第30話: 言葉の持ち主
「飲まぬ」
王太子アロイスは、椀のほうを見ずに言った。
寝台の脇で、宮廷薬師イレーネ・ザイデルの手が止まった。銀の匙の上に、麦粒ひとつぶんの白い粉が載っている。
会談から六十二日めの朝だった。聖女ミレーヌの水を飲んで死にかけたあの朝から数えて、七つめの朝になる。
今朝、胸が先に鳴った。
アロイスの体は、毎朝わずかな粉を飲まなければもたない。胸が鳴り、喉が渇き、口が苦くなり、最後に指が震える。粉が足りない朝は、この順で来る。あの朝からしばらくは、この順が来なかった。多すぎた粉が、まだ体に残っていたからだ。
ゆうべ、カルディアから次官が戻ってきた。向こうの薬師に言われたことを、一字も違えずに覚えて帰ってきた。
脈が戻って胸が先に鳴った朝に、麦粒ひとつで始め直す。
その朝が、今朝だった。
「殿下」
イレーネの声は平らだった。
「今朝が、その朝です」
「知っている。ゆうべ聞いた」
「でしたら」
「飲まぬと言った。使いを出したのだ。あれの返事が来るまでは、誰の淹れたものも飲まぬ」
あの朝、ミレーヌの手から水を飲んだ。祈りを込めた清い水だと言われて、喉が鳴るまま飲んだ。それで死にかけた。
それからは誰の手から出てきたものも、喉が受けつけなくなった。
ゆうべ戻った次官は、宰相府で自分宛ての文を一通受け取っていた。殿下の口と体に触れるものは、宮廷薬師の手を通したもののほか、何ひとつ持ち込ませぬこと。次官がカルディアへ向かう道で、すれ違っていた文だ。だから今朝からは、水も重湯も、イレーネが汲んで確かめてから椀に移す。
近習のフェリクスに言わせた言葉は、一つだけだ。お前の淹れたものでなければ、私は飲まぬ。
イレーネは、匙を乳鉢の上に戻した。
「フェリクスどのが着くのは、早くて今朝です」
「なら、待つ」
「待たれた朝のぶんだけ、お体はまた削れます」
「分かっている」
分かってはいた。それでも、口は閉じたままだった。
扉の脇で、次官が窓のほうを見た。窓の板戸の隙間は、もう白い。朝の鐘は、さっき鳴り終わったところだった。
廊下を、誰かが走ってくる音がした。
石の床を蹴る音がつまずいて、また走る。扉の前で止まった。
扉が開いた。
泥の固まった上着の少年が、戸口で膝をついた。肩で息をしている。替え馬を乗り継いで、夜も走らせてきたのだろう。唇が白く乾いていた。
「殿下。……フェリクス、ただいま戻りました」
アロイスは、枕から背中を浮かせた。
「返事は」
少年は答えずに、上着の内側から白い布の包みを出した。両手で持ったまま、寝台ではなくイレーネのほうへ膝で進んだ。
「宮廷薬師さまに、先にお見せするようにと。フェアミル様が」
イレーネが、包みを受け取った。
布をほどくと、たたんだ紙が一枚出てきた。アロイスには見覚えがあった。引き出しの奥にしまわせて、近習に持たせた紙だ。
イレーネは紙を開いて、下のほうに目を落とした。
しばらく、何も言わなかった。それから胸もとの内側へ手を入れて、四つにたたんだ量りの紙を出した。二枚を、寝台の脇の小卓に並べる。
「フェアミル様の字です」
「……確かか」
「量りの紙と、同じ手です。右へ傾いて、払いが短い。カルディアで九日、同じ卓で帳面を見せ合いましたから」
イレーネが、紙をこちらへ向けた。
いちばん上に、自分の書いた名前があった。一画目だけが太くて、あとは揺れている。その下に、自分にも読めない黒い塊。墨のしずくの丸い染み。
染みの下に、一行増えていた。
ザイデル様の匙は、わたくしの量りです。飲まねば、もちませんわよ。黙ってお飲みくださいまし。
名前は、どこにも書いていなかった。
アロイスは、その一行を読み返した。
