第31話: 宰相の遺したもの
手袋をはめたままでは、できない仕事がある。
粉の挽き上がりを確かめるのが、その一つだ。乳鉢で挽いた粉をひとつまみ取って、親指と人さし指の腹ですり合わせる。ざらつきが消えていれば、挽き上がり。少しでも残っていれば、もうひと回し。
セレナは十四の秋から、毎日それをやってきた。おかげで、指の腹はいつもかさかさだ。
会談から六十八日め、朝の調薬室である。
和睦の紙は、きのうの卓で最後の一行まで書き上がった。調印は四日後に丘の上の城で行われ、エルデンの船はその翌朝に出る。宰相ヴァルターも王女エルザも、その船で海の向こうへ帰っていく。
春までに、毒見よりましな盾を組んで私にお見せなさい。見せられなければ、あの子は九つの朝に椀を飲みます。私が、飲ませます。
宰相がそう期限を切ったのは、二十日前の問いの場だった。
盾というのは、毒の杯から王家の子を守る手立てのことだ。エルデン王家の盾は、九つの春から毎朝ごくわずかな毒の粉を飲ませて慣らした体だった。エルザは来年の春、九つになる。
春までには半年あるが、船が出てしまえば、次にあの人と向き合えるのがいつになるか分からない。
セレナは、卓の上の帳面を開いた。
ずっと一行目しか埋まっていなかった盾の帳面に、ゆうべ、二行目と三行目が入った。
「セレナ様。それ、また朝ごはんの前に開いてますね」
リタが、湯気の立つ椀を卓の端に置いた。
「三行ですわ。やっと埋まりましたの」
「三行って、少なくないです?」
「よく効く処方ほど、短いものですわ。足りなければ、閣下が足りないとおっしゃいます」
「あの人、足りてても言いそうですけどね」
戸口で、間の抜けた声がした。
「おはようございまーす……」
テオだった。蜂に刺されて二日、顔の腫れはだいぶ引いた。それでも頬のあたりが、まだふっくらと丸い。
リタが、遠慮なく顔をのぞきこんだ。
「あ、まだパンだ」
「焼き色はだいぶ落ち着いたでしょ。……先生、公館へ行くんですよね。俺も行きます」
「あら。何かご用ですの?」
「上着です。お姫さんにくるんで、そのまま持ってかれちゃったんで」
「お似合いだとおっしゃっていましたのに」
「似合うのと寒いのは、別なんですよ」
セレナは帳面を閉じて、胸に抱えた。
棚の上で、コハクが大きく伸びをした。
公館のエルデン客間の扉は、今日も手の幅ぶんだけ開いていた。
廊下の角で、テオが足を止めた。
「俺は、ここで上着を待ってます。中は先生の話でしょ」
「すぐ済むかもしれませんし、済まないかもしれませんわ」
扉の向こうから、小さな足音が駆けてきた。
「セレナ!」
扉がいっぱいに開いて、エルザが飛び出してきた。右の手の甲には、まだ白い布が巻いてある。丘の蜂に刺されたところだ。
「エルザ様。お手は、もう痛みませんの?」
「もう、いたくないの。かゆいだけ」
エルザは布の手をひらひら振ってみせてから、声をひそめた。
「あのね、ヴァルターがきのう帰りのお船のはちみつを買ってくれたの。港の坂のお店で」
「まあ。よかったですわね」
「でもね、坂のとちゅうで二回も休んだのよ。ふうって」
部屋の奥から、低い声がした。
「エルザ様」
エルザは首をすくめて、くすくす笑った。
侍女が、テオの上着を腕に掛けて出てきた。エルザはそれをひったくるように受け取って、廊下の角へ駆けていく。
「テオ! うわぎ、かえしてあげる!」
「お姫さん、走らない走らない」
足音が遠ざかるのを聞きながら、セレナは客間に入った。
宰相は、窓ぎわの卓で書きものをしていた。黒い上着に、黒い革の手袋。卓の上には、書き終えた紙が何枚も重ねてある。
