第33話: 使者でも公子でもなく
調薬室に、決まりがひとつ増えた。
セレナが朝いちばんに壺の根を舐めて吐き出したら、そばにいる者がすぐに水の椀を渡すこと。
言いだしたのはリタだ。セレナは要らないと言ったが、通らなかった。いちばんよく守っているのはテオで、まだ一度も守ったことがないのはジェラルドだった。朝のその刻、彼はたいてい丘の上の城にいる。
会談から七十八日め。宰相の棺を乗せたエルデンの船が港を出てから、五日がたっていた。
壺の中には、森で掘った草の根が塩に沈めてある。海の向こうの王太子殿下が毎朝飲むお粉の、元になる根だ。生のままだと、舐めた舌が針で刺されたようにしびれる。塩に何日か沈めておくと、その刺が抜ける。
何日沈めればいいのかを知っていた人は、書き残さずに亡くなった。だからセレナは毎朝ひとかけら舐めて、刺の消える朝を探している。
「では、まいりますわね」
セレナは手袋をはめて、壺の蓋を取った。
棚の上で丸くなっていたコハクが、すっと起きあがった。瓶のあいだを抜けて、いちばん奥の棚まで逃げていく。蓋を開けると、毎朝こうだ。琥珀色の尻尾の先だけが、瓶の陰からのぞいている。
「チビ、毎朝それやるよな。律儀だねえ」
窓辺の椅子で、テオが笑った。蜂に刺された頬の腫れは、もうすっかり引いている。
セレナは小刀の先で、刻んだ根をひとかけら取った。舌の先にのせて、三つ数える。
それから、すぐに盥へ吐いた。
舌の先に、ちくりとした痛みが残った。きのうより、ほんの少しだけ細い。
「リタ、お水を」
言いながら振り向くと、リタは椀を持ったまま戸口のほうを見ていた。
戸口に、ジェラルドが立っていた。
朝のこの刻に、ここにいるはずのない人だった。上着の胸に、紋章の縫いとりがなかった。腕に、外套をかけている。
リタは、すたすたと戸口まで歩いていった。椀をジェラルドの手に押しつけると、また卓の向こうまですたすたと戻った。
「決まりですから。いちばん近いのは、いま入ってきた人です」
「いや、いちばん近いのリタちゃんだったでしょ」
「テオさんは黙っててください」
ジェラルドは、手の中の椀を見た。それから、何も訊かずに卓のそばまで来て、セレナの前に差し出した。
「……ありがとう存じます」
セレナは椀を受け取って、口をすすいだ。盥に吐いて、もう一度すすぐ。
ジェラルドは、盥の中を見ていた。
「毎朝か」
「ええ。刺が抜ける朝まで」
「今朝は」
「まだ立っておりますわ。でも、きのうより細くなりましたの。あと何朝かしら」
ジェラルドは答えなかった。盥から目を上げるまでに、少しかかった。
「城へ来てくれ。ロタールが、調印の付記の本紙をそろえた」
「公王家の薬師の、ですの?」
「お前の名を、お前の筆で書く紙だ。下に、馬車を待たせてある」
テオが、椅子から身を乗り出した。
「馬車? 旦那、いつも馬で来るじゃないですか」
「雨になる」
テオは窓から空を見上げた。薄い雲が、ところどころに浮いているだけだ。
「……晴れてますけど」
「降る」
「で、俺は」
「御者台だ」
「えっ」
ジェラルドは、腕にかけていた外套をテオのほうへ放った。
「着ていけ」
「旦那のを? ……あ、これ本当に降るやつだ」
テオがぶつぶつ言いながら外套に袖を通しているあいだに、リタがセレナの耳もとへ顔を寄せた。
「セレナ様。今日の上着、縫いとりないですね」
「ええ。わたくしも、いま見ておりましたの」
「何か、あるんですかね」
「さあ。お城で、何かあるのかしら」
セレナは手袋を外して、前掛けを椅子の背に掛けた。棚の奥で、コハクが尻尾を一つ振った。
馬車は、向かい合った座席が二つあるだけの小さなものだった。
ジェラルドは、セレナの向かいに座った。
市場の角を曲がったところで、屋根を叩く音がしはじめた。ぱらぱらと軽かった音が、坂の手前でざあっと重くなる。
「ほら、降った! 旦那の言ったとおりだ!」
御者台から、テオの声が聞こえた。なぜか少しうれしそうだった。
ジェラルドが、腰に下げていた革袋を外した。
それを、セレナの膝へ放ってよこす。
「飲め。一気に飲むな。少しずつだ」
セレナは、革袋を両手で受けとめたまま、しばらく動けなかった。
同じ言葉を、前にも聞いたことがある。雨の街道で、ずぶ濡れのまま馬車に乗せられた日だ。
栓を抜いて、少し口に含んだ。
白湯だった。ぬるい。舌の先にまだ残っていた根の痛みが、ぬるい湯にほどけていく。
「……白湯ですわね」
「ただの白湯だ」