量りの紙を初めて見せられた朝、知らない字だと思った。それでも、セレナか、と声に出した。イレーネは、名前は書いてありません、としか言わなかった。それきり、確かめもしなかった。
あの量りの紙のとおりに、自分はもう粉を飲んでいたのだ。ミレーヌの水を飲まされた朝より前に、三つの朝も。
お前の淹れたものでなければ飲まぬ。そう言わせて、少年を三日走らせた。
返ってきた一行が言っているのは、お前はとうに飲んでいた、ということだった。
「名前がない」
声が、思ったより尖った。
少年が、床に手をついたまま顔を上げた。
「お名前はございません、と。殿下はフェアミル様の字をご存じないでしょうから、と。ですから宮廷薬師さまに先にお見せして、お伝えいただくようにとおっしゃいました」
何年も、婚約者だった。
その女の字を、自分は知らない。向こうも、それを知っていた。
アロイスは、紙を膝の上に置いた。
「……口では、何と言った」
少年の肩が、すっと下がった。
「殿下。申し上げねばならないことがございます」
「言え」
「わたしは殿下のお言葉に、勝手なことを足しました。戻れ、と。婚約は元に戻してやる、と。向こうの家との話は私から断ってやる、と」
アロイスは、少年の顔を見た。
「私は、そんなことは言っておらん」
「はい。殿下がお可哀想で、そう申し上げればお戻りになるかと」
「勝手なことを。……あとで叱る。それで」
「すぐに、見抜かれました。口上の最初と最後で、声が違うと」
少年の声が、そこで小さくなった。
「最初はお顎を上げていたのに、最後だけわたしの声だった、と。……お返事は、戻りません、でした。婚約のこともお断りする、と。もう、よそのお家にお入りになるそうです」
侍従のヨアヒムが、壁ぎわで小さく咳をした。
向こうの公家に嫁ぐらしいという噂なら、前にミレーヌの口から聞いていた。だから、そこは驚かなかった。驚いたのは、そのあとだった。
「それから、殿下」
少年は、膝の上で拳を握った。
「あちらの前庭で、わたしが馬から落ちたときのことです。フェアミル様に言われて、井戸の水を汲んでくださった方がおられました。黙って汲んで、柄杓に半分だけ持ってきてくださいました」
「それが、どうした」
「カルディアの、公太子殿下でございました」
窓のほうを見ていた次官が、少年へ顔を戻した。
アロイスは、少年の泥だらけの上着を見ていた。
隣国の跡継ぎが、自分の使いの子どものために井戸へ行った。言われて、何も訊かずに。
自分は二十三年のあいだ、湯ひとつ沸かしたことがない。毎朝、手のひらを上に向けて待っていただけだ。そこへ椀を載せていたのが誰だったか、顔も見なかった。
そういう男のところへ、あれは行く。
アロイスは、膝の上の紙をもう一度見た。
黙ってお飲みくださいまし。
言われなくても、言い返す言葉は一つも出てこなかった。
イレーネのほうへ、目を上げた。
イレーネは何も訊かずに、乳鉢から匙をすくい直した。量りの紙と見比べて、小刀の背で端を払う。粉は、匙の音もなく椀の湯冷ましに落ちた。
二度鳴らしてくれとは、言わなかった。
イレーネが椀を差し出してきた。
アロイスは、手のひらを上に向けなかった。両手を伸ばして、椀を自分でつかんだ。指先が震えて、椀の中の水が細かく揺れた。こぼさないように、胸もとまで引き寄せる。
椀は、思っていたより重かった。毎朝この重さを、誰かが自分の手のひらまで運んでいたのだ。
黙って飲んだ。
味は、しなかった。
椀を返すと、少年がまた上着の内側をさぐった。小さな布の袋が出てきた。少年はそれも、寝台ではなくイレーネに差し出した。
「王女殿下から、お預かりしてまいりました」
「エルザが」
「苦いお薬のあとにひとつぶ、と。おにいさまは苦いのがきらいだから、と」
イレーネが袋の口をほどいた。琥珀色の粒が、彼女の手のひらに転がり出た。蜂蜜を固めたものだった。
