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婚約破棄された宮廷薬師ですが、隣国で溺愛されています 〜私を「薬係」としか見なかった王太子が寝込んでも、もう戻りませんわ〜  作者: 相川ことね


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第30.5話: 道化、肚を据える

 おにいさまの はちみつを とりにいきます。


 書き置きには、大きなひらがなでそれだけ書いてあった。行がだんだん右へ下がっていって、最後の一字は紙の端にくっついている。その下に、エルザ、と名前があった。


 会談から六十六日め、昼下がりの調薬室である。


 書き置きを握って駆けこんできたのは、エルザ付きの侍女だった。戸口の柱に片手をついて、肩で息をしている。


「お昼寝のお支度をしているあいだに、お部屋からいなくなられて……。枕の上に、これが」


「お庭は?」


「お庭も厨房も、客間の前の廊下も探しました。こちらにいらしているかと思ったのですが」


 セレナは調薬室を見回した。


 干し棚と、天井から吊るした薬草の束。棚の上で丸くなっているコハク。薬包を畳んでいたリタ。窓辺の椅子に足を投げ出して、梨をかじっている男がひとり。


 エルザの姿は、どこにもなかった。


「はちみつ、って書いてありますね」


 リタが、セレナの肩ごしに紙をのぞきこんだ。


「きのうの夕方、お兄さまの蜂蜜の粒のお話をしてましたもんね。残りは明日のぶんだって」


 セレナはうなずいた。


 王都のアロイス殿下は、エルザが近習に託した蜂蜜の粒を、一日にひと粒ずつ召し上がっている。小さな袋だった。もう、そう幾つも残っていないはずだ。


(なくなる前に、足してさしあげたかったのね)