「お邪魔いたしますわ、閣下」
「どうぞ」
宰相は筆を置いた。セレナが椅子に座るのを待ってから、自分も向き直る。
「坂で二回、お休みになったそうですわね」
「港の坂は、思っていたより長かった」
丘でエルザを抱き上げたとき、この人の息は少し上がっていた。セレナはそれを、頭の隅に置いたまま帳面を卓に載せた。
「春まで、とおっしゃいましたけれど。お船が出る前に、お見せしておきたくて」
「盾ですか」
「三行ですの」
宰相は帳面を引き寄せて、開いた。
一 王家の方のお口に入るものは、名前のある手だけを通す。通した者は、その日の帳面に自分の名前を書く。
二 その手は毎朝、お体を読んで帳面に書く。脈と顔の色と、爪の生え際と指先。
三 その帳面を、海の向こうでもう一人の薬師が読む。
宰相は、三行を二度読んだ。
「一行目は、私が宰相府の次官に書き送った指図に近いですね」
「ええ。でも、わたくしのほうが先に書いておりましたのよ。帳面の日付をご覧になって」
宰相の目が、ほんの少しだけ細くなった。笑ったのかどうかは、分からなかった。
「名前を書かせる、と」
「ええ」
「申し上げたはずです。いちばん読ませたくない者が最初に探すのは、粉ではなく名だと」
「伺いましたわ。ですから、探していただきたいんですの」
セレナは、帳面の一行目に指を置いた。
「名前のない手は、誰の手でも同じに見えますもの。誰が淹れても同じだ、と」
宰相は、黙った。
「アロイス殿下が、満座の前でそうおっしゃいましたわ。わたくし、あれは殿下おひとりのお考えではなかったと思っておりますの。閣下の仕組みは、量る手がそう見えるように作ってありましたもの」
窓の外で、港の鐘が一つ鳴った。
「それに名前のある手なら、毒が入った日にどの手を通ったか分かりますわ。二百年前の七度の杯は、誰が入れたのかすぐに分かりましたの?」
「……七度めのあとに、ようやく」
「一度めで分かっていたら、二度めはございませんでしたわね」
宰相は答えなかった。かわりに、帳面の二行目を手袋の指でなぞった。
「人の目も、舌と同じです。見落とします」
「ですから、閣下のお言葉をお借りしましたの。体は、見落としません」
宰相が、顔を上げた。
「毒見は、お口に入る前にしか働きません。この盾は、入ったあとにも働きますの。聖女さまが聖水に粉を足した朝のことは、閣下もご存じでしょう?」
「宮廷薬師のザイデルが吐かせて、炭を飲ませた」
「それから昼前まで、脈を数えつづけましたわ。殿下は持ちこたえました。毎朝あのお体を読んでいた人が、枕もとにいたからですわ」
セレナは、帳面の上で指を止めた。
「七度の杯でも、王様は七度とも命を取りとめたと伺いました。足りなかったのは、毒の効かない体ではございませんの。すぐに気づく目と、すぐに動く手ですわ」
「三行目は」
「わたくしですわ」
セレナは、あっさり言った。
「ザイデル様の帳面の写しを、海のこちらでわたくしが読みます。一人の手なら、脅すことも買うこともできますもの。海をまたいだ二人の手は、そうはまいりません」
「カルディアの公王家が、エルデンの王家の朝を読むことになります」
「それを許すかどうかは、エルデンの皆さまと公王陛下がお決めになることですわ。わたくしは組んで、お見せするだけ」
宰相は帳面を閉じなかった。開いたまま、三行の上に手袋の手を置いた。
「穴があります」
「ございますわね」
「減らすには何年もかかる。そのあいだ、知る者は年ごとに増えていく」
「もう、増えておりますわ」
セレナは、宰相の手袋の指を見た。