イレーネは一粒を小刀で半分に割って、断面をあらためた。においを嗅いで、片方を自分の舌に載せる。少し待ってから、もう片方をアロイスの手のひらに置いた。
苦くはなかった、と言いかけてやめた。
口に入れると、甘かった。舌の上で、ゆっくり溶けていった。
「残りは、明日のぶんだ」
「お預かりします。明日の朝も、わたしの手からお渡しします」
イレーネは袋の紐を結んで、薬箱の中にしまった。
それからアロイスの手首に指を当てて、数えはじめた。
午後になって、次官が扉の外から戻ってきた。
「殿下。古いお家のご当主方が、お目通りを願っておられます」
アロイスは、枕を背に当てて座っていた。朝の粉のあと、震えは四半刻で狭まった。昼にイレーネが確かめて渡した重湯も、椀の半分まで飲めた。
「何の用だ」
「上申の紙をお持ちです。ゆうべ宰相府に届いたものと、同じ紙で」
次官は、表情を変えずに続けた。
「殿下の朝の御粉を止めよ、という上申でございます。ハーゲン家の印がいちばん上に。伯ご本人も、昼前に王都へお戻りになりました」
「ハーゲンは、カルディアにいたのではないのか」
「和睦の卓で、聖女さまのお手紙をお読み上げになりました。その日の船で帰されております。読み上げられたお手紙は、卓の記録の写しと一緒に、おととい宰相閣下の早馬で差出人へ返されました」
アロイスは、しばらく黙っていた。
朝の紙が、膝の横に置いてある。
「……あの女も、一緒か」
「廊下に。お通しはしておりません」
「通すな。だが、扉は閉めなくていい」
次官が、ほんの一拍だけこちらを見た。それから、扉を開けに行った。
入ってきたのは、四人だった。
先頭が、ハーゲン伯だった。白髪まじりの頭に、旅の埃がまだ残っている。外套の裾には、乾いた泥がこびりついていた。後ろに、古い家の当主が三人。白い髭の年寄りと、痩せた中年と、まだ三十にならない若いのだ。どの顔にも、見覚えがあった。
扉の向こうの廊下に、白い衣が見えた。
ミレーヌだった。扉の隙間から、こちらをのぞきこんでいる。一歩も入ってこないのは、扉の脇に侍従のヨアヒムが立っているからだ。
ハーゲン伯は、寝台の前で礼をした。
「殿下には、お加減よろしゅう。古い家の者が揃って、お願いにまいりましたぞ」
椅子は、勧めなかった。伯は、立ったまま懐から紙を出した。
「お読みいたします」
扉の脇で、次官の眉がわずかに動いた。
伯は、胸を張って読みはじめた。
「王太子殿下が毎朝お飲みになる御粉は、追われた薬屋あがりの女が残していった毒である。聖女ミレーヌ・ラセル殿が、御自ら確かめられた。乳鉢に残っていた粉を、ほんの少し聖水に加えただけで、殿下の御脈は止まりかけた」
伯の声は、よく通った。
「よって御粉を即刻止め、殿下の御身を聖女の祈りにお委ねいただきたい。ハーゲン家、ならびに――」
家の名が、四つ続いた。
読み終えると、伯は紙をたたんで満足そうに顎を引いた。後ろの三人も、うなずいた。
アロイスは、伯の顔を見たまま言った。
「その聖水を、私に飲ませたのは誰だ」
「……は。それは聖女さまが、御自ら」
「粉を入れたのは」
「聖女さまでございます。毒の正体を、確かめるために」
「確かめるために、私に飲ませたのか」
伯の口が、開いたまま止まった。
アロイスは、続けた。
「お前の読んだ紙には、そう書いてある。粉を水に入れて私に飲ませて、私の脈が止まりかけた。……では、私に毒を盛ったのは誰だ」
後ろの若い当主が、伯の背中から半歩さがった。痩せた当主は、自分の足もとを見ていた。
「い、いや、殿下。それは、毒が毒だと知らしめるための――」
「次官」
「はっ」
「大聖堂の司祭を呼べ。あの朝、壁ぎわにいた年寄りだ」
次官は一礼して、出ていった。
