第35話: そう呼ばれる
宛名に名前の書いていない手紙が、調薬室の卓に二通並んでいた。
どちらもセレナに宛てたものだということは、運んできたテオにも、受け取ったリタにも分かっていた。分からないのは、宛名の書き方のほうだった。
会談から八十六日め。城の詰め間で、公王家の薬師の書付に名を書いてから八日がたつ。
朝の列がようやく引けて、調薬室には乳鉢を洗う水の音だけが残っていた。塩の壺の根は、今朝もまだ舌を刺した。十日前なら舌の奥まで届いた刺が、いまは先のほうで止まる。
二通とも、港で塩漬けの魚を商うマイス親方の店に預けられていた。一通めは今朝のエルデンの船の郵袋から、二通めはゆうべ入った南の国の船の水夫が持ってきたという。親方はテオの顔を見るなり押しつけてきた。これ、たぶんあんたんとこの先生だろ、と。
「一通めから読みますね」
リタが、手前の一通を取り上げた。
「海の向こうの、毒女さま。……あ、毒女のとこが線で消してあります。二本」
「消してありますの?」
「はい。で、横にちっちゃくお薬師さまって」
セレナは横からのぞきこんだ。
太い字の「毒女」の上に、定規でも当てたようなまっすぐな線が二本引いてある。その横に、同じ手でひと回り小さく「お薬師さま」。
「書いている途中で、気が変わったのかしら」
「中に書いてあるかもです」
リタが封を切って、読み上げた。
海の向こうのお薬師さま
うちの亭主は、エルデンの船の水夫です。そちらの港の酒場で毒女の話をして回ったのは、うちの亭主です。
こちらでは、もう誰もそう申しません。殿下のお薬は海の向こうのお薬師さまが量ったものだと、王都から来る人はみんな言っています。
亭主には、そちらの港に着いたら、まず頭を下げに行けと言ってあります。
字は、代書屋さんに頼みました。宛名に毒女と書かれたのは、わたしがいつもの癖でそう言ったからです。すみません。
窓辺の椅子で、テオが頭をかいた。
「その亭主、たぶん知ってますよ。声のでかい人です。俺が港で噂を拾ってたころ、毒女の話をいちばん大きな声でしてたのがその人で」
「あら。では、ご本人が来てくださるのね」
「あの人の船なら、今日あたり入りますよ。手紙のほうが先に着いちまった」
リタが、手紙をたたみながらセレナの顔を見た。
「毒女って書かれてるのに、なんだか嬉しそうですね」
「書いたあとで、消してありますもの。ごらんなさい。二本線、とてもきれいに引いてありますわ」
毒女は、もうお古だ。三週間あまり前に、海の向こうで別の人へ渡っている。お古に二本線を引いてもらえたなら、上出来だった。
「二通めは……」
リタが、もう一通を裏返した。宛名を読んで、目をぱちぱちさせる。
「カルディア公都、毒を見分ける聖女さま」
テオが、椅子から身を乗りだした。
「聖女?」
セレナは、黙って手を出した。
書いたのは、ゆうべ港に入った南の国の商い船の船長だった。
港の者に、公都には毒を見分ける方がいると聞いた。三月の船旅で、水夫十四人のうち九人が寝ついている。歯ぐきが腫れて、触れると血が出る。何年も前に治った古傷が、また口を開けた。脚には青いあざが散って、坂を上る力もない。どうか聖女さまに船までお越しいただき、祈っていただきたい。御加護の水があるなら、言い値で買う。
読み終えると、セレナは手紙を鼻先へ近づけた。
「リタ。これ、どんな匂いがします?」
「え。……紙の匂い?」
「もう少し、近くで」
リタは手紙に顔を寄せて、くんくんと嗅いだ。
「あ。なんか、すっぱい?」
「ええ。柑橘の皮ですわ。紙の端に、黄色い染みもついておりますでしょう。この手紙は、柑橘の木箱が積んである場所で書かれたんですの」
セレナは、染みのある端を指でつまんだ。
「この船、積み荷にレモンを積んでおりますわ。たぶん、船倉にいっぱい」
「それと水夫さんの病気と、何か関係あるんです?」
「大ありですの」
セレナは、手紙を卓に置いた。
「歯ぐきから血が出て、古い傷が開いて脚にあざが出る。三月の船旅のあいだ、食べていたのは塩漬けの肉と固いパンばかりのはずですわ。これは、船の病ですの。青い菜っ葉や酸っぱい果物を長く口にしないと、体が自分の傷を繕えなくなりますのよ」