「あの朝、寝室で粉の話を聞いた方が五人。粉を止めよという上申に印を押したお家が四つ。閣下は九つのお名前を、どうやって黙らせるおつもりでしたの?」
「決めていない、と申しました」
「九つでは、片方の手では足りませんわね」
宰相の手が、帳面の上で動かなくなった。
しばらくして、宰相は言った。
「それでも毒の効かない体は、今日あの子を守ります。あなたの盾は、組み上がるまでに何年もかかる」
声は、少しも揺れていなかった。
この人の言うことは、間違っていない。二百年、エルデンの王は一度も杯で倒れていないのだ。
だから、ここから先は理屈では言えなかった。
「閣下。手袋を、外していただけます?」
宰相は、セレナを見た。
それから右の手袋の指先をつまんで、一本ずつ引いた。左も外して、卓の端に置く。
二十日前に見た手と、同じ手だった。親指のつけ根と人さし指の内側に、乳棒のたこがある。
違うのは、指の腹だった。あのときより白く、ひび割れが深い。
セレナは身を乗り出して、宰相の右の人さし指の腹を、自分の爪の先で押した。
「お分かりになります?」
「……いいえ」
中指を押した。親指を押した。宰相は、どれにも首を横に振った。
セレナは宰相の手首を取って、脈に指を当てた。
数えた。十。二十。
二十五のところで、ひとつ、抜けた。
聖水の朝、殿下の脈もこうだったと次官から聞いた。遅く、ときどきひとつ抜ける。多すぎる粉が、心の臓に届いたときの打ち方だ。
セレナは、宰相の手を見下ろした。
二十日前、この人は、粉の細かさが指で分からなくなったと言った。指先が鈍っていらっしゃるのね、と自分は返した。白くひび割れた指の腹も、見た。
それを、自分のかさかさの指の先にあるものだと思いこんでいた。乳鉢を何十年も回せば、指は乾いて、手ざわりも鈍る。同じ仕事の手だったから、病の手としては読まなかった。
夏のさかりの森で、テオが青い花を摘もうとしたことがある。セレナはその手首をつかんで止め、自分の口で名を言った。根がいちばん毒の強い草で、手で摘んだだけで指のしびれる人もいる、と。
調薬室の棚にも、乾いた束が置いてある。よく知っている草だ。
だから、最初に外した。あの粉によく似た金色の酒を会談の卓でふくんだとき、その草の喉を灼く刺は、どこにも立っていなかった。
刺は、塩で晒して干せば抜ける。二十日前に晒しの手順を聞いたときは、味を変えるためだとしか思わなかった。
壁の内側だけで育った珍しい草だと、ずっと思いこんでいた。壁で囲っていたのは草ではなく、晒して干す手間のほうだった。名を伏せて、手順だけを宰相から宰相へ渡してきたのだ。
「……外しておりましたの。いちばん初めに」
声が、思っていたより低くなった。
「よく知っている草ですもの。会談の卓でふくんで、刺が立っていないのを確かめて、それで外しましたの。……トリカブトですわ」
宰相の目が、セレナの顔の上で止まった。二十年あまり挽いてきた粉がその草だと、この人はいま初めて聞いたのだ。
「根に、いちばん毒がありますの。塩で晒すと刺が抜けて、毒は和らぎますけれど、消えはいたしません。それを二十年あまり、素手で挽いていらしたのね」
「手袋では、細かさが分かりません」
宰相は、自分の指の腹を見た。
「前の宰相も、素手で挽いていました。指が利かなくなって、二年で亡くなりました。心の臓だと、医者は申しました」
セレナは、宰相の手首を握ったままだった。
「……ご存じでしたのね」
「冬のころから」
「ご存じで、黙っていらしたのね」
喉の奥が熱くなった。まだ手首に当てていた指に、力が入った。
毒の効かない体を作るための粉を、毒の効く手が挽いていた。二百年、誰もそれを数えなかった。この人は、数えた上で黙っていた。