司祭が来るまで、四人は立ったままだった。
誰も、口をきかなかった。窓の光が、床板の上を少しずつ動いていった。伯は二度、旅で痛めたらしい膝に手をやった。椅子は、最後まで勧めなかった。
廊下の白い衣は、扉の隙間から動かなかった。
やがて腰の曲がった老人が、次官に付き添われて入ってきた。紫の帯を首から下げている。
ベネディクト司祭は寝台に一礼してから、四人の当主を見た。それから、伯の手の中の紙を見た。
「司祭。あの朝のことを話せ。見たとおりでいい」
「見たとおりを、申し上げます」
老人の声はしわがれていたが、はっきりしていた。
「私は、見届け役として聖女さまに連れてこられました。聖女さまは窓のそばの小卓で乳鉢の粉を指でこそげて、小瓶の水に入れられました。その水を、殿下にお飲ませになりました」
廊下で、ミレーヌの声がした。
「司祭さま!」
司祭は、そちらを振り向かなかった。
「殿下のお脈が遅くなったのは、そのあとです。宮廷薬師どのが吐かせて、昼前まで脈を数えておられた。祈りで、何かが出ていったのではございません」
「違いますわ!」
扉の隙間から、白い袖が突き出た。
「わたくしは確かめただけですもの。毒女の粉が毒だと皆さまに分かっていただくために、ほんの少し足しただけですわ!」
三人の当主が、いっせいに扉のほうを見た。
毒だと思っているものを、殿下の水に足した。それを本人が、自分の口で言ったのだ。
司祭が、はじめてミレーヌのほうを振り向いた。
「祈りの名で殿下にそれを飲ませたのは、あなたです」
白い袖が、隙間から引っこんだ。
司祭は寝台に向き直って、もう一度頭を下げた。
「大司教さまのお言葉を、お伝えいたします。大聖堂は今日をかぎりに、あの方を聖女とはお呼びいたしませぬ。安息日ごとに祈りを捧げてこられた石段も、聖女の名も、お返しいただきます」
伯の手の中で、紙がかさりと鳴った。
伯の顔が赤くなって、それから白くなった。
「殿下」
声が、急に大きくなった。
「そもそも殿下が、あの薬屋あがりの娘を追い出されたのではございませぬか。薬なんぞ誰が淹れても同じだと、満座の前で仰せになったのは、殿下ご自身で――」
後ろの三人が、ぎょっとした顔で伯を見た。
寝室の空気が、ぴんと張った。
アロイスは、伯の顔から目をそらさなかった。
あの広間で、自分の声が天井まで響いたのを覚えている。誰でもできる、と言った。なんの効き目もなかった、と言った。
「そうだ。私が言った」
伯の口が、また止まった。
「あれは、私の言葉だ。だから、私が負う。毎朝、こうして負っている」
アロイスは、伯の手の中の紙を指さした。
「お前が読んだそれは、お前の言葉だ」
「殿下、これは聖女さまの――」
「お前が、自分の口で読んだ」
扉の脇で、次官が一歩前へ出た。
「ハーゲン伯。カルディアの卓でも、宰相閣下に同じことを言われたはずでございます」
伯の喉が、ごくりと動いた。
「その上申は、宰相府でお預かりいたします。お名を連ねた家々の、お言葉として」
白い髭の当主が、慌てて口を開いた。
「わ、われらはハーゲン家の奥方に頼まれて、印を押しただけで――」
「では、印を押されたのですね」
次官の声は、いつもと同じ調子だった。
「お名前は、そのまま宰相閣下のお手もとへ参ります」
白い髭の当主は、自分の指にはめた印章の指輪に目を落とした。上申の紙のいちばん下には、それと同じ形の朱が押してある。当主は、それきり黙った。痩せた当主が、喉の奥で小さくうめいた。
伯が、紙を握りしめた。それから、急にくるりと扉のほうを向いた。
「われらは、欺かれたのだ。毒を盛ったのは、あの女だ!」
扉の隙間の白い衣が、びくりと揺れた。
アロイスは、枕から背を起こした。
「ハーゲン」
伯が、振り返った。