リタが、両手を卓についた。
「じゃあ……」
「酸っぱい実を食べれば、十日もたたずに起き上がれますわ」
「足の下に、いっぱい積んでるのに?」
「ええ。売り物ですから、誰も手をつけなかったのでしょうね」
テオが、天井を仰いで笑った。
「薬を積んだまま、薬を探してたってことですか」
リタが、手紙から顔を上げた。
「セレナ様、船の病なんてどこで覚えたんです? ずっとお城にいたんですよね」
「下働きのころ、薬師団の書庫で古い書付を写しておりましたの。誰も読まない棚の、百年前の船医の覚え書きですわ。まったく同じ病が書いてありましたの。効いたのは祈りではなくて、港で買った酸っぱい実だったと」
毎晩一冊ずつ、指が墨で黒くなるまで写した。十五の冬だった。
リタは、手紙の宛名にもう一度目を落とした。
「でも、聖女さまかあ。ちょっといいじゃないですか。きれいで」
「よくありませんわ」
思ったより、すぐに声が出た。
リタが、目を丸くした。
「聖女さまは、祈って治す方ですもの。この船の方たちが祈りで治ったことにされたら、来年もレモンを積んだまま祈りを探して港をめぐりますわよ。また九人寝かせて」
「あ……」
「それに前に、下町の広場で聖女さまの御加護の水を売っていた行商がいたでしょう?」
「いました。おじいさんが、お薬より水を買いかけて」
「あの水は、聖女さまのお名前を貼っただけで売れておりましたわ。わたくしが聖女と呼ばれたら、同じ水が今度はわたくしの呼び名で売られますの」
リタは、少し考えてから言った。
「でも、セレナ様のは本物じゃないですか。天からもらったみたいな舌とか、鼻とか」
セレナは、手紙をたたんだ。
「舌も鼻も、七年毎晩の覚え書きで仕込んだものですわ」
リタが、口を閉じた。
「天からいただいたことにされたら、その七年がどこにもなくなってしまいますもの」
言ってから、セレナは椅子を立った。前掛けの紐を、きゅっと締めなおす。
「ですから、祈りには参りません。レモンを剥きに参りますの」
棚の上でコハクが顔を上げ、セレナの肩へ跳び移った。襟元にもぐりこんで、琥珀色の頭だけを出す。
テオが、外套を引っかけて立ちあがった。
「港なら、俺の庭ですよ。お供します」
港へ下りる坂は、昼前の市でにぎわっていた。
坂の下の、塩漬けの樽が並んだ店先で、腕の太い男が手を振った。
「おう、テオ! ……おっと」
男の目が、テオの隣で止まった。前掛けをしたまま、襟元からイタチが顔を出している娘だ。
「乳鉢のお妃さまじゃねえか。わざわざ港までかい」
セレナの足が止まった。
「……どなたのことですの?」
「あんただよ」
隣の樽の前で魚をさばいていたおかみさんたちが、そろってうなずいた。
セレナは、ゆっくりテオのほうを向いた。
テオは、港の空を見上げていた。
「あー……言ってませんでしたっけ」
「伺っておりませんわ」
「市場じゃ、十日くらい前からこれで」
「テオさん」
「いや、先生がどんな顔するか見たくて」
樽の向こうで、マイス親方がげらげら笑った。
「紋章の馬車が、調薬室の前に止まったろ。あれで港じゅうが知ったさ。お城の若さまのお嫁さんになる人だってな」
親方は、太い指で坂の上を差した。
「で、そのお嫁さんが毎朝窓んとこで乳鉢回してる。列に並んでりゃ、誰だって見る。ひと月も見てるうちに、誰かが言いだしたのさ。ほかに呼びようがあるかい」
「まだ、お妃ではございませんわよ」
「じゃあ、乳鉢のほうだけ合ってんのか」
おかみさんたちが、声を立てて笑った。
セレナは、少しのあいだ黙っていた。
「……乳鉢は、合っておりますわね」
下働きのころから、毎朝回してきた乳鉢だ。そこだけは、どこからも文句のつけようがなかった。
襟元で、コハクの鼻がひくひく動いた。樽の中の魚を、まっすぐ見ている。
親方が、魚の尻尾をひとつ放った。コハクは襟から身を乗りだして、空中でくわえた。
「チビにも、ご祝儀だ」
桟橋のほうから、大柄な男が帽子を握りしめて歩いてきた。