あの日と、同じ返事だった。
セレナは栓を閉めて、革袋を膝の上に置いた。
向かいの人の袖口に、丸い染みがひとつあった。水をこぼして、乾いたような跡だ。調薬室で椀を受け取ったときにも、目に入っていた。
紋章の上着でも、雨の街道の外套でもない。今日のこの人は、袖口に染みをつけた、ただの上着を着ている。
「回廊の話だ」
ジェラルドが言った。
六日前、調印を済ませた城の回廊で、この人は何か言いかけてやめた。いずれ話す、今日は話す日じゃない、と言って。
「あら。今日でしたの」
「あの日は、棺がまだこの国を出ていなかった」
「……ええ」
「自分の話をする日じゃないと思った」
セレナは、港の朝を思い出した。霧の中を運ばれていく細長い箱と、列のいちばん後ろ。この人は、船が霧の向こうへ消えるまで、桟橋から動かなかった。
「調印の日、お前は薬師と書けと言った」
「申しましたわ」
「父は、名を書いた紙の誤りはお前が負うと言った」
「負いますわよ。そのための名前ですもの」
「知っている」
ジェラルドは、そこで黙った。
言葉を探しているのが、見ていて分かった。この人が言葉を探すときは、たいてい長くかかる。名乗ったあの朝も、座りかけて立ってまた座るまでに、ずいぶんかかった。
セレナは、待つあいだに自分のほうを先に片づけることにした。
「では、そのあいだにわたくしから一つよろしくて?」
「……なんだ」
セレナは手提げから古いほうの帳面を出して、いちばん後ろの頁を開いた。引っかかったことだけを書きためてきた頁だ。
いちばん下の行には、太くて角ばった字で、ジェラルド・カルディアと書いてある。城の小さな間で、この人が自分で書いた名前だ。
その下に、セレナの字で一行だけ足してあった。
雨の街道。寝不足。
「これ、陛下にお目にかかった晩に書きましたの」
ジェラルドが、帳面の一行を見た。
「陛下は、跡継ぎの杯を見張れる者をよその家に取られては困るから縁組を決めたとおっしゃいましたでしょう」
「言った」
「あれは、腕のお話ですわ。わたくし、腕を買っていただくのは嬉しいんですのよ。薬師ですもの」
セレナは、帳面の一行を指でなぞった。
「それで、思い出してしまいましたの。お城の小さな間で、雨の街道だとおっしゃいましたわね。でもあのお話の中には、寝不足も入っておりましたもの。わたくし、拾っていただいたその日にもうあなたを診ておりましたのね。眠れていませんわね、って」
「診たな」
「ですから、どちらでもかまわないんですけれど」
かまわない、と言いながら、セレナは帳面を閉じなかった。
済んだ、とは一度聞いている。聞いて、調子に乗らせていただくとまで言った。それなのに、その晩のうちにこの一行を足していた。
七年、量られてきた。役に立つあいだは席があって、立たなくなれば誰にでもできることにされた。だから、どの皿に載せられているのかを、つい確かめたくなる。悪い癖だと、自分でも思う。
ジェラルドが、右の手を上げた。
「城の小さな間では、順番を雑に言った」
何をするのかと思ったら、親指を折った。
「泥の中で、生きてるかと訊いた。お前は、たぶんと言った」
人さし指を折る。
「白湯をやったら、世界で一番うまいと言った。ただの白湯をだ」
中指を折る。
「干し肉で泣いて、雨のせいにした。馬車の中でな」
三本を折った手を、ジェラルドはそのままセレナのほうへ向けた。
「寝不足を言われたのは、そのあとだ。あの日のうちで、腕と言えるのはこれ一つだけだ」
薬指が、ゆっくり折れた。
「腕は、四つめだ」
屋根の上で、雨の音がひときわ強くなった。
「三つめで、もう済んでた」
セレナは、折られた四本の指を見ていた。
頭の中で、あの日をたどり直す。泥の中で、たぶんと答えた。白湯を、世界で一番おいしいと言った。干し肉で泣いて、雨のせいにした。人の顔を診たのは、そのあとだ。
順番は、合っていた。
数えるのは、自分の癖だと思っていた。脈も、日も、匙の量も、数えて生きてきた。この人も、数えていたのだ。城の小さな間では一息に並べてしまった日を、今日は腕の手前で区切って。
「……あいだに、干し肉に蜂蜜を塗ると日持ちするというお話もいたしましたわよ」
「あれは数えん」
「あら。どうしてですの」
「押し売りだ」
セレナは、こらえきれずに笑った。
「ひどいですわ。せっかくの豆知識でしたのに」
「それから」
ジェラルドは、今度は左の手を上げた。
「お前が向こうの宮廷の薬師で王太子の婚約者だったと知ったのは、もっとあとだ。数えるなら、こっちの手になる」
