸らすときの咳払いだった。けれど、逸らす先が見つからなかったらしい。
セレナは、その顔をのぞきこんだ。
「それで、さっそく申し上げますけれど。今朝のお顔、寝不足ですわね」
「……」
「調薬室の戸口に立っていらしたときから、気になっておりましたの。目の下が、ゆうべのぶんですもの」
ジェラルドは、低い声で白状した。
「ゆうべは、何を書くか考えていた」
「一行ですのに?」
「一行だからだ」
詰め間の戸が、勢いよく開いた。
「先生! 生姜湯、できました!」
テオが、湯気の立つ椀を両手に一つずつ持って入ってきた。濡れた髪が、額に貼りついている。
「料理番の人、旦那の名前を出したら急に親切になりましたよ。旦那、厨房で何したんです」
「湯を沸かした」
「湯を?」
「三度」
テオは、わけが分からないという顔をした。それから、卓の上の紙に気づいて、首を伸ばした。
上の枠と下の枠を、順に読む。
「……これ、婚礼で読むんですか?」
「そうらしいですわ。三つの国の方の前で」
「三つの国の前で、寝不足って」
「ええ」
テオは、椀の一つをロタールに押しつけた。もう一つを自分の口へ運びかけて、途中で止めた。
「なんか、あれですね。処方みたいですね。二人で、一行ずつ出し合ってる」
セレナは、上下に並んだ二つの枠を見た。
上の枠は、自分に出された一行。下の枠は、自分が出した一行。どちらも、相手の顔を見て書いたものだ。
「あら。うまいことをおっしゃいますこと」
「効きます?」
「効きますわよ。どちらも、毎日飲むお薬ですもの」
ロタールが、生姜湯をひと口すすった。
「……甘うございますな」
「二杯ぶんの蜂蜜ですもの」
ロタールは何も言わずに、もうひと口すすった。
城を出るころには、雨は上がっていた。
門の外の石畳が、まだ濡れて光っている。テオは乾いた借り物の上着で、御者台に上がった。ジェラルドの外套は、厨房の竈のそばに干してきたらしい。
セレナが馬車に乗りこむと、ジェラルドがあとから乗ってきた。
来るときと同じように、向かいの座席に座るのだろうと思った。
ジェラルドは向かいの座席を素通りして、セレナの隣に腰を下ろした。
座席は、二人で並ぶにはいくらか狭かった。
「狭いですわね」
「そうだな」
どちらも、向かいへは移らなかった。
御者台から、テオの声がした。
「旦那、帰りは何周します?」
「一周でいい」
濡れた坂を、馬車は一度で下りた。




