第32話: 継ぐ心
宰相ヴァルター・ゲーレンが客間に遺していったものは、多くなかった。
封をした文が二通。長椅子の枕もとに、蜂蜜の粒の入った布の袋がひとつ。黒い革の手袋がひと組。手袋のほうは、持ち主の手にはまったままだ。
それから、窓ぎわの卓に重ねた紙の束。
会談から六十九日め、夜が明けたばかりの公館のエルデン客間である。
宰相が亡くなったのは、明けがたの少し前だった。ゆうべ倒れてから、セレナはひと晩じゅう手首の脈を数えていた。止まるところまで、数えた。
和睦の紙は、もう書き上がっている。三日後に丘の上の城で調印があり、その翌朝にはエルデンの船が出る。宰相は王女エルザを連れて、その船で帰るはずだった。
セレナは、卓の紙の束を一枚ずつめくった。
和睦の紙の控え。使節の名簿。港の役人に宛てた、船荷の覚え。どれも、きちんとそろった字だった。
探しているものは、なかった。
――根を掘る日と、塩で晒す日数と、干す日数を、書いてお渡しします。
きのう、宰相はたしかにそう言った。
王家の子が毎朝飲む粉の元は、トリカブトの根だ。塩で晒して干せば、喉を灼く刺が抜ける。その日数を知る最後の一人が、ゆうべ手順の紙より先に文を二通書き、書き終えたところで倒れたのだ。
殿下のお匙は、これから何年もかけて減らしていく。減らしているあいだも、粉は要るのだ。
「……書くとおっしゃいましたのに」
声に出てしまった。
悲しいより先に、腹が立った。あれだけ書きものの好きな人が、いちばん大事な一枚を書かずにいくなんて。
セレナは、紙の束を卓に戻した。
まあ、いい。日数なら、舌で探せる。刺が抜けたかどうかは、舐めれば分かる。覚え書きは、こういうときのためにつけてきたのだ。
長椅子のほうで、小さな声がした。
「……セレナ?」
エルザが、目を開けていた。ジェラルドの外套にくるまって、長椅子の端に頬をつけている。両手はまだ、黒い手袋の指を二本握っていた。
セレナは、エルザのそばに膝をついた。
「おはようございます、エルザ様」
「わたし、静かにしてた?」
「ええ。とても」
エルザは、握った手袋の指を見た。それから、その先の宰相の顔を見た。
「ヴァルター、まだねてる」
部屋の隅で、テオが顔をそむけた。窓ぎわのジェラルドは、動かなかった。
セレナは、エルザの目の高さまで顔を下げた。分かっていて黙るのは、もうしないと決めている。相手が八つの子でも、同じことだった。
「エルザ様。閣下は、明けがたに亡くなりました。もう、起きられません」
エルザは、宰相の顔から目を離さなかった。
握った指を、もう一度握りなおした。
「……てぶくろ、つめたくない」
「ええ。中のお手が、まだ少し温かいんですの」
「ヴァルターの手、さわったことないの」
エルザは、手袋の甲をなでた。
「いつも、てぶくろだったから。だっこも、うわぎの上からだったの」
セレナは、すぐには返事ができなかった。
子どもの肌は薄いので。きのう、宰相はそれだけ言った。
その理由を、この子に話すわけにはいかない。手袋の内側の指の話をすれば、粉の話になる。
「エルザ様のお手を、大事にしていらしたのですわ」
「……そうなの?」
「ええ。ずっと」
エルザは鼻をすすった。それから手袋の上から、宰相の手を両手で包んだ。
「じゃあ、このままにしておいてあげる」
扉を叩く音がしたのは、朝の鐘のすぐあとだった。
エルンスト卿だった。夜が明けるとすぐ、ジェラルドが使節の宿へ人を走らせていたのだ。
卿は戸口で深く頭を下げ、長椅子の前で長いこと黙っていた。いつもきれいに撫でつけてある銀髪が、今朝は少し乱れている。
「心の臓と、伺いました」
「ええ。心の臓ですわ」
セレナは、それ以上は言わなかった。
卿の目が、卓の上の二通に止まった。
「閣下の文は、使節の長として私がお預かりいたしましょう。本国へは、私どもの早馬を出しますので」
「お気持ちだけ、いただきますわ」