「両手をお使いになるの?」
「足りんよりいい」
ジェラルドは左の手を下ろした。右の手は、四本を折ったまま膝の上に置いた。
「ひとつ、伺ってもよろしくて?」
「なんだ」
「どうして、白湯でしたの。たぶん、のほうは分かりますわ。泥の中で強がっているのが、おかしかったのでしょう。でも白湯は、ただの白湯ですわよ」
ジェラルドは、すぐには答えなかった。雨の音が、しばらく二人のあいだを埋めた。
「俺は、白湯を出されて礼を言ったことがない」
「……一度も?」
「生まれてこのかた、一度もだ。出てくるものだと思っていた。誰が沸かしたのかも、考えたことがなかった」
ジェラルドは、膝の上の折った指を見た。
「あの日のお前は、俺の外套の下で震えながら、ただの白湯を世界で一番だと言った」
「申しましたわね」
「あのとき、初めて考えた。この白湯は、誰が沸かしたんだろうと」
「……どなたでしたの」
「知らん。宿の誰かだ。いまだに分からん」
セレナは、少しだけ笑った。
七年、セレナもその誰かだった。毎朝、王宮で殿下の椀を満たしながら。
あの日、この人は、名前も知らない宿の誰かのことを考えたのだ。ずぶ濡れの女が、白湯をおいしいと言ったから。
「父がお前を欲しがったのは、杯の番だ。それは父の話だ」
「……はい」
「俺の話は、三つめで済んでる。回廊で言いたかったのは、その続きだ」
「続き」
「今朝の、あれだ」
セレナは、膝の上の革袋に目をやった。
「根のことですの?」
「テオに聞いた。毎朝、舌にのせて吐いてると」
「ほんのひとかけらですわ。三つ数えたら吐いて、すすぎますもの。しびれが残るほどは——」
「分かってる。お前がそう言うなら、そうなんだろう」
ジェラルドは、セレナの顔をまっすぐに見た。
「だから、もしもの話だ」
「もしも」
「お前の舌が利かなくなっても、俺は困らん」
セレナの手の中で、革袋がわずかにへこんだ。
——お前でなくても、私は困らん。
あれは、エルデンの王宮の大広間でのことだ。玉座の段の前で、見慣れない令嬢を隣に置いて、あの方はそう言った。七年分の朝が、その一言で片づけられた。
困らないというのは、要らないという意味だった。少なくとも、あの朝は。
雨が、馬車の屋根を叩いている。
セレナは、向かいの顔を見た。
「白湯なら、俺が沸かせる」
「……え」
「城の厨房で、三度沸かした」
「三度も?」
「一度めは煮立てすぎて、半分になった。二度めは、料理番に鍋を取り上げられた」
セレナは、ジェラルドの袖口の染みを見た。
「三度めが、それだ」
ジェラルドは、セレナの膝の上の革袋をあごで示した。
「ぬるいがな」
誰が沸かしたのか分かっている白湯を、セレナは膝の上に抱えていた。
セレナは笑った。
笑ったら、目のふちが熱くなった。
雨は、屋根の上だ。目に入るはずがない。
「……今日は、雨のせいにはいたしませんわ」
「馬車の中だからな」
セレナは、革袋の栓を抜いた。
もう一口、飲んだ。ぬるくて、何の味もしない、ただの白湯だった。
「二番めに、おいしいですわ」
「一番は」
「あの日のですわ。あれには、もう勝てませんの。わたくし、凍えてお腹を空かせておりましたもの」
「……そうか」
「ええ。ですから、二番めで」
ジェラルドは返事をしなかった。かわりに、四本を折ったままだった右の手を、やっとほどいた。指を一本ずつ、もとに戻していく。
セレナは、革袋を胸に抱えた。ぬるい湯の重さが、腕の中で小さく揺れた。
坂を上りきると、窓の外に城の門が見えてきた。
門の屋根の下で、ロタールが待っていた。痩せた指で紙の束を抱えて、雨の中をじっとこちらに目を凝らしている。
「あの」
「なんだ」
「ロタール様には申しわけないのですけれど」
セレナは、革袋を抱えたまま言った。
「もうひと回り、していただけません? 坂の下まで」
ジェラルドは、少しのあいだセレナを見ていた。
それから、拳で御者台の側の壁を二度叩いた。
「テオ。もう一周だ」
「嘘でしょ旦那! こっち、外なんですけど!」
文句を言いながらも、テオは手綱を引いたらしい。馬車は門の手前で大きく向きを変えた。窓の外を、門の下のロタールの姿がゆっくり後ろへ流れていった。
雨の坂を、馬車はもう一度下りはじめた。
セレナは、空いているほうの手を上げた。
「では、二周めはわたくしが数えますわ」
「……何をだ」
セレナは、親指を折った。
「ひとつめ。雨の街道で、あなたは——」