「閣下。分かっていて黙るのは、婚約破棄の朝の一度きりと決めておりますの」
宰相の目が、セレナに向いた。
「ですから、申し上げます」
セレナは、令嬢の言葉づかいを置いた。
「心の臓の打ち方が、もう乱れています。いつ止まっても、おかしくありません」
宰相は、ただ聞いていた。
手首の脈が、セレナの指の下でまた一つ抜けた。
「あなたの盾も、挽く人の手を削ってまいりましたわ」
セレナは、声を少しだけ戻した。
「七つで亡くなった子と、手のひらを上に向けて待つだけになった殿下と、閣下を。……わたくしの盾は穴だらけですけれど、挽く手を殺しはいたしません」
長い沈黙だった。
卓の上の外した手袋に、窓からの光が落ちていた。
「エルザ様のお手を引くとき、閣下はいつも手袋でしたわね」
宰相は答えなかった。
「丘でも、上着ごとお抱きになった。背中を叩くときも、上着の上から」
「子どもの肌は、薄いので」
それだけ言って、宰相は外した手袋に目を落とした。
問いの場の帰り、手袋の手に引かれていくエルザを見送ったことがある。粉を挽いてきた手と、次に粉を飲む子の手のあいだに、手袋一枚しかないと思った。
宰相の素手の指が、帳面の一行目の脇へ動いた。日付のところで、白い指の腹が止まった。
「フェアミル殿」
「はい」
「拝見しました」
宰相は、帳面を閉じた。
「あの子は、九つの朝に椀を飲みません」
ひと呼吸おいて、宰相は続けた。
「私が、飲ませません」
セレナは、返事ができなかった。
あの日この人は、私が飲ませますと言ったのだ。同じ声で、同じ平らさで。
「五人と四つの家にも、何もいたしません」
「……よろしいの?」
「名を、覚えてしまいましたので」
宰相は、外した手袋を指でそろえた。
「名を覚えると、切るときに手が鈍る。前に、そう申し上げました。あなたは、せいぜい鈍らせろとおっしゃった」
「申しましたわ」
「鈍りました。あなたのおっしゃったとおりに」
セレナは、笑えばいいのか怒ればいいのか分からなかった。どちらもしなかった。
「殿下のお匙は、ひと冬に麦粒ひとつずつ減らします。減らすあいだも、粉は要ります。根を掘る日と塩で晒す日数と干す日数を、書いてお渡しします」
「挽くのは、わたくしですわね」
「お願いできますか」
「お引き受けしますわ。ただし、篩で量ります」
宰相が、セレナを見た。
「挽き上がりは、指の腹でなくても分かりますの。目の細かい篩に通して、残らなければ挽き上がり。わたくしは手袋をはめて挽きます。指の腹は、もう要りませんわ」
宰相は、しばらく黙っていた。
「篩」
「どこの調薬室にもございますわ」
「二百年、誰もそれを言わなかった」
「どなたも、薬師にお訊きにならなかったからですわ」
宰相は、目を閉じた。息を一つ吐いて、また開いた。
「今夜のうちに、書くものがあります」
「今夜は、わたくしが脈を数えます」
「書き終えるまでは、一人にしていただきたい」
「閣下」
「明日の朝の鐘で、数えにいらしてください」
セレナは、言い返そうとした。言い返す言葉はいくつもあった。
けれど目の前の人は、もう筆を取っていた。最後に何を書くかを、自分で決めた人の顔だった。
セレナは立ち上がった。
「では、扉の外に人を置きます。わたくしも、控えの間で起きておりますわ。それは、譲りませんわよ」
宰相の筆が、紙の上で止まった。
「……テオドール・リント殿なら」
日が落ちると、客間は窓の外から暗くなった。
ヴァルターは灯りを一つだけ点けて、筆を取り直した。