「二度と、私の前に出るな」
伯の顔から、表情が抜けた。
「それから、覚えておけ。薬屋あがりではない。セレナ・フェアミルの量りで、私は今朝飲んだ」
伯は、何か言おうとした。言葉は出てこなかった。紙を次官の手に押しつけるように渡して、扉のほうへ向かった。
三人の当主が、伯から少し離れてあとに続いた。誰も、伯に声をかけなかった。
扉の前で、ミレーヌが一歩踏み出した。伯の袖に手を伸ばす。
「伯爵さま。わたくし、殿下のために――」
伯は、袖を引いてその手をかわした。足を止めずに言った。
「ハーゲン家の門は、もう開きませんぞ。毒女めが」
廊下に、四人の足音が遠ざかっていった。
司祭も、寝台に一礼して出ていった。ミレーヌのそばを通るとき、何も言わなかった。
扉の隙間に、白い衣だけが残った。
「……殿下」
ミレーヌの声は、さっき廊下で叫んだときの半分もなかった。
「わたくしは殿下のために、お祈りを」
アロイスは、答えなかった。
膝の横に置いた朝の紙を、手もとへ引き寄せた。
「次官。この者を控えの間に留めておけ。宰相府の者が来るまで、どこへも出すな」
「はっ」
次官が廊下へ目をやると、ヨアヒムがミレーヌの横に立った。
「それから、扉を閉めろ」
次官が、扉に手をかけた。
閉まっていく隙間の向こうで、白い袖が一度だけ持ち上がって何もつかまずに下りた。
扉が閉まった。
会談から六十五日め、夕方の調薬室だった。
あの朝から数えて、十朝め。向こうで始め直せたなら、早い知らせが着くのは今日になる。
セレナはそれを、朝から何度も数え直していた。
「セレナ様。それ、ため息何回目です?」
干し棚の陰から、リタが顔を出した。
「ため息なんて、ついておりませんわ」
「ついてます。お客さんを帰すたびに戸のほうを見て、ふうって」
「……数えていらしたの」
「七回です」
棚の上で、コハクが大きなあくびをした。
列は、あと一人だった。漁師のおかみさんに手を引かれた、六つくらいの娘だ。昨日から喉が痛くて、唾を飲むたびに顔をしかめるという。
セレナが娘の口の中をのぞいていると、外の通りが騒がしくなった。
駆けてくる足音がした。小さい足音と、それを追いかける大人の足音だった。
戸が、勢いよく開いた。
「セレナ!」
エルザだった。頬を真っ赤にして、息を切らしている。後ろで供の侍女が裾を持ち上げたまま、戸口の柱につかまっていた。
「エルザ様。廊下は走らないお約束では」
「ここは廊下じゃないもの」
エルザは、そのままセレナの前掛けに飛びついた。
「おにいさま、お薬のんだって!」
セレナの手が止まった。
「ヴァルターのところに、早馬のお手紙が来たの。おにいさま、七つめの朝にお薬をのんだって。それでね、なんにも言わないでのんだんだって」
「……なんにも、言わないで?」
「うん。それでね、わたしのはちみつをひとつぶ食べたって。のこりは、明日のぶんだって!」
エルザは、得意そうに胸を張った。
「ヴァルターが、そう言ったの。だから、まちがいないのよ」
セレナは、しばらく何も言えなかった。
紙のほうは、間に合った。
体のほうも、間に合ったのだ。
リタが、横から首をかしげた。
「なんにも言わないで、って。それ、なんか意味あるんですか」
「殿下のお手紙の余白に、書き足しましたの。黙ってお飲みくださいまし、と」
「は」
リタの口が、ぽかんと開いた。
「王太子さまに、黙って飲めって書いたんですか!?」
「ええ。くださいまし、もちゃんとつけましたわ。お行儀よく」
「そういう問題じゃないです!」
セレナは、エルザの頭に手を置いた。
「言いつけを守れる方でしたのね。七年前から、そうしていただきたかったですわ」
エルザが、よく分からないという顔で見上げてきた。
「セレナ、うれしいの?」