セレナは、二通を取り上げて胸に抱えた。上の一通は王太子殿下。下の一通は、宰相府の次官に宛ててあった。
「お届けすると、閣下にお約束しましたの。どなたの手でお渡しするかも、わたくしが決めます」
「フェアミル殿」
「カルディアの早馬を出す」
ジェラルドが、短く言った。
「公王家の馬だ。宛名の者に渡るまで、誰にも触らせない」
卿は、二人の顔を順に見た。柔らかな笑みが、少しだけ固くなった。
「では本国へは、閣下が亡くなられたことだけを先に報せます。そのあとのことは、調印を終えてから私の名で」
「そのあとのこと、とおっしゃいますと」
「殿下のお粉のことでございます」
卿は、それだけ言ってもう一度頭を下げた。
昼すぎの調薬室は、いつもより静かだった。
戸口には、今日はお休みの札が掛けてある。リタは何も訊かずに湯を沸かして、セレナの前に椀を置いた。
セレナは、卓に紙を一枚広げた。
殿下のお匙のための、量りの紙だ。上げていい朝と待つ朝の見分け方。それから、ひと冬に麦粒ひとつずつ減らしていく、最初の冬のぶんまで。
最後の行を書いて、セレナは筆を止めた。
それから、いちばん下に書き足した。
量った者 セレナ・フェアミル
窓辺の椅子で、テオが顔を上げた。蜂に刺された頬は、まだ少し丸い。
「先生。前のは、名前なしで送ってましたよね。殿下の引き出しに名前をしまわせない、とか言って」
「今度は、しまっていただいてかまいませんの」
セレナは、墨が乾くのを待って紙を折った。
「この紙で量るのは、ザイデル様ですわ。読ませたくない者が最初に探すのは名前だと、閣下はおっしゃいましたの。きのうまでは、閣下のお名前が先に探されました。今朝からは、匙を持つ手の名前しか残っておりません」
リタが、椀を置く手を止めた。
「……で、セレナ様の名前を隣に置いとくと」
「並んでいたら、片方だけ切るのは手間でしょう?」
「それ、セレナ様が危なくなるやつじゃないですか」
リタが、眉間にしわを寄せた。
「ええ、少しは。でも、わたくしのほうが切りにくいはずですわ。後ろに大きなお家がついておりますもの」
「……それ、自分で言います?」
「言いますわ。使えるものは使いませんと」
セレナは、もう一枚に手紙を書いた。
ザイデル様
宰相閣下が、今朝の明けがたに亡くなられました。心の臓でした。
同封の二通は、閣下がゆうべ書き残されたものです。殿下宛ての一通は、あなたの手から殿下に。もう一通は、宰相府の次官にお渡しください。
量りの紙を添えます。今日から、わたくしの名を書きます。あなたも匙を通した朝は、その日の帳面にお名前を書いてください。帳面の写しは、海のこちらでわたくしが読みます。
外した薬の帳面がまだおありなら、その写しもいただけますか。
セレナ・フェアミル
封をしていると、テオがぽつりと言った。
「あの人、俺の名前を覚えておきますって言ったんですよ。丘で」
「ええ。聞いておりましたわ」
「で、最後に呼んだのが俺の名前って。……重いんですけど、それ」
テオは笑おうとして、途中でやめた。窓の外を見たまま、しばらく黙っていた。
セレナは、封をした手紙を卓の端に置いた。
「テオさん。重いついでに、もうひとつお願いがありますの」
「なんです」
「あしたの朝、森へご一緒して。コハクも連れて。夏にあなたが摘もうとした、あの青い花の根を掘りますの」
テオの顔が、ゆっくり引きつった。
「あの、手で摘んだだけで指がしびれるっていう……」
「ええ。ですから手袋をはめて掘りますわ。あなたのぶんも、ご用意しておきますわね」
「いやいやいや」
棚の上で、コハクが丸くなったまま尻尾を一つ振った。森、という言葉だけは分かるらしかった。
根は、七十日めの朝に森で掘った。
夏に青い花が咲いていた斜面まで来ると、セレナの襟元でコハクの体が硬くなった。花の終わった株の三歩手前で、琥珀色の毛が背中から尻尾まで逆立つ。そこから先へは、鼻先ひとつ出さない。
「ここですわね。ありがとう、コハク」