長椅子では、エルザが侍女の黒い上着を掛けられて眠っている。夕食のあと、帰りの船の蜂蜜の話を三度して、四度めの途中で眠った。
廊下には、その男が座っていた。扉の隙間から、ときどき鼻歌が聞こえる。調子の外れた、港の歌だった。
宛名を書いた。王太子殿下。
二百年前の十年で、七度の杯。七つで始めて、ひと月でいなくなった子の一行。九つの春の椀。殿下の最初のひと匙の朝、払い落とされた椀の粉を床から拭ったのは自分だったこと。二杯目を、肩を押さえて飲ませたのも自分だったこと。
筆は遅かった。指の腹が利かないので、一字ごとに目で確かめなければならない。
王が杯で倒れれば宮廷が割れ、最初に血を流すのは民だ。毒の効かない体は、そのための盾だった。挽く手が一本ずつ削れるのは、盾の値段のうちだと思っていた。
七つの子の一行を、二百年、二行にしなかった。それが宰相の仕事だった。
あの娘は、その値段を数えに来た。
穴だらけの盾だと、自分で言った。その通りだろう。人の目は見落とす。何年もかかる。
最後の段に、書いた。
――あの粉を挽いておりましたのは、私です。
名を書くのは、二十年あまりで初めてだった。包みには一度も書かなかった。書けば、受け取る者が一人、名を知るからだ。
ヴァルター・ゲーレン。
最後の一画が、紙の上で少し流れた。
次官に宛てて、もう一通書いた。五人と四つの家には何もしないこと。ラセル嬢は、したことの分だけ裁きを受けること。殿下のお匙はザイデルに任せ、カルディアの公太子妃となられる方の量りに従うこと。
封をした。
外套の隠しから、小さな布の袋を出した。港の坂の店で買った、蜂蜜の粒だ。帰りの船のぶんは、あの子が兄に渡してしまった。だから、買い直した。
ヴァルターは手袋をはめた。右、左。指を一本ずつ、奥まで。
それから長椅子のそばに膝をついて、袋をエルザの枕もとに置いた。
立ち上がろうとしたとき、胸の中で何かが一つ、打ちそこねた。
次の一つも、来なかった。
床が、思っていたより近くにあった。
灯りが斜めに見える。扉の隙間の向こうで、鼻歌が止まった。
ヴァルターは、覚えた名を呼んだ。
「……テオドール・リント殿」
声は、ほとんど出なかった。
それでも扉は、すぐに開いた。
廊下の奥の控えの間で、セレナは灯りを一つ借りて起きていた。
外套も脱がず、薬箱を足もとに置いたまま、椅子の背にはもたれなかった。昼に数えた脈が、まだ指に残っていた。
廊下を駆けてくる足音がして、戸が割れるような音で叩かれた。
「先生! 宰相閣下が!」
テオの声だった。
セレナは薬箱をつかんで立った。何を、とは訊かなかった。
廊下を、テオの背中を追って駆けた。この人は、こういうときだけ足が速い。
客間の扉は、開け放たれていた。
宰相は床に横たわっていた。侍女が、その頭の下に畳んだ上着を差し入れている。エルザが宰相の胸にしがみついて、泣きじゃくっていた。
「ヴァルター、おきて。ヴァルター」
セレナは膝をついて、宰相の手首を取った。
手が、冷たい。脈は遅くて重く、ときどき抜ける。三つ打って、一つ休む。
「テオさん、長椅子の背を起こしたいの。手を貸して」
「はい」
「それから厨房で石を焼いてもらって。布にくるんで、三つ」
「はい!」
テオと侍女で宰相の体を長椅子に移し、背に枕を重ねて上体を起こした。セレナは宰相の上着の前を開け、喉もとのボタンを外した。
心の臓に入ったものは、吐かせても出てこない。炭を飲ませても、届かない。できるのは体を冷やさず息を楽にして、打ちつづけるのを待つことだけだ。
それしかないことが、セレナには分かっていた。
分かっていて、手は止まらなかった。