「ええ。とっても」
侍女に呼ばれて、エルザは戸口へ向かった。出ていくまぎわに、くるりと振り返った。
「セレナ。わたしの九つの春は、はちみつよりいいものよ。ないしょね」
人さし指を、ぴんと唇に当てる。
セレナも、同じ仕草を返した。エルザは満足そうに笑って、今度こそ駆けていった。
この子が九つになる春までに、蜂蜜よりいいものを用意する。先に約束したのは、セレナのほうだった。
盾の帳面は、まだ一行目しか埋まっていない。
入れかわりに、ジェラルドが入ってきた。
戸口で、走っていくエルザの背中を見送っている。
「先を越されたな」
「ええ。エルザ様の早馬は、宰相閣下の早馬より速いんですの」
ジェラルドは、卓の端に手をついた。
「同じ馬で、エルンスト卿のところにも本国の報せが来た。卿が卓に出した。ハーゲン伯が帰り着いたその日に、殿下の枕もとで紙を一枚読み上げたそうだ。粉を止めよ、という古い家の上申だ。四つの家が名を連ねていた」
セレナは、思わず手を口もとにやった。
「また、お読みになったの?」
「また読んだ」
「懲りない人!」
リタが叫んだ。棚の上のコハクが、びくっと耳を立てた。
「上申は宰相府が預かって、伯は殿下の前に出るのを禁じられた。それから」
ジェラルドは、少しだけ間を置いた。
「大聖堂は、もうあの女を聖女と呼ばないそうだ。報せには、ラセル嬢と書いてあった」
「……そうですの」
「伯は退がる前に、殿下の御前で申し立てたそうだ。毒を盛ったのは、聖女のほうだと」
リタが、セレナの顔を見た。
セレナは、乳鉢を拭いていた布を卓に置いた。
「あら。毒を盛った女、ですって。それ、わたくしのお古ですのに」
「お古?」
「毒女。ついこのあいだまで、わたくしの呼び名でしたもの。お下がりにするには、ずいぶん早うございますわね」
「……それ、笑っていいやつですか」
リタが小声で訊いた。ジェラルドは横を向いて、咳払いを一つした。
「あの方は、どちらへ」
「そこまでは、書いていない」
「そう」
セレナは、それ以上は訊かなかった。
祈れば明日の朝は来るのか。婚約破棄のあの広間で、セレナはミレーヌにそう訊いた。殿下の寝室で同じことを訊かれて、ミレーヌは、分かりません、と答えたという。
答えを持たないまま、ミレーヌは毒だ奇跡だと自分の口で言いつづけた。それがいま、自分のほうへ返ってきたのだろう。セレナには、そう思えた。
セレナは、窓の外へ目をやった。公館の屋根が見える。その奥の一棟に、エルデンの客間がある。
「四つの家のお名前が、宰相府に」
「ああ」
「閣下は、覚えるのは苦手だとおっしゃっていましたわ」
聖水の朝に寝室で粉の話を聞いた五人の名を数えて、宰相の手袋の指は全部折れた。いまは、四つの家ぶん名前が増えている。
「宰相は今日の卓で、そのことに一言も触れなかった」
ジェラルドは、それだけ言った。
セレナは、うなずいた。
殿下の体は、間に合った。粉を減らしていく話も、これでやっと始められる。けれどそのためには、あの客間の扉の向こうの人ともう一度向き合わなければならない。
「セレナ様」
リタが、そっと袖を引いた。
「列。あと一人です」
「あら、いけない」
漁師のおかみさんと娘が、長椅子の端で待っていた。娘は口をへの字にしたまま、セレナの手もとをじっと見ている。
セレナは乳鉢を引き寄せた。喉の腫れに効くセージの葉を挽いた粉を、匙ですくう。湯冷ましに蜂蜜をひと垂らしして、粉を落とした。
匙の先が、椀のふちで二度鳴った。
娘が、ぱっと顔を上げた。
「いまの、なあに」
「あら。……癖ですわ。七年、毎朝鳴らしていたものですから」
娘は、へんなのと言って笑った。それから、椀を両手で受け取った。
七年鳴らして、何の音かと訊かれたのは、これが初めてだった。