エルデンの船の水夫だと、テオが耳打ちした。手紙の亭主だ。
男はセレナの前まで来ると、帽子を胸に当てて、頭を深く下げた。
「毒女って言って回ったのは、俺で。……女房に、頭下げてこいって」
「奥さまのお手紙、拝見しましたわ。二本線、とてもまっすぐでした」
「あいつ、代書屋の前で俺に定規持たせたんで」
テオが、横を向いた。
「お顔を上げてくださいな。頭は、奥さまのぶんまでもう下げていただきましたもの」
男は、おそるおそる顔を上げた。
樽の向こうから、親方の大声が飛んできた。
「おうエルデンの! 乳鉢のお妃さまに、ちゃんと詫びたか!」
男は、親方とセレナを見比べた。
「……乳鉢の」
「ええ。乳鉢の、ですわ」
男は帽子をかぶりなおして、もう一度頭を下げた。
「向こうに帰ったら、女房にそう言っときます。乳鉢の、って」
南の国の船は、桟橋のいちばん端に泊まっていた。
見物がてら、親方も樽を放りだしてついてきた。
渡し板の前で、日に焼けた男が待っていた。耳に金の輪をさげて、手には祈りの蝋燭の束を握っている。
男の目は、セレナの頭の上を通りこして、坂のほうを探していた。
「聖女さまは」
「薬師が参りましたわ」
「……祈りの方が来ると、聞いたんだが」
「祈りの前に、船倉を見せていただけます?」
船倉は暗かった。
降りたとたん、酸っぱい匂いが鼻をついた。木箱が天井近くまで積んである。その手前に吊った寝床で、男たちが横になっていた。
セレナは、いちばん手前の若い水夫のそばにかがんだ。
「お口を、少しだけ開けてくださいな」
歯ぐきが、赤黒く腫れていた。脛には、押してもいないのに青いあざが散っていた。
思ったとおりだった。
「テオさん。そちらの箱、ひとつ開けていただけます?」
テオが、小刀の先で蓋の釘を起こした。
蓋の下から、黄色い実がぎっしりと顔を出した。船倉の酸っぱい匂いが、ひときわ濃くなる。
「答えは、ここにございましたわ」
船長が、蝋燭の束を握ったまま顔をしかめた。
「そいつは売り物だ。北の港で、銀に換える」
「三月かけて、お薬を運んでいらしたのね。売り先の港まで、どなたが舵を握りますの?」
船長は、答えなかった。寝床の九人を、順に見た。
「お一人に、一日ひとつ。絞って、水に落として召し上がって。十日続けてくださいまし。歯ぐきの血は、五日もすれば止まりはじめますわ。開いた古傷も、閉じていきますの」
「祈りは、要らんのか」
甲板の上、桟橋のほうから、親方の怒鳴り声が降ってきた。
「聖女じゃねえよ! 乳鉢のお妃さまだ!」
船長は、ぽかんとした顔で上を見た。
「……にゅうばち?」
「お妃のほうは、まだですけれど」
テオが、レモンの箱に手をついて笑いだした。
船長は、手の中の蝋燭の束を見た。それから、天井まで積んだ木箱を見上げた。
長いこと見上げていてから、低い声で言った。
「三箱、開けろ」
蝋燭の束は、開けた箱の蓋の上に置かれたまま、誰にも拾われなかった。
昼すぎに調薬室へ戻ると、窓辺の椅子にジェラルドが座っていた。
リタが出した茶の椀が、手もとで湯気を立てている。
「旦那。そこ、俺の椅子なんですけど」
「知ってる」
ジェラルドは、動かなかった。
上着の胸には、二本の鍵の交わる紋章が縫いとってあった。いつもの上着だ。
「ボルクが、西門の市で妙な名を聞いてきた」
「乳鉢の、ですわね」
「知ってたのか」
「今朝、港で教えていただきましたの。テオさんは十日も前からご存じだったそうですけれど」
ジェラルドの目が、テオへ向いた。テオは、棚のコハクに急に話しかけはじめた。
「それで、ボルク卿は何と?」
「今日は、鼻を鳴らさなかった」
「あら」
「三度聞いたそうだ。豆を買ううちに」
リタが、ジェラルドとセレナを見比べた。
「ボルク卿って、テオさんが言ってた卓を叩くおじいさんですよね。なんで、三度も」
セレナは、城の小さな間を思い出していた。公太子妃が乳鉢を回すなど、わしは聞いたこともない。あの日、あの人はそう言って鼻を鳴らしたのだ。
「前に、聞いたこともないとおっしゃったことがありますの。ですから、きっと市場のほうがご親切に聞かせてくださったんですわ」