 かわいらしい理由だった。けれど、笑っていられる話ではない。


 エルデンの王女が、カルディアの公都で、供も連れずにひとりで歩いている。もし怪我でもすれば、二つの国がやっとここまで運んできた和睦の卓がひっくり返りかねない。


 それに、あの宰相が何より守ってきたのは、あの小さな子なのだ。


 窓辺で、かじりかけの梨が卓に置かれる音がした。


「……はちみつ」


 テオだった。


 いつもなら、ここで何か言う。迷子のお姫さんならチビに探させましょうとか、俺が蜂蜜を塗って立ってりゃ寄ってきますよとか。


 テオは何も言わなかった。顔から、すっと色が抜けていた。


「テオさん?」


「港の裏の丘です」


 テオはもう立ち上がって、戸口へ向かっていた。


「チビの蜂蜜は丘の爺さんにもらってるって、俺がしゃべったんですよ。調薬室の裏の庭で、お姫さんに。爺さんは刺されても腫れないんだって、面白おかしく」


 戸口で、テオは侍女を振り返った。


「公館へ戻って、旦那と宰相閣下に伝えてください。テオが丘へ行ったって言えば分かります」


「は、はい!」


「リタちゃん、チビを先生に」


 リタが棚からコハクを抱き下ろして、セレナの襟元へ押しこんだ。セレナはもう、薬箱を肩にかけていた。


「わたくしも参りますわ」


 テオは一瞬だけ何か言いかけて、やめた。


「……走りますよ」




 港へ下る通りは、昼の荷運びでごった返していた。


 テオは人のあいだを縫って走った。セレナは薬箱を押さえて、その背中を追いかけた。


 魚屋の前で、テオが足を止めた。


「おかみさん。小さい女の子、通らなかった? 上等の服で、ひとりで」


 セレナは、おや、と思った。


 この人は、ものを訊かない人だったはずだ。訊いたら教えてくれないから、向こうが喋りたいことを喋らせて、こぼれてきたものを拾う。前に、そう言っていた。


 今日は、まっすぐに訊いていた。


「ああ、通ったよ。半刻ばかり前かね。蜂蜜のおじいさんの丘はどっちって訊くから、港の裏だよって教えたけど」


「ひとりで?」


「ひとりだったよ。お付きの人が後から来るんだと思ってさ」


「ありがと」


 船着場の手前では、子どもが三人、テオを見つけて駆け寄ってきた。


「テオ兄ちゃん! さっきのお姫さまみたいな子、知ってる?」


「どっち行った」


「丘の道。石段で転んだけど、泣かないで行っちゃった」


 テオの顎に、ぐっと力が入ったのが見えた。


 市場の端に、見覚えのある白いひげがあった。蜂蜜の壺を並べた台の向こうで、グスタフが客に味見の匙を渡している。


「爺さん!」


「おう、テオか。なんだ、そんな顔して」


「丘、いま誰かいる?」


「誰もおらんよ。今日は市の日だからな」


 テオは返事もせずに、また走りだした。


 セレナにも分かった。巣箱を素手で持ち上げても腫れない人は、いまここで蜂蜜を売っている。


 丘にいるのは、その話を聞いて真似をしようとしている子どもだけなのだ。


 馬丁の小屋の前で、テオは葦毛を一頭引き出させた。蹴る癖があると、いつか馬丁がこぼしていた馬だ。案の定、葦毛は耳を伏せて後ろ脚を踏み鳴らした。


 テオは手綱を短く持って、葦毛の首に額を寄せた。低い声で何か話しかける。三つ数えるほどのあいだに、伏せていた耳が前へ戻った。


「先生、後ろに。俺の腰につかまってください」


 セレナは踏み台を借りて、テオの後ろにまたがった。スカートの裾など、かまっていられなかった。




 丘の南の斜面が見えたところで、葦毛が足を止めた。


 テオが腹を蹴っても、首を振って前へ出ようとしない。


 音が聞こえていた。


 夏のさかりに来たときの、低く重なる羽音ではなかった。もっと高くて、もっと荒い。嵐の晩に、戸の隙間で鳴る風の音に似ていた。


「馬は、ここまでですね」


 テオは葦毛から下りて、手綱を木の幹に結んだ。セレナも下りて、斜面の上を見上げた。


 藁で編んだ釣鐘の巣箱が、十ばかり並んでいる。そのひとつが、横倒しになっていた。


 割れた巣のかけらが草の上に散らばって、こぼれた蜜が日の光にぎらぎら光っている。その上で、蜂が黒い渦を巻いていた。


 倒れた巣箱のすぐ脇に、小さな背中があった。


 草の上に丸くなって、両腕で頭を抱えている。水色の服の背中に、黒い粒がいくつも止まっては離れていく。


「エルザ様!」


 セレナが叫ぶと、小さな背中がびくりと震えた。顔は上げない。上げられないのだ。


 セレナは斜面へ一歩踏み出した。


 その腕を、テオがつかんだ。


「先生は駄目です」


「でも、あの子が」


「先生が刺されて倒れたら、誰がお姫さんの手当てをするんです」


 テオの声は静かだった。セレナがこれまでに聞いたこの人の声の中で、いちばん静かだった。


 言い返せなかった。


 蜂に刺されたことのない体が、どれだけ腫れるかは誰にも分からない。顔だけで済むこともあれば、喉が腫れて息が詰まることもある。そうなったとき手当てのできる者は、ここにはセレナしかいない。


 セレナは、唇をきゅっと結んだ。


「……では、まっすぐ下の林まで。振り返らないで。叩かないで」


「知ってます。叩くと、仲間を呼ぶんでしょ」


 テオは首に巻いていた布をほどいて、鼻と口を覆うように結び直した。


「あいつら、息と顔を狙ってくるんですよ。爺さんの受け売りですけど」


 それから、着古した上着を脱いだ。


「テオさん、お顔が」


「顔はまあ、いいです。二枚目すぎて、前から困ってたんで」


 軽い声だった。いつものテオの声だった。


 けれど上着を握った指の関節が、白くなっていた。


「茶化すのは得意なんですけどね」


 テオは斜面の上を見たまま言った。


「ここで逃げたら、俺は一生笑えなくなるんで」


 それだけ言って、テオは歩きだした。


 走らなかった。


 拾った獣に近づくときと、同じ足どりだった。急がず、止まらず、まっすぐに。布の下で、口が何か動いている。言葉までは聞き取れなかった。


 黒い渦が、テオの頭のまわりへ寄っていった。


 髪に、首筋に、蜂が次々と止まる。テオの体が、そのたびにびくりと跳ねた。それでもテオは手を上げなかった。一度も払わなかった。


 倒れた巣箱の脇で、テオは膝をついた。上着を広げて、エルザの頭から背中まですっぽりとかぶせる。そのまま上着ごと、小さな体を胸に抱え上げた。


「お姫さん、お迎えです。屋根のない馬車ですけど」


 今度は、聞こえた。


 テオは身をひるがえして、斜面を駆け下りはじめた。


 蜂がついてくる。羽音の塊がテオの頭にかぶさったまま、一緒に下りてくる。


「いてっ。いてて、いてっ」


 声が、斜面の途中で何度も裏返った。それでも足は止まらなかった。セレナの横を駆け抜けて、林の中へ飛びこんでいく。


 セレナは薬箱を抱えて、その後を追った。


 木の下は暗くて、ひんやりしていた。羽音が少しずつ遠くなる。追ってきた蜂が一匹、また一匹と、明るい斜面のほうへ引き返していった。


 林の奥の倒木の前で、テオはやっと膝をついた。




 上着の中から、しゃくりあげる声がした。


 セレナが上着をめくると、エルザの真っ赤な顔が出てきた。涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃになっている。