テオは借りた手袋の手で、枯れた茎の根もとの土を小枝でそっとのけた。根の頭がのぞくたびに、身をそらして半歩さがる。
「先生。これ、手袋の上からでもしびれたりしません?」
「しませんわ。かじらなければ」
「かじりませんよ!」
根を抜いたのは、セレナだった。持ち帰った根は洗って刻み、調薬室の塩の壺に沈めた。
刺が抜けるまで何日かかるかは、舐めて確かめるしかない。セレナは毎朝、壺から一切れ取って舌の先にのせ、すぐに吐いて口をすすいだ。
七十二日めの朝も、刺はまだ舌に立っていた。
その日の昼前、セレナは丘の上の城にいた。
調印の前に、片づけておきたいことが一つある。エルンスト卿がそう申し出て、ジェラルドがセレナを呼んだのだ。
城の小さな間には、公王ラインハルトが座っていた。脇にジェラルドとボルク卿、壁ぎわの小卓には式部官のロタールが控えている。向かいには、エルンスト卿と若い書記がいた。
卿は、紙を一枚卓に置いた。調印のあと本国へ出す報せの、下書きだという。
「閣下が、和睦の務めの半ばに心の臓の病で身罷られたこと。ここまでは、すでに報せてございます」
卿は、続きを読んだ。
「殿下の毎朝のお粉は、古い家々の上申を容れてこれを止める。粉を扱った宮廷薬師ザイデルは役を解き、宰相府にてその次第を問う」
セレナは、紙から目を上げた。
「卿。お粉を、止めますの?」
「閣下が亡くなられた以上、あの粉を続けるわけを本国で申し立てられる者がおりませぬ」
「ザイデル様を問うのは」
「どなたかが答えねば、古い家は収まりませぬ。平民の出で、後ろ盾のない薬師がひとり。……いちばん波の立たない名でございます」
卿の声は、いつもどおり角がなかった。
セレナは、卓の上で手を重ねた。
「お粉を急に止めたら、殿下はまた倒れますわ」
部屋の誰も、口を挟まなかった。
「わたくしが王宮を出てから、殿下のお粉は三月ちかく途切れました。そのあと、殿下は調印の壇でお倒れになった。卿も、早馬でお聞きになったはずですわ。今度は、壇の上では済みません」
「……では、どうせよと」
「止めるのは、ひと冬に麦粒ひとつずつ。何年もかけますの。そのやり方を書いたのは、わたくしです」
セレナは手提げから量りの紙の控えを出して、卓に広げた。いちばん下に、名前がある。
「ザイデル様は、この紙のとおりに量っていらっしゃるだけですわ。問うなら、この名前をお問いになって」
卿の目が、紙の下の名前に止まった。
「公太子妃となられる方のお名前を、エルデン宰相府の問いに差し出されると」
「差し出すのではございませんわ。もう、書いてありますの」
ボルク卿が、鼻を鳴らした。
「公太子妃が乳鉢を回すなど、わしは聞いたこともない」
「では、今日お聞きになりましたわね」
「……そなたは、ああ言えばこう言う」
公王が、口を開いた。
「エルンスト卿」
低い声だった。部屋の誰もが、そちらを向いた。
「その紙の名は、余の息子の妻になる者の名だ。それを問うと書いた報せを、余が調印の日に見逃すと思うか」
卿は、すぐに頭を下げた。
「滅相もございませぬ」
「ならば、薬師のほうも問えまい。同じ紙で量っているのだからな」
公王は、量りの紙を指で卓の真ん中へ押した。
「付記を一つ足す。王太子殿下の御不例の薬は、エルデンの宮廷薬師とカルディアの薬師の二人が量る。粉を止める日も、二人で決める。片方の国だけでは、どちらの薬師も替えられぬ」
卿が、顔を上げた。
「陛下。隣国の王家の薬に、カルディアがお口を」
「出す。余は利を買う男だ」
公王は、少しも声を変えなかった。
「隣の国の跡継ぎの朝を読む目を、一つこちらに置ける。悪い取引ではない。卿の本国にとっても、王太子が二度倒れるよりはましだろう」
卿は、しばらく黙っていた。それから、下書きの紙を自分の手もとへ引き寄せた。
ロタールが、筆を取った。
「エルデンの側は、エルデンの宮廷薬師と書きますか」
「イレーネ・ザイデル様、と書いてくださいまし」