「親切か、あれは」
「三度もですもの。とても親切ですわ」
リタが、ジェラルドの胸もとをじっと見ていた。
「あ。今日は、縫いとりありますね」
ジェラルドの手が、茶の椀の上で止まった。
「この前、なかったじゃないですか。何かあるんですかって、セレナ様と話してたんですよ。お城で何かあったのかなって」
ジェラルドは、何も言わなかった。
セレナは、薬籠を棚に戻しながら言った。
「お城では、何もございませんでしたのよ。あったのは、厨房のほうですわ」
「厨房、ですか?」
リタが訊き返した。
「あの朝の上着、袖口に水の染みがありましたの。それから、お城の厨房で料理番さんに鍋を取り上げられた方がいらっしゃるの」
セレナは、ジェラルドの紋章を見た。
「胸に紋章をつけた方から、鍋を取り上げる料理番はおりませんわ」
リタが、ゆっくりとジェラルドを見た。
「それにテオさんがお名前を出したら、料理番さんが急に親切になったでしょう。あれは、鍋を取り上げた相手がどなただったかをあとでお知りになったからですわね」
テオが、椅子の背もたれから身を起こした。
「あー! それで、あの料理番は俺に生姜を山ほど持たせようとしたのか」
「ですから、縫いとりのない上着は厨房用。あの朝は、厨房からそのまま調薬室へいらしたのですわ」
ジェラルドは、窓の外へ目をやった。
「……着替えたら、冷める」
「冷めておりましたわよ」
「もっと冷める」
リタが、二人の顔を見比べた。
「何が冷めるんです?」
「内緒ですわ」
セレナは、自分の椀に茶を注いだ。
「それで、料理番さんには何と呼ばれておりましたの。鍋を取り上げられたとき」
ジェラルドは、少し間を置いた。
「……でかいの、と」
テオが、椅子から転げ落ちそうになった。リタは、両手で口をふさいだ。
「皆さん、見たとおりにお呼びになるのね」
セレナは、こらえきれずに笑った。
ジェラルドは、茶をひと口飲んでから言った。
「お前のは、悪くない名だ」
「乳鉢の、ですの?」
「ああ」
「お妃のほうは、まだですわよ」
「……そのうち合う」
テオとリタが、そろってジェラルドを見た。
ジェラルドは椀を卓に置いて立ちあがると、テオの椅子をテオに返した。
夕方、最後の患者を送りだして、セレナは戸口の札を裏返した。
窓の外から、かん高い声がした。
「つぎのかた、どうぞ!」
板戸の隙間からのぞくと、通りの石段に子どもが四、五人集まっていた。
まん中に座っているのは、喉を痛めて来たことのある、漁師のおかみさんの娘だった。膝の上に欠けた木の椀を抱えて、小枝で小石をごりごり回している。
その前に、男の子が二人並んでいた。
「おきさきさま、おなかいたい」
「あら。きのう、なにをめしあがりましたの?」
隣で、リタがくくっと喉を鳴らした。
「セレナ様のまね、似てますね」
「似ておりませんわ。わたくし、あんなに語尾を伸ばしませんもの」
「伸ばしてます」
石段では、娘が小枝を置いて、椀の中の小石を男の子の手にひとつずつ載せていた。
「にがいけど、がまんして。にがいのは、きくんですわ」
「これ、なんてなまえのおくすり?」
男の子に訊かれて、娘の手が止まった。
娘は椀を抱えたまま、きょろきょろして、それから窓を見上げた。板戸の隙間の、本物の乳鉢のお妃さまを。
セレナは、板戸を少し開けた。
「名前は、ございませんのよ」
「ないんだって!」
娘が振り向いて言うと、男の子たちはえーっと声をそろえた。それでも、手のひらの小石を、飲んだことにして口へ放るまねをした。
リタが、窓の外を見たまま言った。
「名前、つけてあげたらいいのに。あの子、困ってましたよ」
「薬に、名前は……」
セレナは、言いかけてやめた。
師匠に教わったとおりのことを、言うつもりだった。七年、それでやってきた。
「……考えておきますわ」
リタは、それ以上は何も言わなかった。
石段の子どもたちは、もう遊びの薬を飲み終えたことにして、坂の下へ駆けだしていた。
乳鉢のおきさきさまあ、と呼ぶ声が、いくつも重なって、港のほうへ転がっていった。