「セレナぁ……」


「はい、セレナですわ。もう大丈夫。どこを刺されましたの?」


「て。……あと、あし」


 右の手の甲に、ひとつ。左の足首に、ひとつ。赤くふくらんだまんなかに、小さな黒い針が刺さったままになっていた。


 セレナは小刀を抜いて、刃の背を針の脇に当てた。


「少しだけ、ちくっとしますわよ」


 指でつまむと、針の根もとについた毒の袋を押してしまう。だから、横に払う。夏のさかりに、丘の蜂飼いの老人に見せてもらったやり方だ。


 刃の背を寝かせて、すっと払う。針が草の上に落ちた。


「二つだけでしたわ。よく我慢なさいましたわね」


「……テオは?」


 セレナは振り返った。


 テオは倒木にもたれて座りこんでいた。鼻と口の布をむしり取って、大きく胸を上下させている。


「先生、先にお姫さんを……」


「もう済みましたわ。次はテオさんの番です」


 テオの顔をのぞきこんで、セレナは言葉に詰まった。


 額にも、頬にも、首筋にも、耳の後ろにも、黒い針が刺さっている。シャツの襟もとにも、手の甲にも。


 ひとつずつ、払っていった。払うたびに、数えた。


 十。二十。


 三十を過ぎたところで、テオが口を開いた。


「先生。俺の顔、いまどうなってます?」


「焼きたてのパンですわ」


「それ、爺さんの最初の年と同じじゃないですか……」


 エルザが、上着にくるまったまま身を乗り出した。


「テオ、ほんとにパンみたい」


「お姫さん、そこは違うって言ってくださいよ」


 三十七。それで最後だった。


 セレナは小刀をしまうと、テオの喉もとに指を当てた。脈は速い。けれど、乱れてはいない。


「テオさん、何かお話しになって。なるべく長く」


「長く? ええと、港のマイス親方の船が来週また李を積んでくるそうで。今度のは去年より甘いって親方は言うんですけど、あの人は毎年そう言うんですよね」


「声はかすれておりませんわね。息は苦しくありません?」


「苦しくはないです。顔が重いだけで」


 セレナは、ゆっくりうなずいた。


 喉は腫れていない。それが、いちばん怖かったのだ。


「刺されたことのない方は、刺されてみるまでどう腫れるか分かりませんの。お顔だけで済む方もいれば、喉が腫れて息ができなくなる方もいらっしゃいますわ」


「……それ、行く前に言ってくれません?」


「申しあげていたら、おやめになりました?」


 テオは少し考えた。それから腫れた顔で笑おうとして、痛そうに顔をしかめた。


「やめなかったですね」


「でしょう」


 セレナは林のはずれまで出て、小道の脇にかがんだ。踏み固められた土の上に、丸い葉が地面に貼りつくように広がっている。


 オオバコだ。人や馬にどれだけ踏まれても枯れない、道ばたの草である。この葉を揉んで汁を出し、刺されたところに当てておくと、腫れと痛みが少しずつ引いていく。


 両手いっぱいに摘んで戻り、水筒の水で葉を冷やした。揉んだ葉を、エルザの手の甲と足首に当てる。残りは、テオの首と頬に一枚ずつ貼っていった。


「先生。俺、いま草まみれですよね」


「よくお似合いですわ」


 テオの顔は、葉っぱの隙間から腫れたまぶたがのぞいているだけになった。


 エルザが、上着のすそを握ってうつむいた。


「……ごめんなさい」


「あら。何がですの?」


「おじいさん、いなかったの。だから待ってたの。でも、ぜんぜん来なくて」


 エルザは鼻をすすった。


「おじいさんは手で持っても刺されないって、テオが言ってたもの。わたしもそうっとやったら、大丈夫だと思ったの。おにいさまの粒は毎日ひとつだから、すぐなくなっちゃうでしょう」