セレナは、すぐに言った。
「宮廷薬師とだけ書いたら、次の方に替えられてしまいますもの」
ロタールが書いた。それから筆を止めて、公王を見た。
「カルディアの側は、いかがいたしましょう」
公王は、セレナを見た。
「そなたが決めよ。公太子妃と書けば、誰も手を出せぬ。だが妃は、ふつう乳鉢を回さぬものだ。古い者は眉をひそめよう」
ボルク卿が、横で大きくうなずいた。
「薬師と書くなら、席を一つ置く。公王家の薬師の席だ。処方の紙に、そなたの名を書く席になる。そのかわり、名を書いた紙の誤りはそなたが負う」
セレナは、卓の真ん中の量りの紙を見た。いちばん下に、三日前に初めて書いた自分の名前がある。
隣で、ジェラルドが言った。
「お前が決めろ」
それだけだった。
セレナは、公王に向き直った。
「薬師と書いてくださいまし。セレナ・フェアミル。公王家の薬師と」
「わけを聞こう」
「名前を書いておけば、間違えたときに書いた者が頭を下げられますもの」
公王の目が、わずかに動いた。
「七年、頭を下げる名前もございませんでしたの。うまくいった朝も、そうでない朝も」
ロタールの筆が、紙の上を走った。
ボルク卿が、腕を組んだまま横を向いた。
「……妙な妃だ」
「ありがとう存じますわ」
「褒めてはおらん」
エルンスト卿は、手もとに引き寄せてあった下書きに目を落とした。
しばらく、そのまま動かなかった。若い書記が筆を差し出しても、卿の手が伸びるまでに少しかかった。
卿は筆を取ると、粉を止めると書いた一行に、端から端まで線を引いた。墨を継いで、ザイデルの役を解くと書いた一行にも引いた。二本めの線のほうが、わずかに太かった。
「本国へは、付記のとおりに報せます」
筆を置いて、卿はそれだけ言った。
調印は、昼の鐘で済んだ。エルデンの側は、宰相の代わりにエルンスト卿が筆を取った。和睦の紙の終わりに、付記が一つ足された。名前が二つ、並んでいた。
城を出る回廊で、ジェラルドが足を止めた。
「セレナ」
「はい」
ジェラルドは、何か言いかけた。それから、口を閉じた。
「……いや。いずれ話す」
「あら。そういうのが、いちばん気になりますのよ」
「今日は、話す日じゃない」
それきり、ジェラルドは前を向いて歩きだした。
七十三日めの朝、港には薄く霧がかかっていた。
エルデンの船の渡し板の前を、細長い箱が運ばれていく。宰相の棺だった。
桟橋には、エルデンの人たちが一列に並んでいた。使節の書記に、侍女たちに、船乗りたち。棺が前を通るたびに、一人ずつ頭を下げていく。
セレナは、その列のいちばん後ろについた。
テオが、横から小声で言った。
「先生。前、空いてますよ」
「ここでいいんですの」
この人は前に、王女の手を引いて、調薬室の列のいちばん後ろに並んだことがある。先に頭を下げてきたのも、この人のほうだった。
列が、少しずつ進んだ。セレナの番が来た。
棺の蓋は閉じてある。あの手は、いまも手袋をはめたままのはずだ。
セレナは、深く頭を下げた。
頭を下げたまま、誰にも聞こえない声で言った。
「閣下。わたくし、閣下のなさったことをいまも許してはおりませんのよ」
七つで亡くなった子の一行。九つの殿下の肩を押さえて飲ませた、二杯目の椀。二百年、誰も数えなかった挽く手。
「エルデンの民に戦の火を見せたくなかったお気持ちは、別ですわ。そちらは、いただいてまいります。挽き方は、変えますけれど」
あなたが守ったものは、わたくしが引き継ぎます。
それは、声にしなかった。
頭を上げると、渡し板の上でエルザが待っていた。侍女に手を引かれて、胸に布の袋を抱えている。宰相が枕もとに置いていった、蜂蜜の粒の袋だ。
「セレナ」
「エルザ様。お船では、ちゃんと酔いどめを飲んでくださいましね」
「のむもの。はちみつあるし」
エルザは袋を抱えなおして、棺の運ばれていったほうを見た。
「宰相ね、坂で二回やすんだでしょ」
「ええ」
「お船なら、ずっとねてられるね」