少し遅れて、ジェラルドが駆けこんできた。公館の夜番の者が、城まで馬を飛ばしたらしい。戸口で部屋を一目見て、何も訊かなかった。
「何をすればいい」
「エルザ様を。……でも、離さないでさしあげて」
ジェラルドは長椅子のそばに片膝をついて、しがみつくエルザを背中からそっと抱えた。引き離すのではなく、宰相の手が届くところで。
焼いた石が届いた。セレナは布にくるんだ石を、宰相の足もとと脇に入れた。それから、また手首に指を当てた。
数えた。
夜の鐘が一つ鳴って、しばらくして、もう一つ鳴った。
宰相が、目を開けた。
「……フェアミル殿」
「おりますわ」
「書き終えました。卓の上の、二通を」
セレナは、卓のほうを見た。封をした文が二通、灯りの下に並んでいた。上の一通の宛名は、王太子殿下だった。
「お届けいたします。必ず」
宰相の目が、ジェラルドの腕の中のエルザに動いた。泣き疲れたのか、しゃくりあげる息だけになっている。
「ヴァルター」
エルザが、宰相のほうへ手を伸ばした。
宰相の右手が、ほんのわずか動いた。伸ばしかけて、止まった。
手袋が、指の半ばまで抜けていた。倒れた拍子に、ずれたのだ。
宰相の唇が動いた。
「……手袋を」
セレナは、宰相の右手を取った。指先に引っかかっているだけの革に、指を一本ずつ、奥まで入れる。左も、同じように。
問いの場の日に、この人が自分でやっていた順番だった。
はめ終えると、セレナはその手を、エルザの小さな手のほうへ寄せた。
エルザは、両手で宰相の指を握った。
宰相が、エルザを見た。
「エルザ様。……今夜は、静かにできますね」
エルザは、鼻をすすった。
「できるもの」
それきり、エルザは宰相の指を握ったまま、長椅子の端に頬をつけた。ジェラルドが、自分の外套をその背中に掛けた。
しばらくして、小さな寝息が聞こえはじめた。
部屋が静かになった。灯りの芯が、じじ、と鳴った。
「フェアミル殿」
「はい」
「あの子らを、頼みます」
セレナは、宰相の顔を見た。
「あの子ら、ですの」
「エルザ様と……アロイス殿下です」
宰相の声は、息と同じくらいの細さだった。
「九つの春にあの方の肩を押さえて、二杯目を飲ませたのは私です。私は椅子を守りました。あの子らのほうは、守れなかった」
問いの場でこの人は、守っていたのは王位で殿下ではないと言った。
いま、殿下を、あの子と呼んだ。
セレナは、宰相の手袋の手に、自分の手を重ねた。革の下の手は、まだ温かかった。
「ええ。お引き受けいたします。殿下も、エルザ様も」
それから、手袋の手に重ねた手をそのままにして言った。
「篩で量りますわ。閣下の指のぶんまで。お代は、いただきませんけれど」
「……あなたは、本当に」
宰相の目が、ほんの少しだけ細くなった。今度は、笑ったのだと分かった。
「口が減らない」
「七年、黙っておりましたもの。取り返しておりますの」
宰相は、それきり何も言わなかった。
セレナは、手首に指を当てたまま数えた。
三つ打って、一つ休む。
四つ打って、二つ休む。
ジェラルドは、エルザの背中に手を置いたまま動かなかった。戸口の柱にもたれたテオが、袖で顔をこすった。
窓の板戸の隙間が、白みはじめた。
数えていた脈が、次の拍を打たなかった。
セレナは、指を離さなかった。もう一拍ぶん待った。もう一拍ぶん。
それから、そっと指を離した。
宰相の目を、閉じさせた。
エルザは、まだ眠っていた。小さな両手が、黒い革の手袋の指を二本、しっかり握ったままだった。
手袋をはめたままでは、できない仕事がある。
この人には、手袋をはめたままでしかできない仕事も一つあった。