 テオが、葉っぱの下で何か言いかけて、やめた。


 セレナは、エルザの前にしゃがんだ。


「おじいさんが腫れないのはね、エルザ様。何十年も刺されて、体が少しずつ慣れたからですの。最初の年は、テオさんよりもっとひどいお顔だったそうですわ」


「もっと?」


「もっと、ですわ」


 エルザはテオの顔を見た。それから、ぞっとしたように上着の中へ顔を半分うずめた。


「お姫さん」


 テオが、葉っぱの隙間から言った。


「こういうのは、慣れないほうがいいんですよ。慣れるまで刺されるなんて、ろくなもんじゃないんで」


 軽い口ぶりだった。


 けれどセレナには、それが蜂のことだけを言っているようには聞こえなかった。


 この人は知っている。エルデンの王家の子が、毒に体を慣らされていくことを。そして目の前のこの子は、来年の春に九つになる。


 エルザは、よく分からないという顔でうなずいた。


 セレナは、テオの手の甲の葉を一枚貼り直した。


 初夏の夕方のことを思い出していた。港と宿場をひと回りした帰り道に、この人は自分のことを、剣は駄目なんですよと言ったのだ。旦那の隣に立つには足りていない。耳と足なら、人並みよりは使える。それくらいしか返せるものがない、と。


「テオさん」


「はい」


「今日は耳と足と、それからそのお顔もお使いになりましたわね」


 テオは、しばらく黙っていた。


「……使ったっていうか、使われたっていうか」


 それから、葉っぱの下でぼそりと言った。


「あの夕方の話は、忘れてくださいって言ったのに」


「忘れませんわ。あのときも、そう申しあげましたでしょう」




 林の外で、蹄の音がした。


 二頭だった。先の一頭から飛び降りたのは、ジェラルドだった。もう一頭の手綱を握っていたのは、宰相ヴァルターだった。


 宰相が馬に乗っているところを、セレナは初めて見た。


「ヴァルター!」


 エルザが、上着にくるまったまま立ち上がった。


 宰相は馬を下りると、まっすぐにエルザの前へ来て片膝をついた。小さな手の甲の葉と、足首の葉を見る。それから、上着ごとエルザを抱き上げた。


 宰相の息は、少し上がっていた。


 エルザは宰相の首にしがみついて、また泣きだした。宰相は何も言わなかった。上着の上から、エルザの背中を一度だけ叩いた。


 ジェラルドのほうは、倒木の前で足を止めていた。


 葉っぱだらけのテオの顔を、上から黙って見下ろしている。


「……テオ」


「旦那。見ないでください。二枚目の名がすたるんで」


 ジェラルドは返事をしなかった。かわりに自分の上着を脱いで、シャツ一枚のテオの肩にかけた。


 雨の街道のことを、セレナは思い出した。何も知らない行き倒れの娘に、この人はああして外套をかけたのだった。


「巣箱をひとつ、倒しました」


 上着の襟をつかんで、テオが言った。


「お姫さんじゃなくて、俺が倒したことにしといてください。爺さんには、俺が謝りに行きます」


「ああ」


 ジェラルドはそれだけ言って、大きな手をテオの頭の上に置いた。髪にひっかかっていた葉っぱを一枚、指でつまんで落とす。


 子どものころから、何度もそうしてきた手つきに見えた。


 エルザを抱いたまま、宰相がこちらへ歩いてきた。


 テオの前で足を止める。腫れた顔と、首の葉と、肩にかかった上着を、順に見た。


「お名前を、うかがってもよろしいですか」


 静かな声だった。


 テオは、倒木から背中を離した。


「港の……」


 言いかけて、言い直した。


「テオドール・リントです」


「テオドール・リント殿」


 宰相は、その名を一度だけ口にした。それから、ほんの少しだけ頭を下げた。


「覚えておきます」


 セレナは、宰相の顔を見た。


 覚えるのは苦手だと、この人は言っていた。調薬室で、五人の名を数えさせられた日に。


 その人が、自分から名を訊いたのだ。


 宰相はエルザを抱き直して、馬のほうへ歩いていった。エルザは宰相の肩ごしに、こちらへ手を振っている。テオの上着に、すっぽりくるまったまま。


「あ。俺の上着」


 テオが、間の抜けた声を出した。


「……まあ、いいか。お姫さんのほうが似合ってるし」


 セレナの襟元から、コハクがそろりと顔を出した。鼻先が、丘の斜面のほうを向いている。こぼれた蜜の匂いを、ずっと嗅いでいたらしい。


「だめですわよ。あなたも今日は、おあずけです」


 林の外では、まだ羽音が鳴っていた。


 倒れた巣箱のまわりで、蜂たちがこぼれた蜜をひと口ずつ、元の巣へ運びはじめていた。

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