セレナは返事のかわりに、エルザの抱えた袋の口の紐を、きつく結びなおしてやった。
エルンスト卿が、渡し板の向こうで一礼した。セレナも、黙って返した。
帆が風をはらんで、船が岸を離れていく。エルザが、手すりのあいだから小さな手を振った。
テオが、大きく手を振り返した。ジェラルドは腕を組んだまま、船の影が霧の向こうへ見えなくなるまで動かなかった。
公王家の早馬が戻ったのは、七十七日めの夕方だった。
鞍袋から出てきたのは、手紙が一通と、紐でくくった紙の束だった。
セレナは、調薬室の卓で手紙を開いた。テオとリタが、両脇からのぞきこむ。
フェアミル様
二通とも、受け取りました。殿下宛ての一通は、わたしの手から殿下にお渡ししました。殿下は人を払って、お一人でお読みになりました。読み終えてから、明日の朝も同じ刻に来いとだけ仰いました。中身は存じません。訊いてもおりません。
次官宛ての一通は、次官が読みました。殿下のお匙は、わたしの受け持ちのままだそうです。
量りの紙を受け取りました。下に、あなたの名前がありました。
三年前、わたしは侯爵夫人の長引く頭痛に薬を組みました。三日で治まりました。礼は、あなたの名前で言われました。わたしは訂正しませんでした。
名前が並んでいれば、取り違えようがありません。
明日の朝から、通した日の帳面にわたしの名を書きます。
外した薬の帳面の写しを送ります。宰相府に一度取り上げられたので、頭に残っていたぶんを書き直しました。読むのは、あなたの仕事です。
礼は書きません。借りを作ったとは思っていませんので。
イレーネ・ザイデル
リタが、先に声を上げた。
「なにそれ。この人、手柄を取られてたんですか」
「そうみたいですわね」
セレナは、三年前のくだりをもう一度読んだ。
知らなかった。侯爵夫人の頭痛が三日で治まったことも、その礼が自分の名で言われたことも。礼の言葉そのものは、セレナのところまで届いてもいない。
「わたくし、人さまの手柄を三年もいただいていたのね。いただいた覚えも、ございませんけれど」
「それじゃセレナ様、知らないうちにずるい人にされてたんじゃないですか」
「ええ。ずるいですわね、わたくし」
ずるいと思っていた、と言われたことがある。この手紙の書き手に、カルディアを発つ前の夕方に。あのときは、半分しか分からなかった。
テオが、手紙の終わりを指でつついた。
「礼は書きません、って。わざわざ書くんですね、これ」
「書かずにいられない方なのですわ」
「で、先生のほうはお城のことを書かないんですか。旦那に聞きましたよ。この人、役を解かれかけてたって」
「書きませんわ」
セレナは、手紙をたたんだ。
「借りが大嫌いな方ですもの。書いたら、礼を書かないためにもう一通書かせることになりますわ」
「……先生も、大概ですけどね」
「あら。それは褒めていただいたことにしておきますわ」
リタが、くすっと笑った。
セレナは、紙の束の紐をほどいた。
一番目の処方から、きっちりとした字で並んでいる。何を組んで、殿下のどこに効かず、なぜ外したか。外したわけのところだけ、字が少し強かった。
灯りを足して、セレナは一枚ずつ読んだ。リタが帰り、テオが帰っても、読みつづけた。
城の回廊でジェラルドが言いかけたことは、あれから五日たっても、まだ聞いていない。
最後の一枚を読み終えると、筆を取った。一番目の処方の脇に、小さく書く。
読みました セレナ・フェアミル
この一枚は、次の早馬で送り返す。読んだ者の名前がなければ、読んだことにならない。
それから、戸棚の塩の壺の蓋を開けた。
刻んだ根が、白い塩の中に沈んでいる。明日の朝、また一切れ舐める。刺の消えた朝までの日数が、晒す日数になる。
壺の横に、手順を書きかけた紙が置いてあった。根を掘った日は、もう書いてある。いちばん下には、名前も。
その名前の上で、晒す日数と干す日数の欄が、二つとも空いたままだった。




